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ダメ押し「虚子の写生観」

 投稿者:比々き  投稿日:2019年 2月16日(土)12時30分42秒 softbank060148116079.bbtec.net
返信・引用 編集済
  十年前に出た虚子没後50年記念のムック本『高浜虚子の世界』(角川学芸出版)を読んでいるのですが、この中に虚子の「写生」を巡る言葉が幾つも引用されており、これはという言葉を、虚子への誤解を解く意味でも、ダメ押しで書き写しておきます。

「俳句も詩でありますから、我々の感情をうたふものでなければなりません。が、俳句には季題といふものが必要でありますから、その季題を通じて感情を詠わねばなりません。俳句は季題を通じて感情を詠い、また季題の刺戟を受けて感情が躍動する、つまり季題と感情とが互いに相援け合って生まれるのであります。」(昭和十年『俳句読本』)

「写生といふものは何でも目で見たものを其ままスケッチすればいいといふ風に心得てゐる人がありますが、そんな軽はずみなものではありません。」(大正三年『俳句の作りやう』)

「写生といふものは、只写すといふことではなくて、作者がその景色を見てその心に映じた影を描くのである。」(昭和四年「写生俳話一則」)

「写生をする場合に最も注意すべきことは目前の景色にのみとらはれないで常に心を天の一方に遊ばせるといふことである。」(昭和十三年「心は生々躍動してをれ」)


※これらの言葉のどこから「見たままを【主観を交えずに】記述する客観写生」という言葉が出て来るのか不思議です。

虚子造反派が自分たちの造反を正当化するためにでっち上げた虚偽の写生観、それを、虚子の実際の言葉に当たって「確認」する事もせず、ただ鵜呑みにしただけの言葉、自身の検証不足、勉強不足を図らずも露呈した言葉、そんな気がします。



 
 

俳句は俺が知る限り一番ヤバイ「遊び」だ

 投稿者:比々き  投稿日:2019年 2月16日(土)00時32分48秒 softbank060148116079.bbtec.net
返信・引用 編集済
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人生に迷うすべての人たちに送る、前代未聞の俳句生き方バイブル決定版!

目次
はじめにーー本当の詩は世の中が捨てた中にある
第一講 俳人になるための心構え一〇箇条
〇、心を取り戻せ
一、道楽でたいていのことは学べる
二、いいものに触れる
三、謙虚さは傲慢である
四、含羞を持て
五、便利さに溺れるな
六、メディアより己を過信するべし
七、刺激には刺激を
八、ケチらない
九、変化を楽しむ
一〇、頑張るのは一度だけ
第二講 俳句的脳内回路の作り方
詠みたいモノを思い浮かべる
連想にはルールがある
言葉の展開法
モノからシーンへ
実作
第三講 最強句会ルール・実践編
屍派句会のやり方
実践編
一回戦 「し」と読める漢字の入った句
二回戦 年末感のある句
三回戦 糸偏の漢字の入った句
投句一覧
第四講 悩み別作句技法
悩み1「自分が誰だかわかりません」
悩み2「統合失調症で先が不安です」
悩み3「電車に気になる女性がいます」
悩み4「難病生活、死との向き合い方は」
悩み5「褒められる俳句が作りたい」
悩み6「年相応になるべきでしょうか」
悩み7「幸せな人生、もうひと花咲かせるべき?」
第五講 俺を変えた魂の二五句
おわりにーー遺言にかえて
付録 廃人日記


 

虚と実

 投稿者:比々き  投稿日:2019年 2月15日(金)12時37分16秒 softbank060148116079.bbtec.net
返信・引用
  高柳克弘さんの「なにがうそで、なにがほんとの」と題するエッセイ。

http://textview.jp/post/culture/32007

「俳諧(はいかい)は火をも水にいひなす」(藤原清輔『奥義抄』)を引用し、

《作り事を、いかにも本当の事のように思わせることが肝要なのであり、発想のきっかけとなった現実を問う必要はないのです。》

という高柳さん。

俳句は、「本当である」ことより「本当らしい」の方が、はるかに大切な世界なんですね!

「現実の景」、または「言葉そのもの」、そしてその「言葉のイメージ」から着想を得て「頭蓋の中に浮かび上がったもう一つの現実」、言葉にしなければ「闇から闇に葬られてしまうもの」、それを「見える化」するのが俳句なのかな?

 

詩人の直観を養う

 投稿者:比々き  投稿日:2019年 2月14日(木)16時53分35秒 softbank060148116079.bbtec.net
返信・引用 編集済
  俳句をやる一つの大きな効用は、人を含めた自然を観察し、本質を洞察しようとする日ごとの訓練、それによって、詩人の直観を養い、磨く事じゃないのか、そんなことを最近思います。

虚子が主観と客観は切り分けられないことを感得していた、そのことに驚きましたが、これも詩人の直観のなせる業。

主客がともに影響し合い、干渉し合うということは、他者を傷つけることは=周り廻って自分を傷つけることであり、自然を破壊するということは=周り廻ってその破壊する人を傷つけること。

それを知っていれば、どんなに商業主義、もうけ第一主義が言葉巧みに言いくるめようとしても、背後に隠された詭弁やエゴイズム、嘘を、詩人の直観は見抜くに違いありません。

平和を願うなら、この直観を鈍らせてはならない、「坑道のカナリア」、俳人にはもしかしたらそういう役割もあるのかも、そんなことを思ったりしています。
 

Re: 俳句論のゆくえ(25)対立する俳句論の相補性と両行性

 投稿者:比良山  投稿日:2019年 2月12日(火)06時59分13秒 sp49-96-15-145.mse.spmode.ne.jp
返信・引用
  > No.5070[元記事へ]

