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  1. 足あと帳(52)
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*掲示板をお持ちでない方へ、まずは掲示板を作成しましょう。無料掲示板作成


Re: こんばんは!

 投稿者:比々き  投稿日:2020年 2月26日(水)13時11分20秒 softbank126012106077.bbtec.net
返信・引用
  > No.5291[元記事へ]

> 本日、NHK松山放送局の番組のムービング俳句コーナーで惜しい20句に
> 採っていただいていましたよ(*^-^*)
> 帰宅部の俳句です。
> みなとも入っていましたが、砂糖壺壊し・・のし。。が抜けていました。
> まあ‥良いっか!です。自信あった白旗掲げの句は没でした( ;∀;)


みなとさん、お知らせありがとう!

https://www.nhk.or.jp/matsuyama-blog/hirukuro/haiku/

「おひるのクローバー」のムービー俳句も次回で終わり、四月からは番組名も「夏井いつきの四季めぐり」にリニューアル、新たに「しこく歳時記」を作るみたいですね。
写真も募集しています。

https://www.nhk.or.jp/matsuyama/post/haikuform.html

第一回目は「桜」。

四国らしい桜ってどんなのだろう?

想像力全開で、北海道から、東京から、桜の句、送りましょうね!



 
 

こんばんは!

 投稿者:みなと  投稿日:2020年 2月25日(火)22時53分23秒 g188.124-45-89.ppp.wakwak.ne.jp
返信・引用
  本日、NHK松山放送局の番組のムービング俳句コーナーで惜しい20句に
採っていただいていましたよ(*^-^*)
帰宅部の俳句です。

みなとも入っていましたが、砂糖壺壊し・・のし。。が抜けていました。
まあ‥良いっか!です。自信あった白旗掲げの句は没でした( ;∀;)

https://rimado.at.webry.info/

 

Re: 見落としていた点

 投稿者:比々き  投稿日:2020年 2月24日(月)15時13分40秒 softbank126114190216.bbtec.net
返信・引用 編集済
  > No.5289[元記事へ]

>  ただ、これらを発見するためには、一度「俳句を詠む」という意識さえ捨てる必要なあるのかもしれない、と思いました。俳句の材料になるかどうかはさておき、そこに何があるのかをまず観察してみようと。
>  特に「自然が豊か」だと言われる沖縄で育っていながら、文明に毒され、半端な都会人となっている私にとっては、実に耳の痛い話でした(苦笑)。
>  句作を通して、自分の生まれ育った沖縄という場所を再発見していく。今それをやらなきゃいけないと、改めて強く感じた次第です。


下記の坊城さんの言葉も、「観察」「写生」「花鳥諷詠」を旨とする「ホトトギス」の末裔ならではの言葉。

「入選する」ことばかりが頭を占めていると、「自然」を観察しても「入選のための種」を捜す、そんな見方になります。

自然を「利用」するだけで、自然から学ぼうとしない。

ハイポの「冬眠」の時、冬眠する動物や虫たちのことを色々調べていくうちに、私の心の中には、餌の無い時期を眠ってやり過ごす、まさに省エネの「生き残り戦略」を編み出し、採用した、「動物ってすごい!虫ってすごい!」、という彼らの智慧への尊敬と、感動が生まれていました。

蜂たちも外敵に対して蜂球を作って、熱死させる。

昆虫たちも、芋虫から蛹になり、その蛹の中で一辺筋肉をドロドロに溶かし、やがて蛾や蝶として飛ぶための翅や筋肉を再構成する。

こんな手品のようなことを虫たちは、人間がこの地上に登場する、遥か前からやっているんですね!

こういうことを知った以上、もう「虫けら」なんて蔑んだ言い方は出来ない。
それほど、彼らは賢い離れ業を、はるか太古の昔からやってのけているわけです。

植物然り。
風媒花、虫媒花、などなど、花ごとにそれぞれ子孫を残す素晴らしい戦略があり、その方法はまさに「自然の驚異」であり、多様!
「賢い!」と感嘆するほかない!

目先の利益のために「自然」を破壊し、毒を撒き散らして平気な人間の方が、「万物の霊長」という称号が恥ずかしいほど、知恵がなく、よほど愚かだと言わざるを得ません。

こういう側面を見逃して、いくら入選しても、それは虚しい栄光というもの。

俳句作者の心の底に「自然への畏敬の念」(それは唯一無二の個々の人への敬意にもつながります)、それが宿っていて、その畏敬や感動に内発されて生まれてくる句、そういう句こそホンモノのような気がします。

俳句が自己顕示の道具になり、入選したいがため、他者に対し優越感を抱きたいがために、テクニックに腐心する、そのことの虚しさに、私たちは早く気づかねば、とそう思います。

 

見落としていた点

 投稿者:南風の記憶  投稿日:2020年 2月24日(月)13時10分52秒 sp49-104-28-246.msf.spmode.ne.jp
返信・引用
   比々きさん、皆様こんにちは。

 ここ数日の、比々きさんの自然と俳句に関する考察、興味深く読ませていただきました。それと言いますのも、比々きさんの書かれていたことは、私のここ最近の句作における“引っ掛かり”と、どこかつながるのではないかと思ったからです。

 私の今の句作は、頭の中で「季語とその周辺にあるもの」を想像して、面白いと思ったものを片っ端から拾っていくという方法です。このやり方で、結果自体は安定してきたのですが……どこかスッキリしない部分がありました。

 このスッキリしない原因が、しばらく自分でもよく分からず、いっそ当掲示板にて、比々きさんにアドバイスいただこうかなとも思っていたのです。

 ですが、比々きさんの考察を読んでいるうちに、だんだんと見えてきたものがありました。見落としていたものがあったのです。

 俳句における「取り合わせ」の基本として、季語との距離感ということがあります。私は、距離感のちょうど良いものを探そうと意識が働いていました。ところが、この視点では発見できないものがあると気付きました。

・季語と「近い距離」にありながら、意外に目に付きにくいもの
・季語と「遠い距離」にあるようで、実は季語と相性が良いもの
・季語そのものの、意外と見落としがちな性質

 これだけのものを見落としていたのですから、スッキリしなかったはずです(笑)。
 ただ、これらを発見するためには、一度「俳句を詠む」という意識さえ捨てる必要なあるのかもしれない、と思いました。俳句の材料になるかどうかはさておき、そこに何があるのかをまず観察してみようと。

 今まで見落としていたものを探す。これが、今の句作のテーマです。私の地元・沖縄のことをもっと詠まなければと思ったのも、そこから派生してのものでした。

 さて、比々きさんの考察に関して、私なりに感じたことはまだあります。特に「自然が豊か」だと言われる沖縄で育っていながら、文明に毒され、半端な都会人となっている私にとっては、実に耳の痛い話でした(苦笑)。

 句作を通して、自分の生まれ育った沖縄という場所を再発見していく。今それをやらなきゃいけないと、改めて強く感じた次第です。

https://stand16.hatenablog.com/

 

坊城俊樹さんの言葉

 投稿者:比々き  投稿日:2020年 2月24日(月)11時19分46秒 softbank126114190216.bbtec.net
返信・引用
  角川「俳句」2019年12月号43pの坊城俊樹さんの言葉、大いに共感したのでシェアしますね。


《俳句をしてみて実感したことは、人とはかくも醜く、チンピラで傲慢で、地球という母体にとっては凡そ必要も無い、哀しい存在であることであった。
 そして我々は、そのことを天地や動物、植物たちに謝罪をする。その媒体こそが俳句なのであることを思わずにはいられないのである。》

 

Re: 時事であり日常でもある光景

 投稿者:比々き  投稿日:2020年 2月24日(月)11時10分15秒 softbank126114190216.bbtec.net
返信・引用 編集済
  > No.5286[元記事へ]

>  私にとっての「日常」の一部を切り取っただけなのに、外から見れば主張のきつい句だと捉えられてしまう。そういう空気感の存在を、強く感じました。
>  選者の方によっては、「オスプレイ」の語が入っているだけで、政治を句に詠むべきではないと落選させるかもしれません。
>  それを神野紗季先生は、採ってくださった。しかも「政治的主張を込めた」のではなく、あくまでも「沖縄の日常を切り取った」のだということを、しっかり見抜いて下さった。このことが、何よりの驚きであり、嬉しいことでした。


俳句甲子園でも、選者によって紅白の票が分かれます。
全員が同じ句に旗を上げることは稀。

以前プレバトでも宇田喜代子さん、高野ムツオさん、井上康明さんが出演され、子供たちの句を選んだ際も、票が割れましたよね。
打ち上げの場でさえ賛否を争ったというくらい、句の好みに関しては我を押し通し、譲らない。

「和」を優先して折れたり、「自分の本音を殺して」意見を合わせたり、そういうことをしない。
つまり周りと齟齬が生じても、あくまで「本音」で生きる、それが俳人という人種なんですね。

要するに、選は「絶対ではない」ということ。
全員が納得する句など、まず無いということ。

以前私も句会で主催者の特選をとった時、会が終わった後、ハイポの天地常連の方から「措辞が冗長すぎる。もっと情報を入れる余地がある」とケチを付けられたことがあります。
私はゆったりした句が好きだけど、その人はきっと情報の詰まった句が好みだったのでしょう。

要は「好み」なんですよね!

組長のプレバトの選評は、いいところをまずきっちり褒めてから、改善点を指摘、提案しますよね。
いきなり上から目線で、欠点を指摘することはありません。

自句への評を聞いて、違和感を感じたり、厭な経験をすることは、「人の振り見て、我が振り直せ」で、次に自分が他の人の句を評する際、何をし、何をしてはいけないか、自分の俳句観、好みを押し付けていないか、自己省察するよう教えてくれる、貴重な経験。

大事なことを学ばせてくれたことに感謝して、是非そういう経験も、自分の成長のための肥やしにしていきたい、そう思います!



 

時事であり日常でもある光景

 投稿者:南風の記憶  投稿日:2020年 2月23日(日)18時42分14秒 sp49-96-22-218.mse.spmode.ne.jp
返信・引用
   比々きさん、皆様こんにちは。
 拙句「ガジュマルの巻きつく空やオスプレイ」について。俳句では、自分の句のことを語るのは野暮だとされているのですが、少しばかりお許しを(m(__)m)。

 先日、俳句ポスト等に投句されている方にこの句を見ていただいたところ、「オスプレイ」に政治的主張が強く、違和感があるとの感想を頂きました。この方は、特段偏見の強い方ではありません。なので、同様に感じる方は少なくないのだろうと。

 しかし……オスプレイが飛ぶ光景というのは、沖縄の人間にとって「時事」ではなく、紛れもない「日常」なのです。
 私にとっての「日常」の一部を切り取っただけなのに、外から見れば主張のきつい句だと捉えられてしまう。そういう空気感の存在を、強く感じました。

 選者の方によっては、「オスプレイ」の語が入っているだけで、政治を句に詠むべきではないと落選させるかもしれません。

 それを神野紗季先生は、採ってくださった。しかも「政治的主張を込めた」のではなく、あくまでも「沖縄の日常を切り取った」のだということを、しっかり見抜いて下さった。このことが、何よりの驚きであり、嬉しいことでした。

 もっとも考えてみれば、神野先生は、夏井いつき組長の作った俳句甲子園の出身です。組長の批評精神を受け継いでいる神野先生ならば、むしろ当然のことなのかもしれません。

 ともあれ……依然として沖縄問題に対して、どこか腫れものを扱うような空気感が残っているのならば。組長を敬愛する一俳人として、いま目の前にある沖縄について、これからも詠み続けなければならないと、強く感じています。

 微力な私に、どこまでできるか分かりませんが……とにかくやってみます。

https://stand16.hatenablog.com/

 

詩とは何か―「分からない」から始まる未来

 投稿者:比々き  投稿日:2020年 2月22日(土)16時10分37秒 softbank126065230058.bbtec.net
返信・引用 編集済
  角川「俳句」2019年12月号に、神野紗希さんが素晴らしい時評を書いておられます。

句会などの選評で「分からない」と言われたこと、皆さんはありませんか?
私はある結社のネット句会で、それを毎回のように連発されて、とうとうそこのネット句会に投句するのを辞めた経験があります。

その時の私の感触は、選者は「分からない」のではなく「分かろうとしない」のだということ。
一読意味が明解な句を良しとしているということ。

正人くんの「読み」の、分からないけど「分かろう思って読めば、それなりに読める」というスタンスと真逆なんですね。

私は若いころ詩をやり、中年になって短歌、そして今俳句をやっているので、「詩」というものについてはそれなりに考えてきたつもりなのですが、以来「もしかしたら俳句の詩って、私が思っていた詩とは違うのかもしれない」という感覚が、ずっと拭えないでいました。

神野さんは、俳句は世界最短の詩だが、その「詩って何?」から始め、川本晧嗣著『俳諧の詩学』(岩波書店)から、次の文を引用しておられます。

《詩というものの特徴は二つある。表現の意外性と意味の不確定性だ。まずどこか引っかかる、変な言い方をすることと、それから、その意味がよくわからないこと――これがそうだと意味をはっきり断定できないことだ。(略)そういう特徴をあらわにして、そこに読者の注意を惹くこと自体に、詩の最大のねらいがある。》

《俳句は「片言だから意味がよくわからない、決められない」がゆえに可能性を秘めており、「短いからこそ〈詩〉が前面に出る」、描写やストーリーや思想を容れる余裕がないため、詩のことばの特徴である「意味の不確定性そのものを表面化し、強調し、読者に痛感させる」ことのできる「詩の中の詩」だと定義する。》