> > 【写生VS非写生】
> >  俳句は写生か非写生(想像・空想・妄想)かという議論がある。この問題が複雑であるのは、
> >  【写生という言葉の定義が人によりことなり定まっていない】からである。
> >  さらに、写生を分けて、客観写生と主観写生が存在しているが、この分け方が複雑なのは、
> >  【客観と主観の言葉の定義が曖昧】だからである。【作品の良し悪しと写生かどうかは直接関係が無い。
> >  作品の個々の中味によって良い作品かどうかが決まる。】【読者・選者の俳句観によって作品の良し
> >  悪しが決められる。】
>
>
> 比良山さん、またまたタイムリーな記事、ありがとうございます!
> 阪口さんの考えの、特に【 】を付けたところは、私も全く同感です。
> 特に最後の「作品の良し悪し」は、あくまでも相対的なもので、絶対的なものではない、という考えには全面的に賛成です。
> 選者がいいと思う句と読者がいいと思う句が違っても、それを根拠に、選者に見る眼がないと非難するのは、完全に的外れということですね。
>
>
> >  【客観的写生VS主観的写生】
> >  作者の心の内部を描写する主観的写生と、内部の心を無視して、目に見えた外部の物を忠実に
> >  描写する客観的写生がある。しかし、客観と主観の定義が正確でないから曖昧になる。この問題
> >  もまた、作品の評価とは本質的には無関係である。作品の評価は個々の具体的な中味による。
> >  作者の思う主観・客観と読者・評者のそれとは定義が異なる。【科学の世界では主観が客観を動か
> >  すという現象が証明されているから客観的にいっても客観と主観の境界は曖昧である。】
> >  批評家は作品の具体的な中味を判断すべきである。
>
>
> 【 】の部分は、まさに量子力学的世界観、主客未分、主客同一のこと。
> 「主」と「客」は「分けられるものではない」と、ハイゼンベルグなどの物理学者が見つけたことを、虚子が大正年代に既に洞察していたことに驚きを覚えます。
>
>
> >  【自然の真VS文芸上の真】
> >  水原秋櫻子が「ホトトギス」を離れ「馬酔木」を創立する契機となった論争である。
> > 「自然の真」の描写は「客観写生」、「文芸上の真」は「主観写生」に近いため、この概念の
> >  対立は、客観写生VS主観写生の対立に近い。主観的思想を加えた俳句が「文芸上」の表現に
> >  なる。この対立は人によって異なるのではなく、一人の俳人の中でも混在する。
> >  「自然の真」を観察できるのは科学者だけであり、言葉だけで俳句を詠む人は、純粋に
> >  「自然の真」だけを描写することは不可能である。
>
>
> 「俳句道場」の谷村さんが、
>
> 「モノからの【実感】(モノの見えたる光・そんな気がする)で【宇宙の真理を掴もうとする】のが俳人」
> 「ベルヌーイの定理だとか、圧力の関係で、、、といわれてもなかなか専門家でないと理解しにくいが、【このようにいわれるとストンと納得できる】のが【詩の力】というものであり、【これはこれで一つの真実】であろう」
>
> と言っているように、俳人の仕事は【純粋に「自然の真」だけを描写すること】ではなく、詩人の直観や「実感」によって、人事も含めた自然界の実相に迫り、「ストンと納得できる」「一つの真実」=「本当らしさ」を提示することなんですよね。
>
> 虚子は「科学者のように【純粋に自然の真】だけを詠め」と言っているわけではないわけです。
>
>
> >  【花鳥諷詠俳句(極楽の文学)VS社会性俳句(振興俳句)】
> >  「花鳥諷詠」は俳句の内容である。【自然と人間を含む】と高濱虚子はいう。【人間を詠む立場に
> >   おいて、人間探求や社会性俳句と内容で重なる。】「花鳥諷詠」は花鳥風月を愛する立場であり、
> >   芭蕉の尊敬した荘子の説く造化随順・四季随順の立場であり、【宇宙・自然・造化との一体感を
> >   大切にする。】虚子は、「花鳥諷詠」の立場を「極楽の文学」と考えた。花鳥風月を愛すること
> >   をこの世の浄土とした。戦争の地獄を句に詠むだけではこの世に平和は来ない。【花鳥を愛する
> >   ことは平和を愛し戦争を憎むことである。】(略)
> >   振興俳句、社会性俳句、花鳥諷詠俳句等の概念的な区分けをせずに、個々の作品の具体的な
> >   中味の分析・批評が必要である。
>
>
> 「自然」を大事にする心が「平和」や「極楽」を招来する、、、
> その通りだと私も思います。
> 私が社会人入学して「生物学」を学んだのは、「自然はどうなっているか?」「自然はどうやっているか?」それを知りたかったからです。
> 人間として最も「自然」な生き方や考え方は?
> 虚子は、生涯こう自問自答しながら生きた人だった、そう思えてなりません。
>
>
> >  【結び】p119
> >  具体的に何が優れているのか【作品の純粋批評】が書かれることが俳句史で最も大切なことである。
> >  ジャーナリスティックな時評・評伝・人間関係の記述は多いが、山本健吉以降に評論家が
> >  いないと言われるのは、作品が良い理由を公平で客観的で分かりやすく述べる純粋批評家が
> >  少ないからである。
>
>
> 俳句の宿命として、最後は読者の読みで句が完成する、というところがあります。
> その読者が十人十色で、句の良否を判定する「絶対的な尺度」というものが無い中で、果たして【作品の純粋批評】が成り立つのかどうか、、、
>
> ・詩人の直観によって【一つの事実】=【本当らしさ】が提示されている。
> ・【詩的】かつ【生き生きと描写】されている。
> ・【視点がユニーク】で、新たな【発見や気づき】を与えてくれる。
> ・読者の脳裏に鮮やかに再現され、作者の意図、【感動の所在が明確】。
> ・様々な解釈の余地があり、【多義的】であり、余韻、広がり、深まりがある。
>
> 読者としての私はこんな尺度で読むことが多いのですが、皆さんはいかがでしょうか?
>
>
 比々きさん。比々きさんの尺度は非常に参考になります。句作りや選句で活用したいと
思います。ありがとうございます。m(__)m
 

Re: 俳句論のゆくえ(25)対立する俳句論の相補性と両行性

 投稿者:比々き  投稿日:2019年 2月11日(月)21時18分8秒 softbank060148116079.bbtec.net
返信・引用 編集済
  > No.5069[元記事へ]

> 【写生VS非写生】
>  俳句は写生か非写生(想像・空想・妄想)かという議論がある。この問題が複雑であるのは、
>  【写生という言葉の定義が人によりことなり定まっていない】からである。
>  さらに、写生を分けて、客観写生と主観写生が存在しているが、この分け方が複雑なのは、
>  【客観と主観の言葉の定義が曖昧】だからである。【作品の良し悪しと写生かどうかは直接関係が無い。
>  作品の個々の中味によって良い作品かどうかが決まる。】【読者・選者の俳句観によって作品の良し
>  悪しが決められる。】


比良山さん、またまたタイムリーな記事、ありがとうございます!
阪口さんの考えの、特に【 】を付けたところは、私も全く同感です。
特に最後の「作品の良し悪し」は、あくまでも相対的なもので、絶対的なものではない、という考えには全面的に賛成です。
選者がいいと思う句と読者がいいと思う句が違っても、それを根拠に、選者に見る眼がないと非難するのは、完全に的外れということですね。


>  【客観的写生VS主観的写生】
>  作者の心の内部を描写する主観的写生と、内部の心を無視して、目に見えた外部の物を忠実に
>  描写する客観的写生がある。しかし、客観と主観の定義が正確でないから曖昧になる。この問題
>  もまた、作品の評価とは本質的には無関係である。作品の評価は個々の具体的な中味による。
>  作者の思う主観・客観と読者・評者のそれとは定義が異なる。【科学の世界では主観が客観を動か
>  すという現象が証明されているから客観的にいっても客観と主観の境界は曖昧である。】
>  批評家は作品の具体的な中味を判断すべきである。


【 】の部分は、まさに量子力学的世界観、主客未分、主客同一のこと。
「主」と「客」は「分けられるものではない」と、ハイゼンベルグなどの物理学者が見つけたことを、虚子が大正年代に既に洞察していたことに驚きを覚えます。


>  【自然の真VS文芸上の真】
>  水原秋櫻子が「ホトトギス」を離れ「馬酔木」を創立する契機となった論争である。
> 「自然の真」の描写は「客観写生」、「文芸上の真」は「主観写生」に近いため、この概念の
>  対立は、客観写生VS主観写生の対立に近い。主観的思想を加えた俳句が「文芸上」の表現に
>  なる。この対立は人によって異なるのではなく、一人の俳人の中でも混在する。
>  「自然の真」を観察できるのは科学者だけであり、言葉だけで俳句を詠む人は、純粋に
>  「自然の真」だけを描写することは不可能である。


「俳句道場」の谷村さんが、

「モノからの【実感】(モノの見えたる光・そんな気がする)で【宇宙の真理を掴もうとする】のが俳人」
「ベルヌーイの定理だとか、圧力の関係で、、、といわれてもなかなか専門家でないと理解しにくいが、【このようにいわれるとストンと納得できる】のが【詩の力】というものであり、【これはこれで一つの真実】であろう」

と言っているように、俳人の仕事は【純粋に「自然の真」だけを描写すること】ではなく、詩人の直観や「実感」によって、人事も含めた自然界の実相に迫り、「ストンと納得できる」「一つの真実」=「本当らしさ」を提示することなんですよね。

虚子は「科学者のように【純粋に自然の真】だけを詠め」と言っているわけではないわけです。


>  【花鳥諷詠俳句(極楽の文学)VS社会性俳句(振興俳句)】
>  「花鳥諷詠」は俳句の内容である。【自然と人間を含む】と高濱虚子はいう。【人間を詠む立場に
>   おいて、人間探求や社会性俳句と内容で重なる。】「花鳥諷詠」は花鳥風月を愛する立場であり、
>   芭蕉の尊敬した荘子の説く造化随順・四季随順の立場であり、【宇宙・自然・造化との一体感を
>   大切にする。】虚子は、「花鳥諷詠」の立場を「極楽の文学」と考えた。花鳥風月を愛すること
>   をこの世の浄土とした。戦争の地獄を句に詠むだけではこの世に平和は来ない。【花鳥を愛する
>   ことは平和を愛し戦争を憎むことである。】(略)
>   振興俳句、社会性俳句、花鳥諷詠俳句等の概念的な区分けをせずに、個々の作品の具体的な
>   中味の分析・批評が必要である。


「自然」を大事にする心が「平和」や「極楽」を招来する、、、
その通りだと私も思います。
私が社会人入学して「生物学」を学んだのは、「自然はどうなっているか?」「自然はどうやっているか?」それを知りたかったからです。
人間として最も「自然」な生き方や考え方は?
虚子は、生涯こう自問自答しながら生きた人だった、そう思えてなりません。


>  【結び】p119
>  具体的に何が優れているのか【作品の純粋批評】が書かれることが俳句史で最も大切なことである。
>  ジャーナリスティックな時評・評伝・人間関係の記述は多いが、山本健吉以降に評論家が
>  いないと言われるのは、作品が良い理由を公平で客観的で分かりやすく述べる純粋批評家が
>  少ないからである。


俳句の宿命として、最後は読者の読みで句が完成する、というところがあります。
その読者が十人十色で、句の良否を判定する「絶対的な尺度」というものが無い中で、果たして【作品の純粋批評】が成り立つのかどうか、、、

・詩人の直観によって【一つの事実】=【本当らしさ】が提示されている。
・【詩的】かつ【生き生きと描写】されている。
・【視点がユニーク】で、新たな【発見や気づき】を与えてくれる。
・読者の脳裏に鮮やかに再現され、作者の意図、【感動の所在が明確】。
・様々な解釈の余地があり、【多義的】であり、余韻、広がり、深まりがある。

読者としての私はこんな尺度で読むことが多いのですが、皆さんはいかがでしょうか?

 

俳句論のゆくえ(25)対立する俳句論の相補性と両行性

 投稿者:比良山  投稿日:2019年 2月11日(月)14時07分49秒 sp49-104-18-183.msf.spmode.ne.jp
返信・引用
  比々きさん。後先になって申し訳ありません。阪口昌弘氏が「俳壇」2019年1月号に俳句論史における対立する概念について纏められていました。その中の興味深い項目をいくつか抜粋してみました。

【写生VS非写生】
 俳句は写生か非写生(想像・空想・妄想)かという議論がある。この問題が複雑であるのは、
 写生という言葉の定義が人によりことなり定まっていないからである。
 さらに、写生を分けて、客観写生と主観写生が存在しているが、この分け方が複雑なのは、
 客観と主観の言葉の定義が曖昧だからである。作品の良し悪しと写生かどうかは直接関係が無い。
 作品の個々の中味によって良い作品かどうかが決まる。読者・選者の俳句観によって作品の良し
 悪しが決められる。

 【客観的写生VS主観的写生】
 作者の心の内部を描写する主観的写生と、内部の心を無視して、目に見えた外部の物を忠実に
 描写する客観的写生がある。しかし、客観と主観の定義が正確でないから曖昧になる。この問題
 もまた、作品の評価とは本質的には無関係である。作品の評価は個々の具体的な中味による。
 作者の思う主観・客観と読者・評者のそれとは定義が異なる。科学の世界では主観が客観を動か
 すという現象が証明されているから客観的にいっても客観と主観の境界は曖昧である。
 批評家は作品の具体的な中味を判断すべきである。

 【自然の真VS文芸上の真】
 水原秋櫻子が「ホトトギス」を離れ「馬酔木」を創立する契機となった論争である。
「自然の真」の描写は「客観写生」、「文芸上の真」は「主観写生」に近いため、この概念の
 対立は、客観写生VS主観写生の対立に近い。主観的思想を加えた俳句が「文芸上」の表現に
 なる。この対立は人によって異なるのではなく、一人の俳人の中でも混在する。
 「自然の真」を観察できるのは科学者だけであり、言葉だけで俳句を詠む人は、純粋に
 「自然の真」だけを描写することは不可能である。

 【花鳥諷詠俳句(極楽の文学)VS社会性俳句(振興俳句)】
 「花鳥諷詠」は俳句の内容である。自然と人間を含むと高濱虚子はいう。人間を詠む立場に
  おいて、人間探求や社会性俳句と内容で重なる。「花鳥諷詠」は花鳥風月を愛する立場であり、
  芭蕉の尊敬した荘子の説く造化随順・四季随順の立場であり、宇宙・自然・造化との一体感を
  大切にする。虚子は、「花鳥諷詠」の立場を「極楽の文学」と考えた。花鳥風月を愛すること
  をこの世の浄土とした。戦争の地獄を句に詠むだけではこの世に平和は来ない。花鳥を愛する
  ことは平和を愛し戦争を憎むことである。(略)
  振興俳句、社会性俳句、花鳥諷詠俳句等の概念的な区分けをせずに、個々の作品の具体的な
  中味の分析・批評が必要である。
  (以下略)

 【結び】p119
 具体的に何が優れているのか作品の純粋批評が書かれることが俳句史で最も大切なことである。
 ジャーナリスティックな時評・評伝・人間関係の記述は多いが、山本健吉以降に評論家が
 いないと言われるのは、作品が良い理由を公平で客観的で分かりやすく述べる純粋批評家が
 少ないからである。
 【出典;総合俳句雑誌「俳壇」2019年1月号p114-119 より一部抜粋】

以上ですが参考になりましたでしょうか。(@_@;)

 