●「詩」は「分からない」から面白い、の副見出しでは、

《よくできた俳句の妙味は、最終的・決定的な意味の読み取りではなく、そういうきりのない往復運動にある。(略)表現と解釈のあいだを行ったり来たりする行為そのものが、〈詩〉なんだ。ただ一つの正しい解釈と引き換えに、表現自体があっさり手放されるようなところには、〈詩〉の出る幕がないと言っていい。》

神野さんも言います。

《誌上や句会の合評で折々「分からない」という語がネガティブな評価として使われるが、あまり簡単に分かってしまっても、読者はその作品の前をただ通り過ぎるのみで、詩は生まれないのだ。》

《一つの解釈に収斂できないからこそ、受け取る人の心に「きりのない往復運動」が起きる。句の前で立ち止まり、Aかもしれない、はたまたBかもと解釈の可能性を考える。その回り道にこそ、詩の楽しみがある。》

川本さんも、本の中でこう言います。

《俳句の作者の仕事は、わずか十七字のなかで何かを「述べる」、あるいは「いひおほせる」ことではなく、マラルメの言い方を借りれば、読み手を「夢見させる」ためのことばの装置を組み上げることにこそある。》

また注意点として、神野さんはこう書いています。

《もちろん「分からない」なら何でもいいわけではない。思わせぶりが鼻につく場合や、でたらめに組み上げられた言葉ではないかと疑いが生まれる場合は、読者は一句に心をゆだね、夢を見ることができない。でも、「分かる」を超えて、「分からない」を超えて、そこに存在するだけで私たちの心の奥の大切な場所に触れてくる、そんな言葉を生み出せたとしたら。》

結論で、神野さんはこう書きます。

《「分からない」を否定的な意味で使うのは、もうやめよう。そこには、新しい詩の種が息づいているかもしれないのだから。「分かる」過去より「分からない」から始まる未来を。これからの俳句が、変わらず、詩であり続けるために。》


これを読んでようやくくすぶっていたものが晴れた、そんな気持ちになりました。

芭蕉も言っています。

「言ひおほせて何かある」(言いたいことを全部言ってしまったら、どこに妙味が残るというのか)、と。






 

Re: やらなければならないと思ったこと

 投稿者:比々き  投稿日:2020年 2月22日(土)14時31分39秒 softbank126065230058.bbtec.net
返信・引用 編集済
  > No.5283[元記事へ]

>  灯台下暗しと言いますが、身近なものには、意外に目が回らなかったりします。本当は、私しか知らない沖縄の自然、沖縄の空気感というものがあるはずなのに、それを沖縄の人間であるはずの私自身が知らないのではないか。俳人として、これではいけません(苦笑)。
>  ちょうど青嵐俳談は、当季雑詠です。三句まで出せるので、一句は必ず「沖縄の季語」で詠むと決めて、先週より取り組み始めました。結果が出るかどうかは別として、今まで見落としていたものを、少しでも再発見できればと思っています。


南風の記憶さん、素敵な決意表明を、ありがとう!
こうやって常に内省し、常に自分を内側から創り変えていく、その結果としていい句が生まれる、そう私も思っています。

初心の内は、「入選したい」が先に立って、どうしても上辺のテクニックだけを追求しがち。
ですが、やればやるほど人間性が、中身が大事なんだと気づかされます。

「青嵐俳談」の年間大賞入賞も、そういう南風の記憶さんの心を密かに見ておられる、俳句の神様からの励ましだと、私は思いますよ。

 ガジュマルの巻きつく空やオスプレイ 沖縄 南風の記憶

「自然」から切れたところで、季語を単なる俳句の「素材の一つ」ぐらいにしか考えずに作っていると、「上手・下手」が人間を量る尺度になってしまい、上手ければ上手い人ほど、下手な人を見下すようになる、そんな気がします。

一人一人はオンリーワンの存在、比較してどうこう言うことの出来ない唯一無二の存在です。
上手な句ではなく、「そのひとらしさ」「自分らしさ」が滲み出ている句、それを是非目指したいですね!

 

やらなければならないと思ったこと

 投稿者:南風の記憶  投稿日:2020年 2月22日(土)10時34分22秒 sp49-104-7-56.msf.spmode.ne.jp
返信・引用
   比々きさん、皆様おはようございます。
 最近、「うりずん」や「デイゴ」といった沖縄特有の季語を使った句作に取り組んでいます。これは今、やらなければならないという思いから始めました。

 私は今まで、何度か沖縄の時事の句を詠んできたのですが、その感覚が「沖縄の出来事をニュースで見ている県外の人」と変わらないのではないかと、ある種のもどかしさを感じていました。

 灯台下暗しと言いますが、身近なものには、意外に目が回らなかったりします。本当は、私しか知らない沖縄の自然、沖縄の空気感というものがあるはずなのに、それを沖縄の人間であるはずの私自身が知らないのではないか。俳人として、これではいけません(苦笑)。

 ちょうど青嵐俳談は、当季雑詠です。三句まで出せるので、一句は必ず「沖縄の季語」で詠むと決めて、先週より取り組み始めました。結果が出るかどうかは別として、今まで見落としていたものを、少しでも再発見できればと思っています。


https://stand16.hatenablog.com/

 

正人くんの選評が、すごい!

 投稿者:比々き  投稿日:2020年 2月19日(水)12時35分17秒 softbank126065204140.bbtec.net
返信・引用 編集済
  俳句甲子園優勝校の弘前高校のディベートが「なんてすばらしい!」と思っていたら、正人くんの選評はもっとすごかった!

暖ったかくて、濃やかで、作者への愛が溢れていて、こんな選評だったら、やる気を絶対削がれることはない!

彼いわく。これは組長の普段の句会の選評を再現したものだとか。

人を小馬鹿にしたようなネット句会の選評に傷ついた人の話を、このところ立て続けに聞いたので、余計身に沁みます。

ハイポニストなら是非見習うべしの、必見の選評動画です!

家藤正人の「俳句裾野探訪」
http://masato-iefuji.jugem.jp/?eid=168
http://masato-iefuji.jugem.jp/?eid=169
 

俳句を募集しています

 投稿者:比々き  投稿日:2020年 2月18日(火)22時52分49秒 softbank126114251177.bbtec.net
返信・引用 編集済
  暁光堂俳句文庫さんが富澤赤黄男と久保田万太郎の全句集刊行を記念して俳句を募集しています。

『富澤赤黄男と久保田万太郎をめぐる冒険』

日時:2月23日(日) 20:00-21:30
出演:生駒大祐、柳元佑太
配信:YouTube

おふたりがライブで選評します!

・題『雲』または『春』
・投句数制限なし

投句はgyoukoudou@http://gmail.com まで!




 

自分が目指す世界を、右顧左眄せず、まっすぐ進む

 投稿者:比々き  投稿日:2020年 2月18日(火)12時49分43秒 softbank126065229145.bbtec.net
返信・引用 編集済
  日本は自然を大事にする国、というのは真っ赤な嘘で、日本くらい「和」という美名のもとに、「本音」という心の発する声、一人一人の「自然」を殺してきた国はないのでは、というのが私の正直な印象。

だから昔に比べたら格段に経済的には豊かになり、食品廃棄物がハンパないほど衣食住が足りてるのに、自殺は多いし、いじめは多いし、引きこもりも多いし、閉塞感がモロ顔に出ていているゾンビ人間ばかり。

それが、自然といちばんつながっているはずの、俳句の世界にまで広がっているんじゃないか。

以前この掲示板にも、某結社所属の方からの書き込みで、句会では、主宰の句に点数が入らなかったらまずいから、主宰の句には予め印をつけておく、という呆れた実態が暴露されたり、やはりある方が、初心者にもかかわらず入選したら、結社の古株から「入選を辞退するように」というメールが来たなど、俳句をやっていても、中身は世間並なのが実情。

俳句をやって救われるどころか、むしろ余計な人間関係のストレスを抱え込んでいる。

組長も俳人になる宣言をした後の経験として、組長と話しただけで、それがバレるとその人は結社でつるし上げを食った、と書いてましたが、まったく俳句の世界はいいことばかりではない、呆れた俗物的側面も大いにある胡乱な世界。

私個人の体験でも、組長ブログに書き込んだ私の「お礼」コメントに対し、「あんなコメントを書くと組長に迷惑がかかる。組長が声が出ないのを無理して来たのがバレてしまう。皆その辺を考えてコメントしているのだから、これからは気を付けて」といった内容の個人メールをよこしたいつき組の古株がいた。

勿論すぐ反論して、「ブログの管理者がコメントをアップしても問題ないと判断したのだから、それを言うならブログの管理者に言って。貴方が言うのは明らかに越権行為」と返事したら「言う相手を間違えました」と返ってきたので、あきれてしまった。

以前この掲示板で起きた名簿問題の時も、某やはりいつき組みの古株からツイッターのダイレクトメールで「あなたがまる裏に来ても、誰も歓迎しないでしょう」というメッセージが来た。
その後のまる裏で誰かが「一句一遊」を基に名簿を作って会場に貼りだした時には、誰も何の抗議もしないというダブルスタンダードに、またもや呆れてしまった。

俳句をやるということは、こういう誹謗中傷にも耐え、それでも「やる」を選ぶこと。
ブログを読めばわかるように、組長もそういう誹謗中傷に耐える日々を今も送って、それでもあえて「やる」を選んでいる。

俳句をやれば単純に「救われる」わけではないのだ。
精神がタフでないと、俳句の世界でははじき出される。
異分子は排除される。
大半を占める俗物たちが、右顧左眄を強いる。

多分彼らは日常で自分の本音を殺し、「和」を大事にする「いい人」をやっている。
だから人にも本音を言わさない、自分を殺すことを強いる。

それが「不自然」であることになど、全く思いを致さない。
彼らにとって一番大事なのは「自分の評判」だから。

俳句の世界が、そんな「不自然」に乗っ取られていいものなのか?と私は思う。

俳句は、物事の本質を追求し、発見する、そこに意義がある。
常識に刃向かうのが、俳句だ。
自然に反した言動をして、俳人を名乗るのはおかしくないか?

主宰であれ、古株であれ、彼らに右顧左眄して「いい人」と見てもらう、そんなの俳句でも何でもない。

昔の俳人にそんなのはいない。
みんな本音でぶつかり合っている。

普段から自分の心の声「本音」に蓋をする癖が付いているから、俳句がホイホイ浮かばないのでは?

俳句に本当の意味で「自然」を取り戻したい。
そのためには、俳人がまず「自然」とは何かについて、真剣に考えないといけない。
「自然」について深く追求すること無しに俳句をやったら、それはせっかく救われた人を、殺す言動を生む。

事実それで傷ついて、意欲を失くしている友人がいる。
これって組長の種まきの足を引っ張るのと同じ行為では?
芽が出た傍から蹴って、「麦と一緒、それで這い上がっきてこそ本物よ」と、きっと彼らは自分たちの行為を正当化するのだろう。

彼らは全てが麦でないことに気付こうとしない。
麦のような人もいれば、そうでない人もいるのに。
彼らは多分「自然」とはどんなものかについて、一度も真剣に考えたことの無い似非俳人だ。
彼らは「古い」と言うだけで、新しい人に対してマウントをとりたがる。

組長が参加する東京や大阪の句会も、公募ではなく特定の人たちだけが「招待」されることにも、その人は不公平感、疑問を感じている。
私も以前は招待されていたが、今は招待されなくなった。
組長と句会をしたい人はいっぱいいると思うのに、なぜ公募せず、特定の人たちとばかりやるのか、他の人に機会を与えようとしないのか、私も大いに疑問だ。

こんなことを書くと、さらに排除の裏工作があるかもしれないが、おかしいことはおかしい、と言わなければ。
イエスマンばかりになったら、いつき組は本当に死ぬ。
押しの強い少数のシンパの顔色を窺って、言いたいことが言えない、風通しの悪い、見かけだけ取り繕って、中はドロドロ澱んだ、そんなところにいつき組をしたくない。

大多数は問題なくとも、こういう人が少数でもいれば、そこは居心地の悪いところになる。
自分に一目置かせるために古い人が、問題でも何でもないのに、あたかも問題でもあるかのように、私にしたようないちゃもんを新しい人に付けるのは、本当に止めてほしい。
私は人からどう思われても平気なタイプだから、こうして書いて吐き出せたけど、黙ってひっそり去っていった人もいるに違いない。

そういう人を「俳句の神様に捨てられた人」と、私は思いたくない。

もし口封じや排除の裏工作があったら、ここで「こういうことがありました」と公表する。

「作品第一主義」で、俳句は上手くても、自然に対しては無知、無関心なのと、俳句は下手だけど、自然に対してはしっかり真面目に考えている人と、どっちが偉いか。
私は後者だと思う。
そして、俳句の世界は得てして「上手い人」を尊重し、その人がどんな自然観を持っているかなんて問題にしない。
私は前者ではなく後者が増えてほしいし、そういう人が増えなければ俳句に未来はない、とさえ思っている。

入選すること、技術のことばかり考えないで、「自然」についてだれよりも真剣に考えて、私は腹の底から本まもんの俳人を目指し、俳句への愛を示したい。



 

わかった!プルースト現象だ!

 投稿者:比々き  投稿日:2020年 2月17日(月)12時11分56秒 softbank126012076134.bbtec.net
返信・引用 編集済
  句がホイホイ浮かぶのはなぜ?