Re: 俳句と批評

 投稿者:比良山  投稿日:2019年 2月11日(月)03時30分19秒 sp49-104-13-34.msf.spmode.ne.jp
返信・引用
  >また「藤の花」の歌にしても、その光景からは、いろんな観点に立った歌ができそうであるが、子規はそれらのさまざまな可能性の中で、畳の上に届かない点に【感興をもった】のであって、そこに子規の【主観】による選択が見られると虚子は説くのである。そして次のように言っている。「斯の如く【客観】句といふと雖も矢張り【主観】の領域のものであり、【客観】歌といふと雖も固より【主観】の領域のものである。前にも言った如く些くとも〈選択〉といふことが行なはるることによって不合理なこととなり、又自然の姿を描写した如き【客観】句も仔細に吟味すれば【主観】の領域のものとなる。斯かれば厳密に之を言って客観写生といふものは曖昧になって来る。客観写生句といふべきものが果して存在してゐるや否やさへ疑問となってくる。」そして「少くとも【取捨選択】が行はれて一即ち【作者の頭が働いて】一十七字に写し得る範囲内で自然の一片を取って之を写すに過ぎぬ。此の場合其の句が何ら【主観詞】を交へずに【客観】の景象を描いてゐるものであれば之を【客観写生】句と称へるのである。裏面に作者の【主観】の働いていることは如何なる場合でも同じ事である。」
>
> ※おそらく神野さんはここの「主観詞」を「主観」と読み違えたと思われます。
>
★比々きさんにこうしてまとめて頂いて私にもわかったような気がしました。「主観」と「主観詞」の違いと言って頂いて目から鱗です。?

> 「物心一如といふ言葉は此場合にも適用することが出来る。即ち作者の【感興】がもとになって【大自然の秘鍵】が握れるのである。」(虚子「写生といふこと]大正14年10 月「ホトトギス」)」
>
> ※ここは「俳句道場」の谷村さんの言う、「実感」を手掛かりに「宇宙の真理を掴もうとする」に呼応しています。
>
> 「小さい自己を立てようとする努力を一切抛って、大自然の一行を忠実に写生しようと志す所に人間の大きな念願が無ければならぬ。」(虚子「雑詠選集」雑記(三)大正12年3 月「ホトトギス」)
>
> ※「自己顕示」が目的であってはならない、もっと「真理探究」という大きな目標を持て、という意味だと私は受け取りました。
>
> ※もしかして分派していった人たちの中には、「真理探究」などには興味がなく、ひたすら「自己顕示」に走った人がいたかもしれません。

★目指すは「自己顕示」ではなく「真理探求」ですね。これも目から鱗です。?

> 「写生といふことは技巧といふことを常に伴ふものである。ここに技巧といふのは所謂技巧の為の技巧といふやうな悪い意味ではない。即ち【適当なる表現法】をいふのである。要点をつかむといふことは、つかむだ言午りではいけないので、【巧みに其を表現することを含んでいふ】のである。」(虚子「写生といふこと」大正14年10 月「ホトトギス」)
>
> 「俳句らしいものと、俳句らしくないものとを区別する。(略)【措辞】の上からはもっとも厳密に検討する」(『俳句への道』)
>
> ※措辞:詩歌や文章などの、【言葉の使い方や辞句の配置のしかた】。
>
> ※岸本尚毅さんも「客観写生」には、独りよがりな描き方ではなく、「他者」の脳裏にもちゃんと同じ景が再現され、作者の伝えたいことがちゃんと伝わるように「描写を工夫」する、「客(自分以外)にも同じ景が観え、感動が生き生きと伝わるように描写する」、それが含まれると言っています。
>
★私はご多分に漏れず俳句の描写力がこころもとないので措辞については「俳句辞典」等で先人の秀句を詞の使い方の例句として必ず参照するようにしようと思いますが、これも客観写生の一端と理解しました。(@_@;)

> 「先づ私は俳句の道は決して一つではない、様々である。各人各様に歩むべき道は異ってゐるといふことを言った。それは今まで挙げ来った人々の句を一々吟味することによって直ちに明瞭になることと思ふ。一人として同じ道を歩いてゐる人はない。又少しでも異った道を歩いてゐることによって始めてそれ等の人の存在は明らかになって来て居る。世上には我儘勝手な論者があって、道は此一筋ほかない、其他の道を歩むものは皆邪道に陥入ったものである、と高唱する。かかる時俳句界の多くの人は、皆絶望の声を放って、それはとても自分の歩むことの出来る道ではない、自分は到底俳句界に立つことは出来ない、といふ。かかる時俳句界は混乱し、衰亡する。」(虚子『俳句の進むべき道』)
>
>
> ※これを読むだけでも、いかに虚子が誤解され、誤り伝えられてきたかが解ります。
>
> ※これらを私なりにまとめると、
>
> ◆作者の「心が動かない」ものを描いても、それは俳句じゃない、ということ。
>  ・ドリアン・助川さんの「積極的感受」とリンクしますね。
>
> ◆その「心」の底には、「真理探究」の志がなければならない、ということ。
>  ・「俳句道場」の谷村さんの考えともリンクします。
>
> ◆「ああ、作者はここに感動したんだな」と、ちゃんと第三者にも伝わる、そしてそのための「描写の工夫が見て取れる」、そういうものだけが「厳密」な意味で「俳句」だということ。
>  ・岸本さんの考えとリンクします。
>
> 「俳句って何?」を考え続けてきた私には、ようやくバラバラなものが繋がったような、霧が晴れたような、そんな論文でした。
>
> 「求め続けなさい。そうすれば与えられます」(聖書)
>
> 俳句の神様に感謝、です!
>
★この最後の比々きさんのおまとめは句作りの指針として大事にしていきたいと思います。ありがとうございました。m(__)m
>
 

Re: 俳句と批評

 投稿者:比々き  投稿日:2019年 2月10日(日)15時33分14秒 softbank060148116079.bbtec.net
返信・引用 編集済
  > No.5066[元記事へ]

> じっくり詠まさせていただき客観写生は作者の主観の上に包含されて存在するものであり、客観(自然)が比較的表に出てくるものが客観写生であり
> 一方主観が表にでてくるものが主観写生であるのかなと思いましたが、いずれにしても作者の主観がまったく存在しないというものではないと
> 自分なりに理解しました。ただ自分の主観をわかってもらうためにも客観(自然)写生が大事なのですよと虚子さんは言っているのかなと思いました。


まず虚子の言う「主観」とは何か、「客観」とは何か、彼の「俳句観」はどのようなものだったのか、それを明確に掴みたいと思います。

「」は論文の引用です。

「 高山と荒海の間炉を開く  未灰
作者はこの場合箪笥にも、本箱にもその他室内の何物にも目をくれず、広く天地を見まわして、高山と荒海とを得、その中にあって炉を開くことに【興味を覚えた】のであり、ここに作者の【主観】の働きがあり、読者に訴えてくるのもその点である」(虚子「俳句の進むべき道」)

「いくら珍しい【客観】の事実に出遇った所で、それが自己の【主観】と抱合せぬ種類のものであったならば、それは何の役にも立たぬといふのである。客観尊重論者になると兎角そこの区別を忘れて、何でもかまわない眼に見た新しい事実でさへあれば、これを描写する価値ありとする。そこは我れ等の著しく反対する所である。幾ら新しい【客観】の事実が見つかったにした所で、我【主観】と没交渉のものである以上それは何等の価値のないものである」(同上)

※これを読んだだけでも、神野さんの「見たままを【主観を交えずに】記述する客観写生」が虚子のものではない、ということがはっきり解ります。

※補足すれば、「見たままを【主観を交えずに】記述する客観写生」は子規が唱道したものであり、虚子はむしろそれに「そんなことは不可能」と異議を唱えています。

「虚子が【主観】的といふのは(略)【情意】や【想像】や【思念】などをはたらかせたものを意味している。」(北住敏夫『写生俳句及び写生文の研究』p171)」

「あれだけの観察をし、取捨選択をし、描写するといふうちに必ず作者の【主観】が働いています。こういふ意味で【客観】の句であっても、其材料の取捨選択の上に必ず作者の【主観】が働いています。」(虚子「俳句所感」大正10年9 月「ホトトギス」)」

「子規の「ある僧の月も待たずに帰りけり」という句と、「瓶にさす藤の花房短かければ畳の上に届かざりけり」という歌をあげて、次のように説明している。ある僧が月も待たずに帰ったという句は、ある観月会の席上の出来事を、作者が何の【主観】も交えずに唯そのまま写生したもののように見えるが、【一見客観的に見える】この句にも作者の【主観】が働いている。というのは、観月会といふ主題には人によっていろいろなとりようがあり、いろいろな側面があるが、子規はそれらのさまざまな事物の中で、ある僧が月の出を見ずに帰ったという【客観】的なことがらに【感興を感じた】のであって、そこに子規の【主観】の働き、選択が見られるとするのである。また「藤の花」の歌にしても、その光景からは、いろんな観点に立った歌ができそうであるが、子規はそれらのさまざまな可能性の中で、畳の上に届かない点に【感興をもった】のであって、そこに子規の【主観】による選択が見られると虚子は説くのである。そして次のように言っている。「斯の如く【客観】句といふと雖も矢張り【主観】の領域のものであり、【客観】歌といふと雖も固より【主観】の領域のものである。前にも言った如く些くとも〈選択〉といふことが行なはるることによって不合理なこととなり、又自然の姿を描写した如き【客観】句も仔細に吟味すれば【主観】の領域のものとなる。斯かれば厳密に之を言って客観写生といふものは曖昧になって来る。客観写生句といふべきものが果して存在してゐるや否やさへ疑問となってくる。」そして「少くとも【取捨選択】が行はれて一即ち【作者の頭が働いて】一十七字に写し得る範囲内で自然の一片を取って之を写すに過ぎぬ。此の場合其の句が何ら【主観詞】を交へずに【客観】の景象を描いてゐるものであれば之を【客観写生】句と称へるのである。裏面に作者の【主観】の働いていることは如何なる場合でも同じ事である。」

※おそらく神野さんはここの「主観詞」を「主観」と読み違えたと思われます。

「物心一如といふ言葉は此場合にも適用することが出来る。即ち作者の【感興】がもとになって【大自然の秘鍵】が握れるのである。」(虚子「写生といふこと]大正14年10 月「ホトトギス」)」

※ここは「俳句道場」の谷村さんの言う、「実感」を手掛かりに「宇宙の真理を掴もうとする」に呼応しています。

「小さい自己を立てようとする努力を一切抛って、大自然の一行を忠実に写生しようと志す所に人間の大きな念願が無ければならぬ。」(虚子「雑詠選集」雑記(三)大正12年3 月「ホトトギス」)

※「自己顕示」が目的であってはならない、もっと「真理探究」という大きな目標を持て、という意味だと私は受け取りました。

※もしかして分派していった人たちの中には、「真理探究」などには興味がなく、ひたすら「自己顕示」に走った人がいたかもしれません。

「写生といふことは技巧といふことを常に伴ふものである。ここに技巧といふのは所謂技巧の為の技巧といふやうな悪い意味ではない。即ち【適当なる表現法】をいふのである。要点をつかむといふことは、つかむだ言午りではいけないので、【巧みに其を表現することを含んでいふ】のである。」(虚子「写生といふこと」大正14年10 月「ホトトギス」)

「俳句らしいものと、俳句らしくないものとを区別する。(略)【措辞】の上からはもっとも厳密に検討する」(『俳句への道』)

※措辞:詩歌や文章などの、【言葉の使い方や辞句の配置のしかた】。

※岸本尚毅さんも「客観写生」には、独りよがりな描き方ではなく、「他者」の脳裏にもちゃんと同じ景が再現され、作者の伝えたいことがちゃんと伝わるように「描写を工夫」する、「客(自分以外)にも同じ景が観え、感動が生き生きと伝わるように描写する」、それが含まれると言っています。

「先づ私は俳句の道は決して一つではない、様々である。各人各様に歩むべき道は異ってゐるといふことを言った。それは今まで挙げ来った人々の句を一々吟味することによって直ちに明瞭になることと思ふ。一人として同じ道を歩いてゐる人はない。又少しでも異った道を歩いてゐることによって始めてそれ等の人の存在は明らかになって来て居る。世上には我儘勝手な論者があって、道は此一筋ほかない、其他の道を歩むものは皆邪道に陥入ったものである、と高唱する。かかる時俳句界の多くの人は、皆絶望の声を放って、それはとても自分の歩むことの出来る道ではない、自分は到底俳句界に立つことは出来ない、といふ。かかる時俳句界は混乱し、衰亡する。」(虚子『俳句の進むべき道』)


※これを読むだけでも、いかに虚子が誤解され、誤り伝えられてきたかが解ります。

※これらを私なりにまとめると、

◆作者の「心が動かない」ものを描いても、それは俳句じゃない、ということ。
 ・ドリアン・助川さんの「積極的感受」とリンクしますね。

◆その「心」の底には、「真理探究」の志がなければならない、ということ。
 ・「俳句道場」の谷村さんの考えともリンクします。

◆「ああ、作者はここに感動したんだな」と、ちゃんと第三者にも伝わる、そしてそのための「描写の工夫が見て取れる」、そういうものだけが「厳密」な意味で「俳句」だということ。
 ・岸本さんの考えとリンクします。

「俳句って何?」を考え続けてきた私には、ようやくバラバラなものが繋がったような、霧が晴れたような、そんな論文でした。

「求め続けなさい。そうすれば与えられます」(聖書)

俳句の神様に感謝、です!



 