そのメカニズムが解れば、句が思うように浮かばないという人の苦しみを軽減できるし、構えずに気楽に作れるようになれば、句作が重荷にならないですむのに、と思っていたら、今朝、閃きました。

「そうか!プルースト現象だ!」

知ってる人は知ってると思いますが、プルーストの『失われた時を求めて』の冒頭に出てくる場面。

「私は無意識に、紅茶に浸してやわらかくなった一切れのマドレーヌごと、ひと匙のお茶をすくって口に持っていった」

その途端、幼少期の記憶が甦ってきた、そう、アレです。

嗅覚、味覚など、組長が口を酸っぱくして言う「五感」が、まさに記憶を呼び覚ますトリガーになっているんですね!

私たちは日々、意識的、無意識的に記憶や印象を、「記憶の蔵」に貯えているわけですが、いくらトリガーがあっても、入っていないものは出てこない。

だから「好奇心」がある人ほど結果的に、多様で雑多な記憶が、豊富に貯えられていることになる。

ちょっとした言葉の刺激でも、それがトリガーとなって「記憶の蔵」が開き、過去の色々な記憶やイメージが呼び覚まされやすい。

先日の「NHK全国俳句大会」でも高野ムツオさんが「好奇心」の大切さを強調しておられましたが、もしかしたらこれが理由なのかも。

私は「知りたがり」。
知らないことがあると、直ぐ調べないと気が済まない。
辞書を引かない日、ネットで検索をかけない日は、多分一日も無いんじゃないかな。

特に「自然の驚異や不思議」には、昔から興味があって、一時某大学に通って生物の勉強もしていたし、「自然はどうなっているのか」「自然はどうやっているのか」は、今でも知りたいことの筆頭。

だからホイホイできるのか、と納得。

改めて私を好奇心旺盛に生んで育ててくれ、衣食の何もかも手作りで、花を絶やさず、自然豊かな環境を用意してくれた亡き母、また植物に詳しく、自然の驚異を取り上げたテレビをいつも率先して見せてくれた亡き父に、心から感謝です!


 

体験から生まれる句・言葉から生まれる句

 投稿者:比々き  投稿日:2020年 2月16日(日)13時28分28秒 softbank126007252062.bbtec.net
返信・引用 編集済
  人間一人一人は、誰もが「体験」とその時の「感覚」「感情」と「言葉」を記憶に蓄える器だ。

体験にも二種類あって、「お花見」など、名付けられ、説明できる体験と、どう説明しようにも説明できないぼんやりした印象の、名付けようの無い体験もある。

赤ちゃんやヘレンケラーなどは、体感が最初にまずあって、それからそれに後付けで言葉が与えられる。
その後、その言葉が、体験を呼び覚ますトリガーとなる。


体験に言葉を与える句。

言葉が体験(感覚・感情・イメージ)を呼び覚まし、再度それに言葉を与える句。


二種類の句って、こういうことなのでは?

私の場合、一人で考えるより、他の人の書いたものなどを読んでいる時に、そこに出てくる言葉に触発されたり、そこに描かれているコトやモノがトリガーになって、言葉や場面が浮かんでくることが多い。
読むことは、書かれている「言葉」を通して、見る、聞く、嗅ぐ、味わう、触れるを、想像上の五感で追体験する行為だからなのか。

いずれにしても大事なのは、実の句であれ虚の句であれ、本当らしさ、リアリティーが感じられるかどうか。
芸の真実は、虚構と現実との微妙なはざまにあるという「虚実皮膜の間」。
そこが一番悩ましい!




 

Re: 俳句の“メッセージ性”について

 投稿者:比々き  投稿日:2020年 2月15日(土)22時42分53秒 softbank126007252062.bbtec.net
返信・引用 編集済
  > No.5276[元記事へ]

>  私も最近、自分でも「なんでこの季語に、この措辞を取り合わせた」のかよく分からないということが増えてきました。本当に“何となく”なのです。砂金掬いのような感覚と言うのでしょうか。イメージの中で目に留まったものがあれば、何だか分からないけれど、とりあえず拾ってみる。そこにどんなメッセージを見出すのかは、読み手に委ねる。


下記の対談で、岸本さんはこのように言っておられます。

《高柳重信のものの考え方に照らすと、世の中の俳句は二種類ある。一つは

「俳句以前にあらかじめ書くべきことが何かあって、それを俳句という言葉に置き換えた俳句」。

もう一つは、

「言葉が現れる瞬間に情景が同時に立ち現れてくるという俳句」。》

一方だけでなく、両者をアウフヘーベン(止揚:発展的統合)せよ、とも。


以前短歌をやっていた時も、2日で100首は楽に詠んでいたのですが、その時もな~んも考えてなかった、伝えたいことがなかった。

「伝えたいことがないのに、歌だけは溢れるように出てくる。これってどういうこと?」と、当時の講師の小池光さんに訊いたら、短歌にも二つの作り方があって、伝えたい感動や現実がまずあって作る歌(意味派の歌)と、言葉で無から有を、言葉で新たな「現実を創り出す」歌(ことば派の歌)と、二つあるんだよ、とのこと。

私の俳句も、日常の中に「発見」や「ささやかな感動」があると前者、内から自然発生的に湧き出ることばに耳を傾けると後者、確かに「両刀使い」になっているなあ、と。

今は選者選に入ろうという意識は希薄で、自分で自分の句が面白いと思えるか、そのことの方が重要。
まさに「自分のために作っている」。

それを選者も面白がってくれれば「ラッキー!」、という感じかな。


 

俳句の“メッセージ性”について

 投稿者:南風の記憶  投稿日:2020年 2月15日(土)17時39分21秒 sp49-104-51-169.msf.spmode.ne.jp
返信・引用
  > No.5275[元記事へ]

 比々きさん、こんにちは。書き込み読ませていただきました。“「伝えたいメッセージがない」から、ホイホイ作れるんだ”とのご指摘、かなり共感できます。

 私も最近、自分でも「なんでこの季語に、この措辞を取り合わせた」のかよく分からないということが増えてきました。本当に“何となく”なのです。砂金掬いのような感覚と言うのでしょうか。イメージの中で目に留まったものがあれば、何だか分からないけれど、とりあえず拾ってみる。そこにどんなメッセージを見出すのかは、読み手に委ねる。このようにして、今の兼題「蒸鰈」にも取り組んでいます。





https://stand16.hatenablog.com/

 

私が目指す方向

 投稿者:比々き  投稿日:2020年 2月15日(土)13時40分16秒 softbank126015167132.bbtec.net
返信・引用 編集済
  下記の対談で高野ムツオさんが、「自分が目指す世界を、右顧左眄せず、まっすぐ進むという個に徹する態度が必要」と言っておられますが、今朝「蒸鰈」の句を作っていて、私の場合は「伝えたいメッセージが無い」から、ホイホイ作れるんだということに気付きました(今朝も2時間ほどで40句ぐらいできてしまった!)。

でも句の「意味内容」とは別に、私にも俳句を通して伝えたいことはある、そのことにも気づきました。
それは、先人の多くの句を読んできたからこそ、目指したい方向です。

《「こんなに自由でエエんや!」、という句。》

《思いっきり奔放で、人を目に見えない枷から解き放つ句。》

《人間解放の句。》

常識という厚い壁にかすり傷さえ残せないような句は、たとえそれがどんなに新しい「取り合わせ」でも、私には退屈で、つまらない、ということに気づいてしまった!

全没になったって死にやしない!
入選したいがために、置きに行く句を作る、そんな姑息だけは、自分に許さない。

冒険心とチャレンジ精神に溢れた句、「俳句は、人間解放の文学である」、そう感じてもらえるような句を、私は目指したいです!



 

第21回NHK全国俳句大会

 投稿者:比々き  投稿日:2020年 2月13日(木)22時56分15秒 softbank126012127017.bbtec.net
返信・引用 編集済
  ハイポニストも入賞した今回の大会。

放送は明後日2月15日(土)、NHK Eテレ15:00~16:15

こちらから入賞作品を見る事ができます。

https://www.n-gaku.jp/life/topics/4977

 

いま、なぜ新興俳句なのか

 投稿者:比々き  投稿日:2020年 2月13日(木)18時59分22秒 softbank126015167132.bbtec.net
返信・引用 編集済
  2019年8月号の角川『俳句』の特集が「いま、なぜ新興俳句なのか」。

このなかで高野ムツオさん、角谷昌子さん、岸本尚毅さん、神野紗希さんによる座談会が文字起こしされているのですが、神野さんたち青年部には見えていなかった背景がいろいろ見えてきて、これがめっぽう面白い!
これは知っておいた方がいいという言葉を、一部抜粋しておすそ分け。

岸本:近世(江戸時代)の俳諧には、俳諧性はあるが季節性がない作品でいいものがたっぷりあったのに、近代俳句はスタートの時に置いてきてしまった。それを取り戻したことは新興俳句のものすごく大きな意義の一つだと思う。

神野:岸本さんが「有季の発句に対する無季の付句」を改めて取り戻したのが、新興俳句の大きな業績だとおっしゃいました。そう、俳句の伝統で言えば意外と新興俳句は反伝統ではないんです。むしろもともと俳句の持っていた自由を発揮していると思います。(中略)ただ、新興俳句の出発点を考えると、「反虚子」であることは間違いない。そしてそれはつまり、ある種、権力構造に異を唱えた「反体制」であることも間違いないと思います。当時、水原秋櫻子が一極集中型の「ホトトギス」から出て、そこから新たにフラットな荒野が広がっていきました。

角谷:虚子は体制・壁という時代もありましたが、今は栄養剤や薬だと思う。摂りすぎたり過信すると体を損なうけれど、すごい滋養になっている。字余り、散文化、幻想性のある句を作る、季語の応用、観念の具象化、ナンセンスなど、いろいろやっています。確かに花鳥諷詠、客観写生を主唱した。それへの反発はあるけれど。作品や言葉を滋養にしなければもったいない。(略)新興俳句作家ばかりでなく、「ホトトギス」以外の俳人たちも虚子をジャンピングボードとして異なった価値観を打ち出してきました。

高野:新興俳句運動を作り出した源には虚子の力がずいぶんあったと思う。たとえば、芝不器男の<あなたなる夜雨の葛のあなたかな>は、他の人は誰も褒めないのに、虚子一人が褒めたから名句になった。あの新鮮な抒情世界はそれまでにはなかったものです。虚子にはそういうもの、新しいものを発見する眼力があった。

角谷:新興俳句の萌芽は「ホトトギス」にあって、若き秋櫻子、誓子、草城も育まれた。たとえば草田男の<金魚手向けん肉屋の鉤に彼奴を吊り>なんて、驚くような句を虚子は評価している。

高野:虚子は大きな目を持っていた。(中略)もし客観写生に拘るなら、初めから素十のような俳句だけ褒めておけばいいと思うが、そうじゃない。虚子の評価観は一筋縄ではいかない。ほんとうは柔軟なんです。詩の毒も薬も知っている。

高野:俳句は、集団、結社、協会があるという複数の中で表現活動をするものだけれど、作家としては一個人です。自分が目指す世界を、右顧左眄せず、まっすぐ進むという個に徹する態度が必要だろう。白泉や三鬼を尊敬するけれど彼らと同じような俳句は作らない。同じ道は辿らない。自分は自分の俳句を目指す。様々な情報が錯綜する時代だからこそ、そういう思いをもって作って欲しい。

岸本:高柳重信のものの考え方に照らすと、世の中の俳句は二種類ある。一つは「俳句以前にあらかじめ書くべきことが何かあって、それを俳句という言葉に置き換えた俳句」。もう一つは、「言葉が現れる瞬間に情景が同時に立ち現れてくるという俳句」。前者の代表は、まさに人間探求派の楸邨、波郷がそうだろう。俳句以前に言いたいメッセージがあって、それを設計図として俳句に落とし込んでいくという作り方です。(略)「見るのと言葉とが一緒に出てくる」は「ホトトギス」の俳句でもあって、無自覚に行われていたが、新興俳句の場合は、言葉が現れることと、景色が立ち現れることの同時性を意識的な方法として示した。
もの派とことば派と言う鮮明な対立にする必要はないが、金子兜太的な俳句以前のメッセージを背負った書き方と、高柳重信的な俳句即ことばという書き方があって、その違いには自覚的である必要はあると思います。

高野:自覚する必要はあるんだが、二者対立事項ではない。両方が重なり合って一致したときに本物になる。

岸本:確かにアウフヘーベン(止揚)をするということがすごく重要だと思います。

角谷:相互を知ることはとても大事です。私は草田男門で鍵和田秞子から「感動を詠め」と言われてきました。感動を詠むと、言葉にしたときに自ずと伝達性が高まる。伝えたいと思うから意味性が強まる。意味性を排除する高柳重信の「見る」という態度だと、書いた言葉によって感動が引き起こされる。双方の態度は根本的に違うけれど、お互いに理解を深めて俳句の可能性を探ることが最終的な目標になっていくんじゃないでしょうか。

角谷:多様な価値観と可能性が模索されたのが新興俳句の時代です。俳談史の流れの中で新興俳句の存在意義、長所、短所を含めて把握し、現在、俳句を詠む方々には自己表現の手段として俳句という世界最短の詩を選んだという自覚を生かし、新しい価値の発見をご自分で求めていただければと思います。

高野:新興俳句は俳句の完成形ではない。一つのチャレンジ、試みの作家たちの集まり。だからあのチャレンジ精神はどんなものだったか、常に意識しながら読んでいただきたい。沢山の問題を新興俳句は提起した。無季・有季の問題、口語・文語の問題、定型・非定型の問題、俳句性、俳句そのものの大きな可能性、連作も。たくさん成果はあったが、俳句の脆弱性も示した。そういう意味では、俳句の諸問題の塊、しかし可能性の塊だったわけだ。

神野:私たちは同じ世界を生きているはずなのに、一人一人の感じる世界は必ずしも同じではない。私の感じ方を言葉にしたいと思うとき、新興俳句の作品に触発されるところは大きいと思います。新興俳句には現実以上の真実が、心のリアルがあります。

※こういう背景を知ったうえで、自分の行くべき方向を探りたいものですね!



 

高柳克弘さんの言葉

 投稿者:比々き  投稿日:2020年 2月12日(水)23時52分10秒 softbank126015073158.bbtec.net
返信・引用 編集済
  角川『俳句』2019年8月号132pより抜粋。

《俳人とは、世界を普通とは違った角度から眺める人だと思っています。従って、常識にとらわれない、自由な精神が発揮されているものを採りたくなります。》

《「常識は敵だ」という意識は大切です。》

《どうしても、お題として出された季語や言葉を中心に考えてしまいがちですが、お題を主役ではなく、脇役で使ってみるというのも一つの手です。(中略)主役も脇役も、優劣はありません。いったん、頭の中で、お題の言葉を脇役に引っ込めて、主役を別に立ててみてください。思いがけないアイデアが浮かんでくるかもしれません。》

※なんと!「季語を主役に」の「常識」に、捉われなくてもいいんですね!




 

俳句と救い

 投稿者:比々き  投稿日:2020年 2月10日(月)14時08分16秒 softbank126015167132.bbtec.net
返信・引用 編集済
  「NHK俳句」2018年4月号58pで、「俳句と救い」について本井英さんが、高浜虚子のこんな言葉を紹介しています。

『虚子俳話』-「花鳥諷詠」より

「俳句といふものは、老練なものは老練なり、初心なものは初心なりに作ったり鑑賞したりしてゐるものなのだ。四季循環による現象、春夏秋冬の風光に心を留める事ができるようになる事は、俳句を学んで得る第一の徳である。生まれながら心の高く深い人もあれば、低く浅い人もある。各々その天分に従って俳句を学べばよい。(中略)志が花鳥風月にあればよい。志が花鳥風月にあるといふ事、それが俳句によって救はれた事になるのである。」

(注:本井さんはこの虚子の言葉の「生まれながら心の高く深い人もあれば、低く浅い人もある。」を「悲しい言い方」だとし、「私は、人は『この世で経験を積むうちに、必ず進歩・進化するものだ』と信じています。」と書いています。)


「志が花鳥風月にあるといふ事、それが俳句によって救はれた事になるのである。」


南風の記憶さんが書いて下さったのを機に、私も自分なりに「俳句はなぜ人を救うのか」を考えてみました。


①自己表現、自己表出の手段となるから。
 句を案じ、表現をあれこれ考え、工夫することで、その間だけでも、当座の苦しみや問題から意識を逸らすことができる。

②「自然」というものを絶えず意識させられるから。
 自然を観察し、自然に対する理解が深まるにつれ、「自然の一部」として、より自然で無理のない生き方や考え方ができるようになり、楽な方へ軌道修正できるから。

③俳人ならではの「批評的な目」が、「常識とは違った視点」から物事を見るよう促し、自分自身に対しても批評的になることで、自縄自縛の罠に気付きやすくなり、マイナスの物事に対してもプラスの側面を見つけると同時に、多面的、肯定的に物事を見る事ができるようになるから。


特に②③は、俳句が他の表現に勝って際立っているので、それが「救い」に結びつきやすいのかもしれません。

ただ、中には俳句を始めたものの、途中で辞めていった人もいるわけで、そういう俳句が「救い」とはならなかった人達の声は、なかなか聞こえてきません。

私が知っているのは、俳句が嫌いになったというより、嫉妬や蔭口、中傷、空気を読むなどの「人間関係」が嫌になって辞めたというもの。
そういう人達の声も参考にできれば、より「救いの器」として、俳句をブラッシュアップできる、そんな気がします。

 

Re: 俳句が人生の杖となる

 投稿者:比々き  投稿日:2020年 2月 9日(日)00時07分17秒 softbank060148070126.bbtec.net
返信・引用 編集済
  > No.5267[元記事へ]

>  今週より復職することができ、ようやく普通の生活が戻ってきました。体調不良で引きこもっていた時には、あれほど痛かった陽射しが、朝の声が、とても心地良く感じます。「普通に過ごせる」ということのありがたさを、病んだ後だからこそ、強く実感しています。


ほんとうによかったですね!

私も病気になってつくづく良かったと思うのは、何気ないごく普通のことが「有難い」、と心から思えること。
私は熱と関節の痛みで、靴が履けず、包丁も握れず、生まれたばかりの赤ちゃんを抱くこともできませんでした。
当り前が決して当り前ではないことを、嫌というほど体で知りました。

子規も結核から脊椎カリエスを併発しますが、カリエスと言うのは、体の奥にある病巣が化膿し、大量の膿が出口を求めて肉を破り、皮を破って体に穴をあける、何ともむごい病。

晩年の子規も、腰や背中に大きな穴がいくつも開き、そこからあふれ出る膿を母親のやえと妹りつが拭いてやるのですが、傷口にこびり付いたガーゼを剥がそうとすると、激痛が走る。
そのたびに子規は大声で泣き、泣くことで痛みに耐えたと言われています。

死の三か月前に、彼はこんなことを悟ります。

「余は今迄禅宗の所謂悟りといふ事を誤解していた。悟りといふ事は如何(いか)なる場合にも平気で死ぬる事かと思って居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であった。」(『病牀六尺』)

作家の三浦綾子さんも子規と同じく、結核から脊椎カリエスを発症し、頭から腰までギブスベッドに臥し、寝返りはおろか、首を回すことさえできない中で、十数年後、何とか奇跡的に回復し結婚するのですが、その後もヘルペスや癌になり、その自分を評して「私は神様にえこひいきされている」と言っています。

決して恨むことはなかった!
それだけ病気や試練は、失うものより得るものの方がはるかに多い、まさに神様から愛されている証拠なんですね。
人の心は不遇の中、試練の中で鍛えられ、ちょっとやそっとでは折れない鋼の強さを獲得する。
これだけは、お金をどれだけ積んでも得られるものではありません。

物質的な豊かさや、社会的な成功や名声さえ、病気をした後では色褪せて見えますし、病気ぐらい自己革命に有効な手段はないとさえ思っているくらいです。


>  子規の晩年の句です。死の病床においても、楽しみを見出していこうとする、子規の前向きさが、病み上がりの私には、胸に刺さりました。
>  苦しい時でも、前向きに。これからの私のテーマです。


俳句と限らず、短歌でも散文でも、絵でも、音楽でも、読書でも、自己表現の手段、自分を客観視する手段を持っていると、ここぞという時に自分を支えてくれます。

子規には俳句・短歌・散文・絵という、自己表現の手段が幾つもありました。
その上好奇心が旺盛で、新聞や雑誌を通して得られる情報を、自分なりに分析したり、彼自身吉野に行ったことがなくても、吉野について書かれた文章を読んで、想像をたくましくし、吉野の桜の俳句を幾つも詠んだりしています。

三浦綾子さんは短歌と散文、そして聖書を、歌人の河野裕子さんも、部屋に子規の花の絵を飾り、それを見て闘病の励みにしながら、短歌を溢れるように詠んで、乳癌の自分を支えました。

その間は自分のことも、自分の病気のことも、多分忘れていたのではないでしょうか。
だから、耐え易かったとも言えます。

南風の記憶さんは、散文、俳句という二つを手にしているので、鬼に金棒。
深められた心境の中から珠玉の表現が生まれる、そんな気がしています。


 

俳句が人生の杖となる

 投稿者:南風の記憶  投稿日:2020年 2月 8日(土)12時17分4秒 sp49-104-27-132.msf.spmode.ne.jp
返信・引用
   比々きさん、皆様こんにちは。その節は、ご心配をおかけしました(m(__)m)。

 今週より復職することができ、ようやく普通の生活が戻ってきました。体調不良で引きこもっていた時には、あれほど痛かった陽射しが、朝の声が、とても心地良く感じます。「普通に過ごせる」ということのありがたさを、病んだ後だからこそ、強く実感しています。

 それにしても……外に出られなかった時というのは、自分が何のために生きているのかということが、分からなくなりかけました。「このまま消えたい」と毎日つぶやいていました。

 しかし、私には俳句がありました。

 体調が悪くても、もはや俳句を詠むことは習慣になっていましたので、「せめてこの兼題はがんばろう」「俳句ポストの結果を見るのも楽しみじゃないか」……かつて組長の言われた“俳句が人生の杖となる”ということを、まさに実感したのです。

「春の日や病牀にして絵の稽古」

 子規の晩年の句です。死の病床においても、楽しみを見出していこうとする、子規の前向きさが、病み上がりの私には、胸に刺さりました。

 苦しい時でも、前向きに。これからの私のテーマです。

https://stand16.hatenablog.com/

 

フルポン村上の俳句修行@月天・塵風合同句会

 投稿者:比々き  投稿日:2020年 2月 6日(木)21時55分17秒 softbank126126203137.bbtec.net
返信・引用
  句会場にご自分のお寺を提供した月天句会の佐山哲郎さんは僧侶。
ジブリ映画「コクリコ坂から」の原作者でもあります。

新年会も兼ねてということで総勢27名、投句数189、全句講評で3時間半の長丁場となりました。

詳細は是非下記で!

https://book.asahi.com/article/13099124



 

歳時記について

 投稿者:比々き  投稿日:2020年 2月 6日(木)17時16分6秒 softbank126126203137.bbtec.net
返信・引用 編集済
  角川「俳句」2019年9月号に、歳時記に関して堀切実さんが興味深いことを書いておられたので、要点だけをかいつまんでシェアしますね。

180p~187p
《歳時記の起源は、農業国家であった中国の為政者が、農民の一年間の生活のなかで、季節の替り目ごとに行うさまざまの農耕儀礼行事を定めた「月令(がつりょう)」にあった。》

《日本の歳時体系も、中国のそれの大きな影響下に成立している。》

《日本の古代歌謡や万葉集では、「相聞(恋)」「挽歌」が主流で、季節感を尊ぶ「自然」詠は傍流だった。》

《平安王朝の和歌の世界になると、中国漢詩文の受容が盛んになり、歳時記的な自然観が発生。やがて「恋」とともに「当季」を詠むことが原則となっていった。》

《そして中世の連歌では「四季の詞」が重視され、さらに近世の俳諧では、とくに発句の独立性を契機として、季題・季語意識が発達し、そこに本格的な「季寄せ」や「歳時記」を生む基盤が成立していった。》

《つまり、わが国の季節感や歳時感覚は、決してはじめから自然発生的に生まれてきたものではなく、歌合・連歌・俳諧の場において、制度として発生していった面が強い。》

《近世期に発達した季題集としての「季寄せ」と、百科全書的な解説のある「歳時記」と、「類題発句集」と三拍子そろったところで、近代から今日までの「歳時記」が本格的に誕生する。》

《明治から大正期は、前代の『栞草』(嘉永四年刊)に多分に依っていた。》

《昭和八年に、結社の宗匠と学者たちの合同編集によって、改造社版『俳諧歳時記』が出て、時候・天文・地理・動物・植物など、自然科学系的分類が本格的に定着してゆく。》

《江戸時代の各種歳時記は、季語の選択、その本意の解説、その例句の提示などにおいて、どれも完成されたものではなかった。したがって、歳時記が絶対的な規範として尊重されるようなものでもなかった。それが権威となることはなかった。》

《蕉門の代表的撰集「猿蓑」でさえ、せいぜい三百部程度。季寄せ類が広く俳諧仲間に行き渡っていたとは考え難い。歳時記が規範として俳諧の座を支配していたとは考え難い。》

《歳時記の権威が確立するのは明治になってから。》

《平成二十九年十一月の現代俳句協会七十周年記念大会でのシンポジウム「俳句の未来。季語の未来」では、岸本尚毅が「近代になってからの歳時記は、季語の「法令集」じゃなくて、「登記簿」なんですね。例句が載っていれば「判例集」といってもいい。」》

《それは今日、「歳時記」が実際、「法令集」もしくはルールブック的に受けとられがちであることへの岸本の注意勧告であり、この提言は、季語や歳時記の役割を認識していく上で大変有意義。》

《歳時記は決して規範であってはならない(略)、歳時記が規範となるルールブックではないという事実は、近現代におけるより江戸時代の方がはるかに強いものであったとはいえるであろう。》


※「無季句」を作ったという理由で、同人の若手に俳人協会脱退を迫った某代表の噂を聞くにつけ、歳時記の成り立ちに関して無知ではいられない、とつくづく感じさせられています。






 

Re: 夏井いつきの「地方論」

 投稿者:比々き  投稿日:2020年 2月 6日(木)12時32分18秒 softbank126126203137.bbtec.net
返信・引用 編集済
  > No.5263[元記事へ]

俳句と川柳の違いについての組長発言からの覚書。


川柳:「意味」によって読者を「笑わせてやろう」、という「下心」がある句。

俳句:「意味」は語らず、主に(それだけではないけれど)「映像」を切り取る句。


「時間をかければいい句ができるわけではない。瞬発力から生まれる句もある。」



 