Re: 俳句と批評

 投稿者:比良山  投稿日:2019年 2月10日(日)11時59分6秒 sp49-96-17-103.mse.spmode.ne.jp
返信・引用
  > いろいろ調べていたら、こんな記事を見つけました。
>
> 「HAIKU+ 今何が問題か」2018/5/5
> http://chikata.net/?p=2975
>
> この中で「花鳥諷詠の誤算 ふたたび開く他者への視線」と題して、結社「ホトトギス」に七歳から所属する俳人・阪西敦子さんのとても興味深い見解が示されています。
>
> 虚子が「花鳥諷詠」を「春夏秋冬四時の移り変りに依って起る自然界の現象、並にそれに伴ふ人事界の現象を諷詠するの謂であります」ときちんと『俳句読本』の中で説明しているにもかかわらず、《「人間の社会活動を排除している」「古典の世界だけに回帰している」「俳句を縛り現状をとらえてない」といった誤解》が、この当時から既にあったというのです。
>
> 《さらに、阪西さんはこうもいいます。自分の思い込みや感情は排除し、時の移ろいのようにもどらないもの、自分の力ではどうにもならないもの、自分が予測し得ないものをこそ俳句に取り込むこと、つまり「小主観」の外部にある他者の動きに則して詠むこと、それが「花鳥諷詠」なのだと。つまり、「花鳥諷詠」とは俳句を定義づけるものではなく、自由さを得る、もっというと、一回性に触れるための姿勢だというのです。》
>
> 《阪西さんが、虚子の言葉を通して言いたいのは、俳句を縛るものは定義や教義ではなくて、実は詠み手の「小主観」だということ》※「小主観」:こ?くつまらない主観
>
> 《虚子にとって「花鳥」とは「一回性」や「他者性」の象徴であったのかもしれません。しかし、それが失われたとき「花鳥」はたちまち形骸に変わってしまう。鴇田さんが批判されているのは、このように形骸化された花鳥の論理であって、これは虚子の時代から相変わらず議論がすれ違い続けているところではないかと思います。虚子自身がやっていた議論が、未だに続いていることに驚きを感じざるを得ません。》
>
> 《「客観写生」という言葉もあります。阪西さんは、これは「努力目標」だといいます。虚子自身も客観などになりようがないと述べているそうです。》
>
>
> ※きちんと「本」のなかに「書かれている」にも拘らず、なぜワザと誤解し、曲解して虚子を攻撃しようとしたのか?
>
> 彼ら攻撃者の心理の底には、何があったのか?
>
> 批判すべきは、虚子ではなく、攻撃者自身、そのさもしい心の在りようだったのでは?
>
> そんなことを考えさせられる記事でした。
>
> 最後に虚子が「客観写生」を「主客合一」のものとして考えていたという有力な情報を貼っておきます。
>
> 是非読んで、受け売りではなく、ご自身の眼で「誤解」を解いていただければと思います。
>
> 高浜虚子の客観写生 ―大正期の虚子― 徳村佑市
> https://ci.nii.ac.jp/els/contentscinii_20190208194111.pdf?id=ART0007435190
>
>
>
 比々きさん。「高濱虚子の客観写生 ー大正期の虚子ー 得村佑市」の記事ありがとうございました。m(__)m
じっくり詠まさせていただき客観写生は作者の主観の上に包含されて存在するものであり、客観(自然)が比較的表に出てくるものが客観写生であり
一方主観が表にでてくるものが主観写生であるのかなと思いましたが、いずれにしても作者の主観がまったく存在しないというものではないと
自分なりに理解しました。ただ自分の主観をわかってもらうためにも客観(自然)写生が大事なのですよと虚子さんは言っているのかなと思いました。?
 

Re: 広島テレビ「俳句道場」追記です。

 投稿者:比々き  投稿日:2019年 2月 9日(土)13時05分11秒 softbank060148116079.bbtec.net
返信・引用 編集済
    > No.5064[元記事へ]

>  また、谷村先生の「詩なのであるから現実を現実らしく詠むことにとらわれずアタマ(意識・大人らしさ)を空っぽにしてのびのび詠い上げてほしい。」とのコメントに、考え込んでしまいました(苦笑)。このところ、俳句の“リアリディ”ということにこだわっていたのですが、「リアリティのある句=現実を描いた句」と、勘違いしてしまっていたのかなと思いました。
>
>  それにしても、想像「だけ」で詠めばリアリティを欠き、リアリティを求めれば詩情が薄くなってしまう。この辺りのバランスを取るのに、ちょっと苦労しているところです。


「リアリティ」のある句とは「現実を描いた句」というより、「本当らしさ」「真実らしさ」「なるほど、そうかも!」を描いた句、という風に私は理解しています。

先の記事にも書きましたが、谷村さんの選評にも

・「モノからの【実感】(モノの見えたる光・そんな気がする)で【宇宙の真理を掴もうとする】のが俳人」

、とあります。

自分の「実感」を手掛かりに 【「真理を掴もうとする」のが俳人】なんですね。

大賞句「紙風船突かれて空を吸い直す」の選評に谷村さんはこう書いています。

《子供の頃、口を開けた紙風船を叩いてもなかなかしぼまないので大変不思議に思ったことがあるが、同じように感じていた方も多いであろう。
その理由を調べるでもなく今日に至っているわけであるが、この句を詠んで【見事に合点がいった】。
その理由の一つは、「紙風船」は物ではなく呼吸している生き物であるということ。
もう一つは、その紙風船なる生き物は、叩かれるたびに空気ではなく大きな「空」を吸っているということである。
ベルヌーイの定理だとか、圧力の関係で、、、といわれてもなかなか専門家でないと理解しにくいが、【このようにいわれるとストンと納得できる】のが【詩の力】というものであり、【これはこれで一つの真実】であろう。》


この「空を吸い直す」という「詩的フレーズ」が、作者の「実感」=「もしかしたら、穴が開いてる紙風船が萎まないのはこのせい?」という「発見」「気づき」になっているんですね。

これを南風の記憶さんの句「風船を配るピエロの薄笑い」と比べてみてください。

この句の中に「詩的フレーズ」、「実感」、「真理」につながるような「発見」「気づき」はあるでしょうか?

また「作句の動機」として、この句で南風の記憶さんは「ピエロの内心の孤独、腹に一物抱えた様子を表現したかった」と書いておられます。

「孤独で、腹に一物を抱えている」、このピエロの「内心」は、本人から聞いたものというより、「薄笑い」を「いろいろな意味に読める可能性」がある中で、南風の記憶さんには「こんな風に見えた」という、「実感」でも「発見」でもない、どちらかというと「解釈」ですよね?

ピエロも人間ですから、そういう心境の時もあるとは思いますが、以前私がテレビで見た人は、「人を笑顔にできる仕事がしたくて、脱サラしてピエロになった」と仰っていました。
イヤイヤやっているというより、誇りを持ってやっている。

これが「ピエロ」になっていらっしゃる方の9割方の「真実」であれば、南風の記憶さんのピエロの「薄笑い」に対する「解釈」は、「的外れ」「勝手な思い込み」ということになってしまいます。

もしピエロをどうしても描きたかったら、ピエロを職業としている人のブログやインタビュー記事なりを読んで、彼らに関する情報をリサーチして、その【実感】から書く、少なくとも勝手な思い込みでは書かない、それが【宇宙の真理を掴もうとする】俳人の在りようだと、私は思うのですが、どうでしょうか。

花など自然物を詠むとき、「本質が見えるまで、よく見、観察しなさい」と言われますよね。
人を詠むときもそれと同じです。

「ピエロを仕事にしてる人って、どんなことを考え、何がキッカケでこの道に入ったんだろう?」「どんな喜怒哀楽があるんだろう?」「彼らの生き甲斐って何?」「気持ちが乗らない時って、どうしてるのかな?」などなど、ピエロに関する情報をできるだけ集める、そうやって「知らなかったことを知っていく」、自分の世界を広げていく、このような水面下での地道な努力あってこそ、句に「リアリティ」も出てくる、そう私は思うのですが、どうでしょうか。

【俳句は作るもの(意識)ではなく、湧き上がるもの(無意識)】、と谷村さんは言います。

もしかしたら南風の記憶さんも、俳句を「作ろう、創ろう」と、「アタマ」の中でアレコレ景を「考えて」、こねくりまわしていませんか?