夏井いつきの「地方論」

 投稿者:比々き  投稿日:2020年 2月 5日(水)11時06分15秒 softbank126065136047.bbtec.net
返信・引用 編集済
  福井テレビでのインタビューです。

是非ご覧下さい。

https://www.fukui-tv.co.jp/?timely_opinion=%E5%A4%8F%E4%BA%95%E3%81%84%E3%81%A4%E3%81%8D%E3%80%8C%E5%9C%B0%E6%96%B9%E8%AB%96%E3%80%8D&fbclid=IwAR266W8iNEZUvtqKamJA4rAKPis8qHXFitmoT8aIlYg8C1GRhjB3TxEEo8Y


 

Re: 今井杏太郎のことば

 投稿者:比良山  投稿日:2020年 2月 3日(月)21時31分39秒 sp49-96-7-219.mse.spmode.ne.jp
返信・引用
  > 今日の「○○の句は面白い!」は今井杏太郎さん。
>
> 彼の句を捜していて、こんな杏太郎さんの言葉を見つけました。

>
> どの言葉も含蓄があるのですが、特にこの言葉は、是非、比良山さんに!
>
>
> 「駄句というのは大事だと思いますよ。駄句が作れないと駄目だと思いますね。そこからはじまっていくんです。」(今井杏太郎)
>
>
比々きさん。またまた貴重な記事ありがとうございます。なにげなしに使ってしまいがちな言葉にも様々な意味があるということに注意いたします。
話は変わりますが、私は俳句に流行語をつい使ってしまうのですが、流石に「ワンチーム」という言葉に少し嫌気がさしてきました。言葉は悪いですが猫も杓子も使っているのを聞くにつけ流石に私もやめようと思いました。
もともと俳句に常套句や流行語を使った俳句は嫌われるものだということは知っているつもりでしたがそれでも使ってしまいまあいいやと思っていたのですがあまりにもあちこちから聞こえてきてなぜか不快になり、ああこういうことだったのかとわかったような気がしました。

外国語を勉強していると母国語をまず磨けといつぞや言われたことを思いだしました。


 

今井杏太郎のことば

 投稿者:比々き  投稿日:2020年 2月 3日(月)12時47分51秒 softbank126019089179.bbtec.net
返信・引用 編集済
  今日の「○○の句は面白い!」は今井杏太郎さん。

彼の句を捜していて、こんな杏太郎さんの言葉を見つけました。

http://weekly-haiku.blogspot.com/2012/07/blog-post_2962.html


どの言葉も含蓄があるのですが、特にこの言葉は、是非、比良山さんに!


「駄句というのは大事だと思いますよ。駄句が作れないと駄目だと思いますね。そこからはじまっていくんです。」(今井杏太郎)


 

Re: 大竹まことゴールデンラジオ

 投稿者:比良山  投稿日:2020年 2月 2日(日)16時45分0秒 sp49-98-55-213.mse.spmode.ne.jp
返信・引用
  > 組長出演回、ポッドキャストで聴けます。
>
> 聞き逃した方は、是非こちらで!
>
 比々きさん。貴重な情報ありがとうございました。おかげさまでラジオ聞けました。
放送の中で「子規365日」夏井先生著を知り早速図書に記載の日々の季語と記念日カレンダー(俳句特訓塾 ひらのこぼ著より)を取り合わせた1日1句の俳句作りとその中国語訳(三行日記と読んでいますが漢字五七五の中国語の翻訳練習です)を日課として句力向上と中国語上達の一挙両得を狙うことにしました。
できるだけ毎日ツイートして行きたいと思っておりますが一日一句は推敲時間があまりとれませんので俳句の方は駄句ばかりになるやもしれません。(笑)

因みに今日は二月二日 納豆
子規さんの俳句「納豆売新聞売と話しけり」

私の駄句は、納豆と記念日(麩の日、おじいさんの日)を取り合わせて
「納豆と麩の汁あれば爺ご機嫌」

中国語の三行日記はご参考まで。(以下は無視下さい)

「如果有?豆
    和面筋??的?
   ?? 很高?」

やはり駄句でした。
 

大竹まことゴールデンラジオ

 投稿者:比々き  投稿日:2020年 2月 1日(土)00時39分34秒 softbank126015090160.bbtec.net
返信・引用 編集済
  組長出演回、ポッドキャストで聴けます。

聞き逃した方は、是非こちらで!

http://www.joqr.co.jp/blog/main/






 

Re: すべてが俳句の材料に!

 投稿者:比々き  投稿日:2020年 1月31日(金)00時46分17秒 softbank126015092073.bbtec.net
返信・引用 編集済
  > No.5257[元記事へ]

>  実はこの数か月ほど、体調不良に苦しめられていました。詳細は書けないのですが、ひどい時には、外出することもままならない状態でした。


以前片頭痛の持病があるとおっしゃってましたが、それも含めて休職を余儀なくされるほどとは!
句作のほうは、俳ポも、カタログハウスも、青嵐俳壇も絶好調で、まさかそんな状態だったとは想いもしませんでした。

私も20代のころ若年性リューマチで丸々2年間寝たきりの生活を送りましたが、それも含めて今思うのは、どんな経験も無駄ではないということ、後々人生を支え導く、大事な気づきや学びを得させてくれるので、「艱難汝を玉にする」の諺にもあるように、「辛い」経験こそ宝だということ。

特に心や体の「弱さ」や「痛み」を痛感するのは、人間としても、創作の上でも、プラスにしか働かない、貴重な経験だと感じています。

私が一切悩まなくなったのも、病気のお蔭。

寝たきりの時に、私の体の60兆個の細胞が、日々私を生かそうと奮闘していることに、ある日ハッと気付いたんですね。
有難くて、泣けて泣けて涙が止まりませんでした。

彼らの無償の働きのお蔭で生きられている。
そうであれば、彼らの働きに協力し、彼らのストレスにならないような、生き方や考え方、気分でいたいと、その時堅く決心したのです。

その結果が、今の楽観主義の私というわけです。
お陰でほとんど病気知らず。


>  こういう時は、どうしても気まで滅入ってしまい、朝の陽射しや人の声まで、わずらわしく感じてしまいました。なかなか集中力も戻らず、このままでは何もできなくなってしまう気さえし始めたのです。


私も陽の光に耐えられず、窓に毛布を貼り付けて、電話は受話器を外したまま、と言う日々を過ごしました。


>  頭のリハビリに使ったのは……俳句でした。
>  不安感に押しつぶされそうなとき、自己を含めて「客観視」を求められる俳句というのは、頭をクリアにしていくために、効果的だったように思います。
>  もう一つ良かったのは、不調だからこそ詠める句というのもあるだろうと、現状を前向きに捉えられたことです。この時の、自分の四肢の感触、匂い。光景。すべて俳句の材料にしてやろうと。


おー、すごい!
組長も車が横転した中で、これで50句は作ってやると思ったみたいですからね。
俳人は、転んでもただでは起きない!(笑)


>  その甲斐あってか、年末あたりから徐々に回復していき、来週より仕事に復帰できることとなりました。
>  俳句を始める前は、辛いことはただ辛いで終わっていたのですが、今ではそれさえ俳句の材料になると思えます。俳句に救われたなと、今実感しています。


すばらしい!
芭蕉が『笈の小文』のなかで、「造化にしたがひて造化にかへれ」と言っていますが、俳句と関わっていると、自然をいつも意識し、自然がぐっと身近になりますから、心も体もより自然な方へ自ずと導かれていく、そんな気がしています。


 

すべてが俳句の材料に!

 投稿者:南風の記憶  投稿日:2020年 1月30日(木)23時37分59秒 sp49-104-13-141.msf.spmode.ne.jp
返信・引用
   比々きさん、皆様こんばんは。今回は、少し個人的なことを書きます。

 実はこの数か月ほど、体調不良に苦しめられていました。詳細は書けないのですが、ひどい時には、外出することもままならない状態でした。

 こういう時は、どうしても気まで滅入ってしまい、朝の陽射しや人の声まで、わずらわしく感じてしまいました。なかなか集中力も戻らず、このままでは何もできなくなってしまう気さえし始めたのです。

 頭のリハビリに使ったのは……俳句でした。

 不安感に押しつぶされそうなとき、自己を含めて「客観視」を求められる俳句というのは、頭をクリアにしていくために、効果的だったように思います。


 もう一つ良かったのは、不調だからこそ詠める句というのもあるだろうと、現状を前向きに捉えられたことです。この時の、自分の四肢の感触、匂い。光景。すべて俳句の材料にしてやろうと。

 その甲斐あってか、年末あたりから徐々に回復していき、来週より仕事に復帰できることとなりました。

 俳句を始める前は、辛いことはただ辛いで終わっていたのですが、今ではそれさえ俳句の材料になると思えます。俳句に救われたなと、今実感しています。

https://stand16.hatenablog.com/

 

Re: 俳句生活

 投稿者:比々き  投稿日:2020年 1月25日(土)15時54分20秒 softbank126126207122.bbtec.net
返信・引用 編集済
  > No.5254[元記事へ]

> 比々きさんご自身ではなく、「そういう人物をリアルに想像された」のではないかと思っただけです。


俳句の俳は「俳優」の俳ですから、ときどき紀貫之が女になったつもりで『土佐日記』を書いたように、俳句の中で「なりきり」を楽しむことはあります。


> > そういう自然愛護の精神を、もしかしたら組長も汲み取ってくれたのかも、です。
>  さらっと書いてもられますが、これも比々きさんが前回書かれた“詩には批評が込められている”ということでもありますよね。
> > グレタさんや鷹羽狩行さんではありませんが、季語を使って俳句を作っている人が、自然や自然保護に無関心だったら、それは真っ赤な贋物というもの。
> > その人が作る俳句と、その人の生き方の間に乖離があると、早晩破綻する、そんな気がします。


組長も元教師ですからね。可愛いお孫さんたちを含む子供たちの未来には、グレタさんならずとも、いい自然環境を残したい、ときっと思っているはず。


>  鰯雲蹴散らし一機普天間に
>  米軍基地の是非について、この句は一言も触れていません。ただ、普天間に向かう一機の様子を描写しただけです。それなのに、胸にくるものがあります。俳句における“批評”とは、このようなことを指すのかなと思いました。


「鰯雲」のなかに「弱」という字が潜んでおり、それを「蹴散らす」、つまり弱者を虐げてやまない米軍の「強権力」の存在を暗に示唆している、そういうところが「批評的」なんだと思います。


>  最近気になっているのは、俳句における“比喩”についてです。組長の次の句を読んだ時から、「比喩が機能する状況とは?」ということをずっと考えています。
>  ふるへ合ふ音叉のごとく曼珠沙華


芭蕉のいう「三尺の童」の「直観」=「似ている」の「発見」が、この比喩になっているような気がします。

「一句一遊」で私は「ヘッドライトではないあれは吹雪の眼」という句を詠んだのですが、「比喩が機能する状況とは?」なんて、そんな頭の痛くなるような事、あれこれ考えて作ってません。

石原八束が『俳句の作り方』(明治書院)の75pで言っていますが、

 「さりげなさが、いわば句の真実なのだ。「うまく書こうと思うなよ」というのは、書の良寛さんの言葉であったのを、生前、三好達治先生からたびたび聞かされたことは前にも言った。文藝欄の投稿家には、秀逸に入選することばかりに苦心して作句を続けている作者も、失礼ながら何人かいるであろう。それはしかし思い違いというものだろう。「入選しようと思うなよ」ということが、実は句作の真諦だと言うほかはない。」

子供って正にこうですからね!

ひたすら「直観」。
理屈じゃない。

俳句は「発見」の文学。
「あ、アレと似ている!」、その「ひらめき」「発見」を、子供のように素直に表現する、ただそれだけです。

「没になっても構わない、自分はこう感じたんだ」、をそのまま押し出していくと、あら不思議、入選する。
それが俳句の、逆説的に面白いところなんですよね!