私の経験だと、そういう作り方だとものすごく疲れますし、時間をかけた割には数もできないし、質的にもイマイチな句が多いような気がします。

色々な情報を集めている途中で、「ふっ」と自分の中から湧き上がってくる内なる声のようなもの、それをすかさず掬い上げて言葉にする、こういう作り方だと殆ど疲れ知らずで一瞬で1句できますし、短時間でたくさんでき、内容的にも悪くない句ができる、経験上そんな気がしています。

広い意味での「観察」の果てに出てくる【実感】や「もしかしてアレってこうなのでは?」という「発見」、その「気づき」に促されて詠んだ句であれば、「風船」の大賞句のように、それが「事実」かどうかを超えて、「いわれてみればそうかも」という「リアリティ」を読者も感じ、共有できる、そんな気がします。




 

広島テレビ「俳句道場」追記です。

 投稿者:南風の記憶  投稿日:2019年 2月 8日(金)21時12分33秒 ai126149002033.54.access-internet.ne.jp
返信・引用
   比々きさん、皆様こんばんは。

 先日報告させていただきました、私の広島テレビ「俳句道場」の<入選A>の句に関して、谷村秀格先生の寸評が本日サイトに掲載されました。

―― → 一応定型におさまり俳句らしいのでAにとった。しかしながら作者もお気づきだろうが「風船=ピエロ=笑い」では宇宙は広いのにピエロのイメージばかりに執着していてココロの凝り形である。詩なのであるから現実を現実らしく詠むことにとらわれずアタマ(意識・大人らしさ)を空っぽにしてのびのび詠い上げてほしい。

 風船よりもピエロが主役となってしまっているという点は、先日の比々きさんのご指摘と一緒でした。私としては、風船にピエロの心情を託す意図はあったのですが、やはり「薄笑い」と書いたことで、ピエロの方が目立ってしまっていますね(汗)。

 また、谷村先生の「詩なのであるから現実を現実らしく詠むことにとらわれずアタマ(意識・大人らしさ)を空っぽにしてのびのび詠い上げてほしい。」とのコメントに、考え込んでしまいました(苦笑)。このところ、俳句の“リアリディ”ということにこだわっていたのですが、「リアリティのある句=現実を描いた句」と、勘違いしてしまっていたのかなと思いました。

 それにしても、想像「だけ」で詠めばリアリティを欠き、リアリティを求めれば詩情が薄くなってしまう。この辺りのバランスを取るのに、ちょっと苦労しているところです。

https://stand16.hatenablog.com/

 

俳句と批評

 投稿者:比々き  投稿日:2019年 2月 8日(金)19時27分23秒 softbank060148116079.bbtec.net
返信・引用 編集済
  いろいろ調べていたら、こんな記事を見つけました。

「HAIKU+ 今何が問題か」2018/5/5
http://chikata.net/?p=2975

この中で「花鳥諷詠の誤算 ふたたび開く他者への視線」と題して、結社「ホトトギス」に七歳から所属する俳人・阪西敦子さんのとても興味深い見解が示されています。

虚子が「花鳥諷詠」を「春夏秋冬四時の移り変りに依って起る自然界の現象、並にそれに伴ふ人事界の現象を諷詠するの謂であります」ときちんと『俳句読本』の中で説明しているにもかかわらず、《「人間の社会活動を排除している」「古典の世界だけに回帰している」「俳句を縛り現状をとらえてない」といった誤解》が、この当時から既にあったというのです。

《さらに、阪西さんはこうもいいます。自分の思い込みや感情は排除し、時の移ろいのようにもどらないもの、自分の力ではどうにもならないもの、自分が予測し得ないものをこそ俳句に取り込むこと、つまり「小主観」の外部にある他者の動きに則して詠むこと、それが「花鳥諷詠」なのだと。つまり、「花鳥諷詠」とは俳句を定義づけるものではなく、自由さを得る、もっというと、一回性に触れるための姿勢だというのです。》

《阪西さんが、虚子の言葉を通して言いたいのは、俳句を縛るものは定義や教義ではなくて、実は詠み手の「小主観」だということ》※「小主観」:こ?くつまらない主観

《虚子にとって「花鳥」とは「一回性」や「他者性」の象徴であったのかもしれません。しかし、それが失われたとき「花鳥」はたちまち形骸に変わってしまう。鴇田さんが批判されているのは、このように形骸化された花鳥の論理であって、これは虚子の時代から相変わらず議論がすれ違い続けているところではないかと思います。虚子自身がやっていた議論が、未だに続いていることに驚きを感じざるを得ません。》

《「客観写生」という言葉もあります。阪西さんは、これは「努力目標」だといいます。虚子自身も客観などになりようがないと述べているそうです。》


※きちんと「本」のなかに「書かれている」にも拘らず、なぜワザと誤解し、曲解して虚子を攻撃しようとしたのか?

彼ら攻撃者の心理の底には、何があったのか?

批判すべきは、虚子ではなく、攻撃者自身、そのさもしい心の在りようだったのでは?

そんなことを考えさせられる記事でした。

最後に虚子が「客観写生」を「主客合一」のものとして考えていたという有力な情報を貼っておきます。

是非読んで、受け売りではなく、ご自身の眼で「誤解」を解いていただければと思います。

高浜虚子の客観写生 ―大正期の虚子― 徳村佑市
https://ci.nii.ac.jp/els/contentscinii_20190208194111.pdf?id=ART0007435190





 

Re: 「写神」について

 投稿者:比々き  投稿日:2019年 2月 8日(金)14時24分31秒 softbank060148116079.bbtec.net
返信・引用 編集済
  > No.5060[元記事へ]

> 作者の心を無くして自然そのものを俳句に描写する立場と、作者の心・感情を
> 俳句に反映しようとする立場は、相補的であり、どちらが正しいという問題では
> ない。まさに立場のちがいであった、俳人の俳句観の違いである。
> 俳人の一生を通じての句を見れば、どちらか一方の考えで俳句が作られているわけ
> ではない。同じ俳人でも物の写生と心の写生の二つの句風が混在している。
> 虚子の句に主観的写生の句と客観的写生の句が混在しているように、
> 秋櫻子の句にも、「自然の真」と「文芸上の真」の句が混在している。


比良山さん、阪口さんのこの指摘、納得です。

Wikiの「花鳥諷詠」にも次のように書かれています。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E9%B3%A5%E8%AB%B7%E8%A9%A0

《花鳥風月といえば、通常は自然諷詠の意味になるが、虚子によれば「春夏秋冬四時の移り変りに依って起る自然界の現象、並にそれに伴ふ人事界の現象を諷詠するの謂(いい)であります」(『虚子句集』)と人事も含めている。》

《虚子の後継者である稲畑汀子は「虚子が人事界の現象をも花鳥(自然)に含めたことは重要であるが、その事は案外知られていない。それは人間もまた造化の一つであるという日本の伝統的な思想、詩歌の伝統に基づくものであった。アンチ花鳥諷詠論の多くは、この点を理解せず、自然と人間、主観と客観などの二項対立的な西洋形而上学に基づいているため、主張が噛み合っていないように思われる」(「俳文学大辞典」)》

《花鳥諷詠が花鳥風月に留まらず人事を含める、人事は自然に含まれる、という概念は誤解され、花鳥に人間が含まれていないから花鳥諷詠は人間境涯や社会的な句と相いれない、ないし花鳥諷詠は自然を愛でるだけの概念、という主張が俳壇で散見される。》