 ひまわりのどこかとってもぽるとがる  望月哲土




 

Re: 俳句生活

 投稿者:南風の記憶  投稿日:2020年 1月25日(土)14時53分46秒 sp49-104-10-240.msf.spmode.ne.jp
返信・引用
   比々きさん、早速のコメントありがとうございます。

> 深読みです(笑)
> 私は楽観主義者で、負の感情を後生大事に抱え込んで、悩むことにエネルギーを使うのは、大いなる命の無駄遣い、自分に毎日毒を飲ませるのと一緒なくらい害悪、命への忘恩と思っているくらいなので、クヨクヨと思い悩むことは先ずありません。


 大変失礼致しました、ちょっと表現が足りなかったようです。比々きさんが「負の感情」を抱え込んでいるだなんて、私も思っていませんよ(^^;)。比々きさんご自身ではなく、「そういう人物をリアルに想像された」のではないかと思っただけです。

 しかし、つい深読みしてしまうほど、この「噛み砕く」という描写が効いていると思います。骨の音、歯の動きまで、リアルに想像できましたから。


> そういう自然愛護の精神を、もしかしたら組長も汲み取ってくれたのかも、です。

 さらっと書いてもられますが、これも比々きさんが前回書かれた“詩には批評が込められている”ということでもありますよね。

> グレタさんや鷹羽狩行さんではありませんが、季語を使って俳句を作っている人が、自然や自然保護に無関心だったら、それは真っ赤な贋物というもの。
> その人が作る俳句と、その人の生き方の間に乖離があると、早晩破綻する、そんな気がします。


 このご指摘も、比々きさんが以前書かれた「何のために句を詠むのか」ということと、話がつながってくると思います。

 俳句というのは、たった十七音しかないので、「評価されたくて自然保護を詠んだのか」それとも「心底からの言葉なのか」というのは、分かる人には分かってしまうのだと思います。「心底から」であれば、自然とにじみ出てくるものですし。


 比々きさんもご存知かと思いますが、私はキスマイ横尾君の、次の句が大好きです。

 鰯雲蹴散らし一機普天間に

 米軍基地の是非について、この句は一言も触れていません。ただ、普天間に向かう一機の様子を描写しただけです。それなのに、胸にくるものがあります。俳句における“批評”とは、このようなことを指すのかなと思いました。


> 私も同類で、「ん?」と思ったら、結構とことん追求する方。
> 書きながら「発見」し「気づく」ことも多いので、「書く」ことは大いに奨励しています。
> いつでも遠慮なく書き込んでください。
> 大歓迎です!
>

 ありがとうございます! ただ私、本当にシツコイです(笑)。

 最近気になっているのは、俳句における“比喩”についてです。組長の次の句を読んだ時から、「比喩が機能する状況とは?」ということをずっと考えています。


 ふるへ合ふ音叉のごとく曼珠沙華


 これ以上書くと長くなりそうなので、今回はひとまず止めておきます(笑)。

https://stand16.hatenablog.com/

 

Re: 俳句生活

 投稿者:比々き  投稿日:2020年 1月25日(土)13時14分22秒 softbank126126207122.bbtec.net
返信・引用
  > No.5252[元記事へ]

>  ただ……この「噛み砕く」という描写が、なんとも不気味といいますか、不穏な気配を感じました。ひょっとしてこの人物は、何らかの負の感情を抱えており、それを断ち切ろうとしているのではないかと、私は読みました(深読みかもしれませんが……)。


深読みです(笑)
私は楽観主義者で、負の感情を後生大事に抱え込んで、悩むことにエネルギーを使うのは、大いなる命の無駄遣い、自分に毎日毒を飲ませるのと一緒なくらい害悪、命への忘恩と思っているくらいなので、クヨクヨと思い悩むことは先ずありません。

基本作句は頭に閃いたり、思い浮かんだままの原句を元に推敲するのですが、この句は私の「自然」を愛するあまりの「食品廃棄物をできるだけ出さない」という日頃の習慣から出たもの。

焼き魚であれ、揚げ魚であれ、海老天の尻尾であれ、頭も骨も皮も食べられるものは全部捨てずに食べるのが私の流儀、何より美味しいですしね。

そういう自然愛護の精神を、もしかしたら組長も汲み取ってくれたのかも、です。

グレタさんや鷹羽狩行さんではありませんが、季語を使って俳句を作っている人が、自然や自然保護に無関心だったら、それは真っ赤な贋物というもの。
その人が作る俳句と、その人の生き方の間に乖離があると、早晩破綻する、そんな気がします。


>  また、もう一句の「活きいきと水減る花瓶去年今年」の方は、そこに差されているであろう花の生命力、まさに「生きているということの神秘」を思いました。活きいきと葉や茎が伸びるのではなく「水が減る」という着眼に、はっとさせられました。


こういう着眼も日ごろの「鑑賞」の賜物。
ヒントを与えてくださった先達の皆さんの句に、感謝、感謝です。


> >組長の「質を高めたい」という願いは、組長の「選」を見れば一目瞭然。
> 「詩」の香りの高いものを選ぶことで、「ここを目指しなさいよ」と、組長は私たちが目指すべき指標を、暗に示しているわけです。
>  プレバトの金秋戦でも、組長は「これからは技術と独自性、芸術性を一緒に追究していきましょう!」と出演者に呼びかけています。ここにも、比々きさんのおっしゃるように、どこまでも高みを目指す組長の姿勢は現れていますよね。


以前この掲示板でもご紹介しましたが、北海道の【itak】での組長と五十嵐秀彦さんの対談で、そのことを組長もはっきり言ってますよね。

2015年5月30日土曜日の記事
http://itakhaiku.blogspot.com/search?q=%E5%A4%8F%E4%BA%95%E3%81%84%E3%81%A4%E3%81%8D

社交がメインで、「俳句」をその社交の「道具」として使う人も出てくるでしょうけど、そういう人の中からも、いつかは目覚めて俳句の高みを目指す人が出てこないとも限らない。
だから「広場」のどこにいてもいいよ、とは言っていますが、組長の目指しているのは、単なる俳句人口の増加だけではないのは、上記の組長の言葉からも確か。

私たちはその組長の真意をちゃんと汲み取っているか、特に「易きに流れやすい」大多数にとって、組長の言葉の都合のいいところだけをとって、自分が努力しないことの免罪符にしていないか、そこを真摯に自分に問いたいですね。


> ※この件、もしかしたら追加で書き込むかもしれません。私もシツコイ性格で、気になりだしたら止まらないのです(汗)。時々自分でも嫌になるのですが、ご容赦下さい(苦笑)。


私も同類で、「ん?」と思ったら、結構とことん追求する方。
書きながら「発見」し「気づく」ことも多いので、「書く」ことは大いに奨励しています。
いつでも遠慮なく書き込んでください。
大歓迎です!


 

俳句生活

 投稿者:南風の記憶  投稿日:2020年 1月25日(土)09時22分0秒 sp49-106-217-42.msf.spmode.ne.jp
返信・引用
   比々きさん、皆様おはようございます。

 俳句生活の兼題「去年今年」が発表されましたね。いつもながら比々きさんの二句、とても印象に残りました。特にこちらの句、思わず考え込んでしまいました……

「揚げられし骨噛み砕く去年今年」

 沖縄にはグルクンという魚がいて、から揚げにすると美味なのです。うまく揚げると、この句のように、骨まで噛み砕けます。

 ただ……この「噛み砕く」という描写が、なんとも不気味といいますか、不穏な気配を感じました。ひょっとしてこの人物は、何らかの負の感情を抱えており、それを断ち切ろうとしているのではないかと、私は読みました(深読みかもしれませんが……)。


 また、もう一句の「活きいきと水減る花瓶去年今年」の方は、そこに差されているであろう花の生命力、まさに「生きているということの神秘」を思いました。活きいきと葉や茎が伸びるのではなく「水が減る」という着眼に、はっとさせられました。

>組長の「質を高めたい」という願いは、組長の「選」を見れば一目瞭然。
「詩」の香りの高いものを選ぶことで、「ここを目指しなさいよ」と、組長は私たちが目指すべき指標を、暗に示しているわけです。

 プレバトの金秋戦でも、組長は「これからは技術と独自性、芸術性を一緒に追究していきましょう!」と出演者に呼びかけています。ここにも、比々きさんのおっしゃるように、どこまでも高みを目指す組長の姿勢は現れていますよね。

 私も微力ながら、最近組長の句集(伊月集「龍」)を読み進めており、プレバトの“毒舌先生”ではなく、一俳人としての夏井いつき組長について、この機会に少しでも理解したいと思っています。

※この件、もしかしたら追加で書き込むかもしれません。私もシツコイ性格で、気になりだしたら止まらないのです(汗)。時々自分でも嫌になるのですが、ご容赦下さい(苦笑)。

https://stand16.hatenablog.com/

 

批判はなぜ起こるか

 投稿者:比々き  投稿日:2020年 1月23日(木)12時55分57秒 softbank126114212103.bbtec.net
返信・引用 編集済
  南風の記憶さんが書いて下さったのをきっかけに、「なぜ批判が起こるのか」を自分なりに考えてみました。

まず、根本的に俳人は詩人であり、詩心は多く「批評精神」に由来する、ということ。

「批評」と言うのは、真実を覆い隠している垢を引っぺがす行為ですから、この場合は「純粋な俳句愛」故、「見せかけの俳句愛」の化けの皮を引っぺがすべく、彼の詩人の魂(批評精神)は駆り立てられた、と解釈できます。

組長が「いつき組」を「結社にしない」、それも従来の結社のあり方に対する、組長なりの批評精神の現れなのと同じです。

そして「純粋な俳句愛」と「見せかけの俳句愛」という二つがなぜ生まれるかと言うと、俳句を作る人たちの「自分たちはなぜ俳句をやるのか」の「動機」に、大きく分けると二派があり、「文芸として質の向上をなんとしても図りたい」という「熱血勉強派」と、「俳句なんて一時の慰め、気晴らし」と考える「温血不勉強派」、その二派の温度差が、ことに俳句という文芸の「質の向上」を願う「熱血派」から見ると、生ぬるくて許せない、「見せかけの俳句愛」に見える、そんな感じなのではないでしょうか。

特に正岡子規が、当時の主流だった「月並俳句」を嫌い、西洋の「詩」に伍するよう、俳句の「質の向上」を目指した、その精神を熱血派は受け継いでいるんですね。
だから「月並俳句」へ逆戻りする、そんな潮流にはどうしたって賛成などできないわけです。

組長の句会ライブの謳い文句「かんたん」と、そこでの句の作り方が、熱血派の彼の目からは「月並俳句」増産、「温血不勉強派」の増産、そのきっかけ作りに見え、結果「俳句の質を低める」のではないか、そう彼は危惧しているのではないでしょうか。

組長も、句会ライブで作る句はせいぜい「並」と言っていて、それでいいとは言っていません。

組長が目指しているのも、俳句を文学として高みに引き上げたい、俳句の種を蒔かれた人たちの中から、志を高く持って俳句を高みに引き上げる、そんな人材が現れるかもしれない、また少数の天才によってではなく、裾野が切磋琢磨して、裾野の俳句の「質」が高くなれば、裾野の高さが自ずと俳句の山の頂上をも高くする、その「質の向上」の可能性に賭けて種を撒き続けているわけです。

組長の「質を高めたい」という願いは、組長の「選」を見れば一目瞭然。
「詩」の香りの高いものを選ぶことで、「ここを目指しなさいよ」と、組長は私たちが目指すべき指標を、暗に示しているわけです。

組長が「種を蒔くだけで、畑を耕していない」と批判者は言います。
直接的な指導は、組長と句会を共にできる限られた人しか受けられませんが、組長の書いたもの、選評や著作などから、私たちは自学自習し、自らの畑を耕すことができます。

もし私たち組長から種を蒔かれた者が、安閑として「質の向上」を目指さないならば、その非難は私たちにではなく、組長に及びます。
そういう意味で、裾野とはいえ、日ごろの切磋琢磨は欠かせない、そう思って私自身多作や鑑賞に励み、皆さんにもお勧めしているのです。




 

「選は創作」とは?

 投稿者:比々き  投稿日:2020年 1月22日(水)22時05分51秒 softbank126015227142.bbtec.net
返信・引用 編集済
  あ~すけさんの書き込みで思い出したのが、水原秋櫻子著『高濱虚子』(昭和27年、文藝春秋新社)113~116pに出てくる「選は創作」のエピソード。

 螢打つ麥藁細工すてゝあり 名合今更

句会に出たこの句を採った虚子と他の連衆とのやりとりは、以下のようなもの。

虚子「この句は螢狩に出かけて、團扇などで螢を打つてゐると、その道端に麥藁細工が捨てゝあつた。即ち意味は螢打つで一度切れ、それから麥藁細工すてゝありと別なことに移ってゆく。かういふ叙法は新しいものです」

野鳥「私はこの句について、先生とちがふ解釋をしてゐます。螢打つは當然麥藁細工にかゝるべきもので、田舎ではよく螢を打つ麥藁細工をつくります。叙法からいつても、さうとるのが自然ではないでせうか。」

虚子「あなたはさう解釋されるか知りませんが、私は前に説明したような意味で採つたのです。あなたの解では平凡になつてしまふでせう。」

野鳥「平凡になるかどうかわかりませんが、私の解の方が自然だと思ひます。」

虚子「選者といふものは、句を自分の考のやうに解して採るものです。ですから私はいつも選句は選者の創作だと言つてゐます。」

野鳥「それでは今更君の作意はどうなのです。先生と同じですか。それとも私と同じですか。」

今更「いや、私の作意は野鳥先生の言はれた通りです。私の郷里では麥藁細工で螢を打ちますから、それをそのまゝに詠みました」

虚子「作者の作意ばかりが尊重され、選者の解釋が認められなければ、私はホトトギスの雜詠を選することはできません。」

これら一連のやり取りを聞いていた秋櫻子は、こう書いています。

「俳句は選者の創作であるとか、選者と作者の合作であるとかいふ説も私は承服出来なかった。初學者の場合は作に自信がないのであるから、或は選者の力が作者以上であると言へるかも知れぬ。然しすでに十年も俳句に精進した作者が、いつまで選者から初學者の如く見られることは不當である。かりに選者の解釋が作者の作意以上に出て、その句が一層よくなる場合があつたとしても、その選者の力は十分の二三であらう。それが對等であつたりすることは決してない。況や俳句は選者の創作であるなどといふ説は、作者を全く無視したものだと私は思つてゐた。」

こういういきさつが重なって、後に秋櫻子は虚子と袂を分かちます。

虚子が「選は創作」と言ったのは、どういう意味か。
選をする際には、自分流の解釈をする他ない。
その「自分流の解釈」を「創作」と言っているような気がします。

組長も言っていますが、芭蕉であれ、子規であれ、虚子であれ、もちろん組長も含め、誰をも神格化し、絶対視しないこと。

「虚子が言うことだから間違いない」、そうとばかりも言えないことを、上のやり取りは示しています。

「選は創作」、この言葉がどういう文脈の中で出てきたか、どういう意味で使われたか、それを知らずに「選は創作」と言う断片的な言葉だけが独り歩きして、使う人の都合のいい意味に解釈され、用いられている、その危うさを感じます。



 

Re: 鑑賞と多作(+千原ジュニアさんのこと)

 投稿者:比々き  投稿日:2020年 1月22日(水)10時12分42秒 softbank126065207009.bbtec.net
返信・引用
  > No.5248[元記事へ]

>  鑑賞をしないままだと、俳句にはいくつもの“切り取り方”があるにも関わらず、一つの(あるいは少ない)切り取り方でしか句が詠めない。カメラワークで言えば、アップにするか遠近にするか。もしくは正面からか横からか背後からか。
>  その多様な“切り取り方”があることを知るために、鑑賞は必要……というより、創作とセットで行うべきなのだろうと思いました。
>  俳句だけでなく、ジュニアさんは消しゴムはんこにおいても、常に新しい表現を模索することを忘れません。まさに表現者としての、あるべき姿だと思います。


鑑賞は作句のヒントを与えてくれるだけでなく、最大のメリットは、俳句界には詩心を持った作り手が山のようにいることを、その層の厚さを、改めて痛感すること。

「井の中の蛙」が「大海を知る」ことで、「俳句ポスト」などの狭い場所で天を取ろうが地を取ろうが、自分を過大評価しないで済むこと。

また多作のメリットは、そのほとんどが「没」になる「利点」を生かして、「どうせ没になるんだから、思い切り遊んでしまえ」と、「遊び心」を発動させやすいこと。
後がいくらでもあるので、安心して「自己解放」し、躊躇なく「とんでもない句」に挑戦できること。

私の入選句は、ほとんどがその「どうせ没になるんだから、思い切って行っちゃえ」と「遊び心」が発動した句。

多作は必然的に、「想像の世界」というもう一つの現実界に行かなければできません。
そこは、「何でもアリ」の世界。
人を殺したって無害ですから、「自己解放」しやすい。

多作すると、自分を想像の世界に解き放ち、「遊び心」を全開する快感を味わうので、句作りが苦痛ではなく、楽しくなります。

この楽しさを知らないまま、毎度句作りに無い頭を悩ませている方には、四の五の言わずに、まずは「やってみる」ことをお勧めします!


 

鑑賞と多作(+千原ジュニアさんのこと)

 投稿者:南風の記憶  投稿日:2020年 1月21日(火)17時21分48秒 sp49-104-36-251.msf.spmode.ne.jp
返信・引用
   比々きさん、あ~すけさん、皆様こんにちは。前回保留してました「鑑賞」と「多作」について、まだ十分まとめきれていないのですが、現時点で考えていることを書き込ませてください。

 最近の兼題句への取り組み方として、次の手順で取り組んでいます。

①その兼題季語の「過去の句」を探す。
②他の句で参考になるものがないか探す。
(当初は①のみだったのですが、最近では②も同時に行うになりました。)

①の作業では、まずその季語の“雰囲気”をつかみます。さらに、光景の切り取り方など「視点の当て方」で、真似できるものはないか探します。

 そして最近気づいたのが、「視点の当て方」というのは、兼題が違っても適用できる、ということです。

 例えば、組長の以下の句……

「ふるへ合う音叉のごとく曼珠沙華」(伊月集『龍』より)

 この句は直喩を使っています。しかし(私の勝手な想像ですが)、きっと組長の脳裏には、「音叉」と「曼珠沙華」が重なって見えたのだろうと思いました。比喩とはいえ、組長にとっては実景に近かったのかもしれないなと。

 したがって、この句からは“(季語が)何に重なって見えるのか”という切り取り方を学ぶことができたわけです。あとはこれを、自分が句を詠む時に適用するだけです。


 さて、あ~すけさんと比々きさんのおっしゃる「多作“だけ”では限界がある」とのご指摘について、私は次のように解釈しました。

 鑑賞をしないままだと、俳句にはいくつもの“切り取り方”があるにも関わらず、一つの(あるいは少ない)切り取り方でしか句が詠めない。カメラワークで言えば、アップにするか遠近にするか。もしくは正面からか横からか背後からか。

 その多様な“切り取り方”があることを知るために、鑑賞は必要……というより、創作とセットで行うべきなのだろうと思いました。

 ここで私が最も参考にしているのが、プレバトの千原ジュニアさんです。プレバト視聴者の方はご存知の通り、彼の句はバリエーションが豊富です。もちろん失敗することもありますが、成功した時は、本当にはっとする句を詠みます。

 これは彼が、一つの“切り取り方”に固執せず、常に様々なやり方を模索しチャレンジし続けていることの証明です。

 俳句だけでなく、ジュニアさんは消しゴムはんこにおいても、常に新しい表現を模索することを忘れません。まさに表現者としての、あるべき姿だと思います。

 現時点では、以上のように考えています。

>自分は何のために俳句をやっているのか、自己愛なのか、それとも俳句愛なのか?

 比々きさんのコメントを受け、自分なりに考えてみました。私の場合は……元々「俳句を通した批評ができないか」という動機でした。

 ご存知の通り、私の地元はいろいろあり、はっきり主張するだけではどうにもならない問題が多いのです。しかし沈黙するのも、忍びない。その微妙な感情を表現するのに、俳句は適しているのではないかと考えました。

 しかし思いはあっても、そこに技量が伴わないと、やりたいことを実現できません。なので次に来たのが、もっと単純に「少しでも良い句が詠みたい」という思いです。
(最近でも、首里城の句を詠もうとしているのですが、どうも感情が先走ってしまい巧くいきません。そこは課題ですね……)

 賞について。私の経験で言うと……賞を欲しがる人というのは、結局「自分の句に自信がない」のだろうと思います。私も一喜一憂していた時期がありました。

 ですが今は、結果よりも「なぜこの句が採られたのか(採られなかったのか)」ということに、関心が移っています。ちなみに最近、自分で良いと思った句と、選に入る句がずれてしまいがちなので、“何か見落としている視点があるのだろうか”と自己分析中です。

 前述の通り、この「多作と鑑賞」については、まだ思考と実践の途中です。また何か見つかったら、その時に続きを書こうと思います。差し当たり、今回はここまでです。

https://stand16.hatenablog.com/

 

わたしが俳句をやるのは何のため?

 投稿者:比々き  投稿日:2020年 1月21日(火)15時15分0秒 softbank126015036116.bbtec.net
返信・引用 編集済
  あ~すけさんと南風の記憶さんの書き込みを読んで感じたこと。

少なくとも私が「多作」をするのは、「天」を取りたいからではない、ということ。
なぜなら、自分で自分を承認しているので、他者から認められたい、褒められたいという欲求が、私にはほとんど無いから。

なので、天を取ろうが、地を取ろうが、そのことに他者の注意をひいて、自分の力量を他者にアッピールしたいとも思わない。

また、既に気持ち的に救われているので、俳句という自己表現の手段を得て、その「杖」によって癒されたり、救われたりしたい、とも思っていないということ。

じゃあ、なぜ俳句を私がするかと言うと、俳句と関わっていれば「不自然」を避けられそうだから。
こころも、体も、考え方も、「自然」でいられそうだから。

多作することで、「思考」を手放し、体の「自然」が発する声を聴く、自分の内心にコミットする「内観」の習慣が付くから。

俳句をやる人の数だけ「○○のため」があり、いつき組だからといって、その「○○」は必ずしも同じではありません。

組長を批判する人の「○○」と組長の「○○」も、おそらく違うでしょう。

でも、批判者の文章を読むと、彼には「俳句愛」が溢れています。
そこだけは組長と変わりません。

彼の激越な言動は、彼の目から見て、純粋な「俳句愛」ではなく、見せかけの「俳句愛」という「羊の覆いをかぶった」偽善的で姑息な「自己愛」に向けられたもの。

かいつまめば、俳句雑誌、テレビ、新聞などのマスコミ企業には、金子兜太さんが「戦争」の第一原因として挙げた「物質主義」、資本主義の金儲け第一という「隠れた目的」が紛れもなくあり、自社の商品を沢山売るために、多人数を抱えた結社の主宰者や有名俳人を担ぎ出すのを「戦略」としている事。
俳人は俳人で、その戦略を逆手に利用し、有名になってネームバリューを上げ、発言力や影響力、崇拝者を沢山持ちたいという「隠れた動機」から、企業側や他の有名俳人とは「なあなあまあまあ」の関係でいたいという下心が見えること。
自分の結社の投句者をえこひいきし(入賞すればその結社にどっと会員が入ってくるので、経営的にもいい)それが賞の選考にも影響を与えているようだ。

、というのが、どうも彼が苦言を呈する理由のようです。

自分は何のために俳句をやっているのか、自己愛なのか、それとも俳句愛なのか?

12月21日に書き込んだ「俳句の神様に捨てられる人」

・「賞」「グリコのおまけ」が目的の人。
・俳句ではなく、「誉められる」ことを愛している人。

こういう人にならないためにも、是非わたしたちも今一度、「なぜ自分は俳句をするのか」、自問自答したいものですね!

 

夏井いつきは「温故知新の体現者」である!

 投稿者:南風の記憶  投稿日:2020年 1月20日(月)00時24分27秒 sp49-106-212-215.msf.spmode.ne.jp
返信・引用
   比々きさん、あ~すけさん、皆様こんばんは。

 お二人のコメント、興味深く読ませていただきました。それについて書きたいのですが……実は私、今別件で、かなり腑に落ちない思いを抱えております。先にそこを消化させて下さい(苦笑)。

 比々きさんも、きっとご存知かと思います。ツイッター上にて、夏井いつき組長への批判めいたツイートが回ってきて、少し荒れた雰囲気になっていました。

 一応、その方のツイートも読んで、「夏井いつき先生を貶める意図はない」ということや、なぜこのような発言をしたのかも一通り確認しました。

 客観的に見て、プレバトの影響で俳句を始めた方と、それ以前に始めていた方との間に温度差があり、そこで摩擦が生じているのだろう、と解釈しました。

 なので、この方の言い分も分からなくはなかったのですが、やはり「功罪」という表現が、読んだ人の神経を逆なでする原因かなと思いました。

 たしかに組長の取り組んできたことというのは、過去に前例のないことが多く、それによって面白くない思いをした方、ある面で不利益を被った方もいるだろうということは、門外漢の私にも想像がつきます。

 ですが……もし「夏井いつきがいなかったら」俳句界はどうなっていたのか。組長を応援する方も、批判的な方も、一度その視点で考えるべきではないかと思います。

 私のイメージでは、プレバトが人気を博す以前の俳句は、良く言えば「格調高い」、悪く言えば「なんだか難しそう」、言うなれば“伝統芸能”でした。

 きっと“伝統芸能”で良かったという人もいるのかもしれませんが、実はそれこそが、「庶民でも親しめるように」という俳句本来の精神に、反しているのですよね。

 こう考えれば、組長の活動というのは、けっして“革命”ではなく、俳句を“庶民の文化”という本来の場所に、取り戻しただけなのだと。

 まさに組長は、“温故知新の体現者”だと、私は思っています。

 最後に余談ですが……以前、地元の俳句教室に参加した際、私はプレバトを視聴していることを一切口にしなかったのです。組長がどうというより、他の人に影響を受けていると分かると、そこの先生が教えづらくなると思ったので。

 ところが、その先生の方から(俳句をもっと学びたいなら)「プレバトを見た方がいいよ」と勧められ、笑ってしまいました。

 プレバトの他流試合に、宇多喜代子氏らが出演していることからも分かるように、組長の活動を理解する方は、確実に増えてきていると実感したものです。

(※この件について、ブログでも書きました。少々棘のある言い方になっています・笑)

https://stand16.hatenablog.com/

 

へっへっへ

 投稿者:あ~すけ  投稿日:2020年 1月19日(日)10時07分44秒 ai126244045232.61.access-internet.ne.jp
返信・引用
  比々きさんに講釈垂れようなんて、あっしには三十六億年くらい早いですわ!
比々きさんご自身が理解なさっていることのほんの一部を追体験しているだけですから。

で、南風の記憶さんの名を借りて、今まで気付いたことを述べようとしているだけで。
比々きさんに対しては、いわゆる釈迦に説法ではありますが。

> 「鑑賞」は、「門前の小僧習わぬ経を読み」で、名句を師匠とした「感染教育」だと、私は思っています。
>
> 俳句が正真正銘俳句であるためには、「俳人の目」で物・事を見る、その「目」を養わねばなりません。

最近、思うのですが、「門前の小僧」の一人にダウンタウンの浜ちゃんがいますね。
助詞の選択とか、的確な一言が光っています。
「感染教育」というのはコーチングに対するモデリングという教育手法でしょうね。
コーチ自身は、一流アスリートでなくても優秀な人は多いのですが、モデリングであれば、目標とする人は憧れている人である方がいいと思います。
いわゆる絵画芸術における習作というものもモデリングではなかろうかと思います。

> 「易きに流れる」そういう自分に満足できる人はいいですが、「力を尽くさない」自分に満足できない人もいるわけで、そういう人が「求め続け」て、この掲示板に集うのだと思います。

そういうわけで、南風の記憶さん、ちょっとばかり先輩風吹かせて下さい。
まず、多作のコツをいくつか。

以前、紹介した俳句百マス計算や辞書をランダムに開く方法。

それから、連想ゲーム法。
これは以前、櫂未知子先生も俳句さく咲く!で勧めていました。
(久々に櫂未知子先生をNHK短歌でお見かけしました。お元気そうで何より)
連想ゲームが年代的にわからない方は、マジカルバナナでしょうか?
それより若い方には、何と言えば伝わるのでしょうね。
ちなみにスタートは一般的にはお題の季語ですね。

ビジネスマンには、ブレーンストーミング法がいいでしょうね。
アイデアのつくり方という発想法の本もあるようですね。

俳句に特化するなら、ひらのこぼさんの「名句集100冊から学ぶ俳句発想法」がいいです。
これ、面白いのは、川柳の句集も取り上げているのです。
文芸川柳は俳句に劣りませんよ。
久場征子さんの「雪片」から一句「嫉妬心こぼさぬように拍手する」
ゾクゾクしませんか?

とにかく、多作して推敲する。そのために鑑賞する。
そして、選句も。
選者となって選句するというのも、立派な創作の一つであると、強く信じます。

http://ameblo.jp/a-suke-310/entry-12567912474.html

 

Re: 心の奥からの言葉

 投稿者:比々き  投稿日:2020年 1月18日(土)16時38分54秒 softbank126012078160.bbtec.net
返信・引用 編集済
  > No.5243[元記事へ]

> こうやって、発信すること自体が努力だと思います。
> ネットにコミットすることで、何かしないではいられないからです。


私もそう思います。
「求め続けなさい、そうすれば与えられます」、という聖書の言葉がありますが、向上心、探求心があるからこそ、あれこれ煩悶し、試行錯誤するわけです。

締切間際にやっつけ仕事のように句を作って、それで事足れりとする、そういう人には、向上心も探求心も無いでしょう。
「易きに流れる」そういう自分に満足できる人はいいですが、「力を尽くさない」自分に満足できない人もいるわけで、そういう人が「求め続け」て、この掲示板に集うのだと思います。


> 多作はいわば、句の鉱脈を水平に掘り進む行為です。
> 次の一句が天の句になるかもしれませんが、ボツの句であることも多いのです。
> でも、次の一句を詠む以外に、今の一句を推敲することも楽しいと気付きました。
> いわば、鉱脈を縦に掘り進むのです。
> 次の推敲でこの句は天の句と変貌するかもしれないという考えも持ったのです。


「多作」を支えている根拠は、「量が質に転化する」という普遍的経験則です。
しかし「多作だけ」では、あ~すけさんもおっしゃっているように、限界があります。

「多作」+「推敲」、これが私が長年やり続けている方法です。
30~50句出来たところで、毎日見直し、最低5回以上は「推敲」します。
詠みっぱなしで出したことは、選者に失礼なので、一度もありません。


> とはいえ、多作であれ推敲であれ、詩があるかどうか、どうすれば詩を濃く高められるかは実作だけでは得られません。
> やはり鑑賞で、俳人の句のどこが詩なのか分析できないと推敲も多作も精度が落ちてしまいます。


「鑑賞」は、「門前の小僧習わぬ経を読み」で、名句を師匠とした「感染教育」だと、私は思っています。

俳句が正真正銘俳句であるためには、「俳人の目」で物・事を見る、その「目」を養わねばなりません。

慣れ親しんだ思考や想像のクセ、連想のクセ、物を見るときの着眼のクセなどを、「俳人」のそれに「クセ付けし直す」、つまり脳も「俳句脳」に作り直さねばなりません。

アスリートも、種目によって鍛え上げる筋肉の部位や、それによって発達する脳内のニューロンや情報伝達回路が違ってきます。

目も、脳の筋肉も、神経回路も「俳句仕様にする」、それが「鑑賞」の最大の目的。

「多作」+「推敲」+「鑑賞」+「推敲」・・・・・・
「多作・多読・多憶」+「推敲」、これを続けること、そうやって「力を尽くす」こと、それを、向上心のある方々に私は勧めているのです。

 

Re: 心の奥からの言葉

 投稿者:あ~すけ  投稿日:2020年 1月18日(土)13時36分15秒 ai126188037069.59.access-internet.ne.jp
返信・引用
  >  あ~すけさんへ。よろしくお願いします。

ご返信戴いて恐縮です。こちらこそ末永くよろしくお願いいたします。

>  私、ぜんぜん努力なんてしてませんよ(汗)。
>
>  ただ……「その時点での自分の考えをまとめるため」に、この掲示板やツイッターで、自分の考えを書くことは、よくあります。それが“頑張っているように”見えたのかもしれませんが、実態は大したこと何もしていないのです。

こうやって、発信すること自体が努力だと思います。
ネットにコミットすることで、何かしないではいられないからです。

>  そして、今はそれを達成し、どうやら正しいフォームで振れているらしいと分かったので、たくさん素振りをしても大丈夫だろう……なので今は“多作”の段階だろうと考えました。
>
>  また、あ~すけさんは多作にも「限界はくる」とおっしゃっていますが、私はまだそれを言って良いレベルではありません(汗)。まず多作した上で、「やっぱり限界があるな」と実感として言えるように、しばらくは頑張らないといけないかなと思っています(笑)。

限界論には二種ありまして、比々きさんのおっしゃる鑑賞が伴わなければというのが一つ。
もう一つは、「実作」と「鑑賞」の両輪の「実作」においても多作だけでは限界が来るのではなかろうかという説がもう一つです。

http://www.yukari-kunisue-coaching.com/new-blog/2017/10/8/38-

リンク先のエピソードは、私が多作していたころ、常々思っていたことです。
あと1メートル先に金鉱があるかもしれない。
同様に次の一句は天の句になるかもしれないと多作していました。
もちろん、その方法で成功したこともあります。
地選一度、NHK俳句入選九句一度でした。
でも、違う方向もある気がしてきたのです。
多作はいわば、句の鉱脈を水平に掘り進む行為です。
次の一句が天の句になるかもしれませんが、ボツの句であることも多いのです。
でも、次の一句を詠む以外に、今の一句を推敲することも楽しいと気付きました。
いわば、鉱脈を縦に掘り進むのです。
次の推敲でこの句は天の句と変貌するかもしれないという考えも持ったのです。

とはいえ、多作であれ推敲であれ、詩があるかどうか、どうすれば詩を濃く高められるかは実作だけでは得られません。
やはり鑑賞で、俳人の句のどこが詩なのか分析できないと推敲も多作も精度が落ちてしまいます。
それと選句ですね。
ネット句会などで、自分の選句を試す徐々に力が付いてくるのではと思っています。

などと偉そうに言っていますが、俳句ポスト「雪女」では、人選二句と自選句の乖離があまりにも・・・とほほ

http://ameblo.jp/a-suke-310/entry-12567912474.html

 

Re: 心の奥からの言葉

 投稿者:比々き  投稿日:2020年 1月14日(火)13時08分34秒 softbank060148111244.bbtec.net
返信・引用
  > No.5241[元記事へ]

>  この句と出会い、改めて“上手な句を作ろう”と思っているうちは、まだ足りないのだと感じました。そうではなく、自分の心の奥から湧き上がってくる言葉。その人にしかない感性が宿された時、パワーのある句が生まれるのだろうなと。


「自分の心の奥から湧き上がってくる言葉。その人にしかない感性が宿された時、パワーのある句が生まれる」

まさにその通りだと思います。
選者はその「パワー」「熱量」を、敏感に感じとっているのだと思いますよ。

「多作」は、その「自分の心の奥から湧き上がってくる言葉」に耳を澄ますことで成り立つ方法。

組長ブログでも、妹さんの千津さんのブログから引用して、

「季語を心身に取り入れ、俳句にして取り出す、あなたという存在は、自然→言葉、の変換装置なのだ。」

https://blog.goo.ne.jp/msgecko/e/ad9655cde116f6de1750106abc2fd87b

とありましたが、私たちの一番身近な「自然」は、私たちの「身体」そのもの。
その「自然」の声を聴く、そうやって心身共により「自然」に近づいていく、それが俳句であり、その方法として「多作」がある、そんな風に私は感じています。

「身体」が発する声、「自然」の声を無視するから、もしかしたら心も体も病むのかもしれない、とも思ったりします。

「いい句を作ろう」が動機ではなく、「自然に帰ろう」が動機で俳句を作る、そんな感じでしょうか。


>  また、あ~すけさんは多作にも「限界はくる」とおっしゃっていますが、私はまだそれを言って良いレベルではありません(汗)。まず多作した上で、「やっぱり限界があるな」と実感として言えるように、しばらくは頑張らないといけないかなと思っています(笑)。


「多作多捨」を唱道した「俳句スポーツ説」の波多野爽波は、同時に「多読多憶」をも唱道しています。
「多作」だけだと、あ~すけさんの言うように、いつか必ず「限界」がきます。
なぜなら俳句は「詠む」と「読む」の「両輪」で、初めて「前進」できる車だからです。

車には両輪が付いているのに、片方しか回らなかったら、同じところを堂々巡りするだけですよね。

いわゆる子供が乗るような一輪車でも「前進」は出来ますが、行ける距離はたかが知れていますし、高みを目指して坂道を登ることは、かなり厳しいのではないでしょうか。

南風の記憶さんが中谷寛章さんの句を読んで、句作にとって何が大事か、そのことに「気づいた」ように、「読む」ことは、多くの大事な「気づき」を得るうえで、「俳句とは何か」を知るうえで、有意義なだけでなく不可欠な方法だと、実践しながら私は痛感しています。

「後悔先に立たず」

言われても言われても「ラク」な方を選び「やらない」で数年後に後悔するか、やるだけやって後悔しないか、俳人の道は二択。

自分を甘やかす人とそうでない人、ここが運命の分かれ目、そんな気がします。

 

心の奥からの言葉

 投稿者:南風の記憶  投稿日:2020年 1月13日(月)10時30分32秒 sp49-96-35-250.mse.spmode.ne.jp
返信・引用
   比々きさん、あ~すけさん、皆様こんにちは。

 今回は、昨年に出会った句でとても印象深いものを、一つ紹介させてください。もしかしたらご存知の句かもしれませんが、ご容赦ください。

冬眠すわれら千の眼球売り払い(中谷寛章)

 お察しの通り、俳句ポストの兼題「冬眠」の句を詠む際に、偶然出会った句です。眼球をあえて「め」と読ませていること、「千の眼球」を「売り払う」という強烈な表現が、目に焼き付いてしまいました。

 正直、この句が良い句なのかどうか、私には分かりません。しかし作者にとっては、「眼球」を「売り払う」と表現するしかなかったのだと。例えば“目を瞑る”などではダメだったのだと。それだけは理解できました。

 この句と出会い、改めて“上手な句を作ろう”と思っているうちは、まだ足りないのだと感じました。そうではなく、自分の心の奥から湧き上がってくる言葉。その人にしかない感性が宿された時、パワーのある句が生まれるのだろうなと。

比々きさんへ。

>俳ポの場合、私も二日ぐらいで30~50句ほど作るのですが、数を作ろうとすると、まず考えてたらできませんから、必然的に考えることを辞めることになります。

 そうですよね!「必然的に考えることを辞めることになる」まさにこれを体感しました。なので、先にたくさん作ると“決める”ということが大事なのだと分かりました。まだ比々きさんほどハイペースでは詠めませんが、これはもう訓練するしかないと思っています。


 あ~すけさんへ。よろしくお願いします。


 私、ぜんぜん努力なんてしてませんよ(汗)。ツイッター等で、俳句ポスト上位常連の方が、どんなふうに句を作っているのかという話を読んだら、自分が「努力している」なんて、口が裂けても言えません(苦笑)。

 ただ……「その時点での自分の考えをまとめるため」に、この掲示板やツイッターで、自分の考えを書くことは、よくあります。それが“頑張っているように”見えたのかもしれませんが、実態は大したこと何もしていないのです。いまさら「多作」と言い出すということは、今までやってこなかったということですから(!)。

 ただ……正確に言うと、今までは多作を「やらなかった」というより「できなかった」という方が、正確かもしれません。

 多作が“素振り”であるというのは、本当のその通りだと思います。ただ初心者の時点では「正しい振り方を知らなかった」ので、こんな状態で多作すれば「間違ったフォームを身につけてしまう」だけだろうと。それで、せめて俳句ポストで「人」には安定して入れるようになるまでは、少数精鋭でいくべきかなと(笑)。

 そして、今はそれを達成し、どうやら正しいフォームで振れているらしいと分かったので、たくさん素振りをしても大丈夫だろう……なので今は“多作”の段階だろうと考えました。

 また、あ~すけさんは多作にも「限界はくる」とおっしゃっていますが、私はまだそれを言って良いレベルではありません(汗)。まず多作した上で、「やっぱり限界があるな」と実感として言えるように、しばらくは頑張らないといけないかなと思っています(笑)。

https://stand16.hatenablog.com/

 

瀬戸内松山国際写真俳句コンテスト

 投稿者:比々き  投稿日:2020年 1月13日(月)10時24分55秒 softbank126010230244.bbtec.net
返信・引用
  締め切りは明日14日。
組長も審査員の一人です。

過去の受賞句と写真を見ると、「海」に関連した写真が無くても、俳句に海関連の言葉が入っていて、写真から海が想起できればいいみたい。

写真の無い方は、課題写真を見ての「課題句」の投句に、是非チャレンジを。
12枚あるので各1句、最大12句まで応募できます。

詳細はこちらから。

http://matsuyamahaiku.jp/contest/index.html


 

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