『新興俳句アンソロジー』の神野さんの「見たままを主観を交えずに記述する客観写生」という理解(誤解)も、この延長上にあるものと思われます。


>日本にまだ文字も文学もなかった頃、古代中国では山・川・海・水
>を神とする神仙郷の詩が詠まれていた。自然を神と思うことは日本の固有ではない
>信仰である。(略)


自然に対する「畏敬」の念は、それを「神」と呼ぶかどうかは別として、世界中に普遍的にある感情のような気がします。

人間を含めた万物を「神」として敬い尊重する心があれば、むやみやたらと他者に危害を加えたり、川や海を汚したり、自然を破壊したり、乱獲によって動植物を絶滅に追いやったりという行為には、自ずからブレーキがかかります。

しかし今はどうでしょう!
マイクロプラスチックやポイ捨てのゴミによる海洋汚染や、些細なことで人を殺したり、毎年1万7000~5万種が絶滅(=毎日47~137種)する、そんな世の中になってしまいました。

人間の心から自然に対する「畏敬」の念、「草木国土悉皆成仏」の理念が失われつつあるのは明白です。

鷹羽狩行さんが、俳人は「自然保護」に無関心であってはいけない、という理由もそこにあります。

《日本には八百万の神というものがあるけれども、外国のように決定的な宗教がない。(略)そこで宗教に代わるものが、神のように恵みを与え、畏敬の念を起こさせる自然である。山や滝などを御神体として崇めることもその現れです。》

《自然を対象として詠むのが俳句。そのとき作者は、自然と一体化し、同化して、人間は万物の霊長などという驕りを捨てている。人間は自然の一部であるという謙虚な態度に立って俳句を作っているのです。》

《ですから、対象としている大自然を、私たちはただ詠うだけでなく、もう少し大事にしなくてはいけない。先に述べた『映像俳句歳時記』を監修しているときでしたが、季語の中には滅びたり、廃れたりして撮影できないものがありました。(略)そのとき、俳人はこれでいいのか、滅びゆく自然を積極的に守る手だてはないものかと強く思いました。》(鷹羽狩行著『俳句の秘法』102、3p)

明治以降、「欧化」の流行にいち早く乗ったモボ・モガこそ「進歩的」で「イケてる」、と当時の日本人の多くは思ったに違いありません。

それに乗り遅れることは、文字通り「オクレテル」「イケてない」人と見做されたでしょう。

虚子と秋櫻子の軋轢の中にも、もしかしたらそんな時流の影がちらついていたのかもしれません。

「欧化」は多くの恩恵ももたらしましたが、「人工」(=自然を人間の都合のいいように改変する思想)は、多くの弊害も生みました。

当初見えなかった「欧化」の功罪が、150年経った今、ようやく見えてきたんですね。

「自然に帰れ」とはルソーの言葉ですが、虚子と秋櫻子がもし今の世界に生きていたら、多分当時とは違う関係になっていたのではないでしょうか。


>  さらにいえば秋櫻子にも客観写生の句が多く見られる。秋櫻子はいつも「文芸上の真」の
> 句を詠んでいたわけではない。「自然の真」と「文芸上の真」は、どちらかが正しいと
> いうことではなく、俳句全体においても、一人の俳人のなかでも同時に存在しえるのであり、
> 相補的であることに注目しておきたい。
>  (以上出典;俳句総合雑誌 「俳壇」2017年3月号 p114~119)


これも、全くその通りだと、私も思います。


> ここでの「神」と「写神」の神が同じかどうかはわかりませんが自然を神と思うことは
> 日本に固有ではない信仰であり、「虚子と秋櫻子の滝の句は那智の滝を『神』と思っている点で
> 主観の句であり、心の写生である。」という点では同じように思いますがいかがでしょうか?


むしろ「主観」「客観」は、西田幾多郎の言う主客「未分」=「截然と分けられるものではない」、ということだと思います。

以前にも「量子力学的自然観」として書きましたが、「観察する者」と「観察されるもの」は互いに干渉、影響し合うので、「主観」「客観」の二元論では語れないということ。

純粋主観も純粋客観もあり得ないので、要は、主観だ客観だという論議それ自体が成り立たない、不毛であるということではないでしょうか。

自然の景色を詠むときにも、「何を」詠み「何を」詠まないか、「どのように」詠むか、必ずそこに「詠者」の取捨「選択」というプロセスが関わっています。

なので何を詠んでも、たとえ「人間以外」を詠んでも、「主観を交えないで」詠むことは、不可能。

神野紗希さんのいう「見たままを主観を交えずに記述する客観写生」など、不可能だということです。

 

Re: 「写神」について(冒頭部分の一部修正)m(__)m

 投稿者:比良山  投稿日:2019年 2月 8日(金)13時54分51秒 sp49-104-5-249.msf.spmode.ne.jp
返信・引用
  > > 比良山さんがひっかっかている「写神」、ネットで調べてみたのですが、詳しい説明が見つかりませんでした。
> >
> > この言葉は、中国・東晋時代に活躍した画家、顧愷之(こがいし:346~407年)の画論(絵画に関する論評や理論)の中に出てくる言葉のようです。
> >
>  比々きさん。「写神」について懇切丁寧に調べていただきありがとうございます。
> 私も俳壇 2017年3月号の「俳句論のゆくえ ③『自然の真』と『文芸上の真』論争」阪口昌弘著
> を読んでいますと「写神」の神のことかどうかわかりませんが「神」についての記載がありました
> ので引用致します。
> 【冒頭】p114
> 「ホトトギス」の主宰、高濱虚子の俳句観の初期は「主観写生」であったが、その後「客観写生」を
> 説くようになった。「ホトトギス」に所属していた水原秋櫻子は虚子の客観写生の俳句観に納得出来ず、(以下2文修正)
 昭和六年、三十九歳の頃に「馬酔木」に「『自然の真』と『文芸上の真』」を発表し、
 「ホトトギス」から独立した。秋櫻子が三十九歳、虚子が五十七歳の頃の事件であった。(略)
> 【俳句論史について】p118-119
> 俳句論史において、虚子?素十の主張した客観写生の道に秋櫻子は反旗を翻し、
> 「文芸上の真」の俳句観を主張することによって新しい道を切り開いたことは
> 事実である。
>  作者の心を無くして自然そのものを俳句に描写する立場と、作者の心?感情を
> 俳句に反映しようとする立場は、相補的であり、どちらが正しいという問題では
> ない。まさに立場のちがいであった、俳人の俳句観の違いである。
> 俳人の一生を通じての句を見れば、どちらか一方の考えで俳句が作られているわけ
> ではない。同じ俳人でも物の写生と心の写生の二つの句風が混在している。
>  虚子の句に主観的写生の句と客観的写生の句が混在しているように、
> 秋櫻子の句にも、「自然の真」と「文芸上の真」の句が混在している。
> 論より証拠の例をあげたい。
>
>  神にませばまこと美はし那智の滝 虚子
>  咲き満ちて桜撓めり那智の滝   秋櫻子
>  滝落ちて群青世界とどろけり   同
>  泉ありこの神のあり古事記あり  素十
>
>  虚子と秋櫻子の滝の句は那智の滝を「神」と思っている点で主観の句であり、
> 心の写生である。滝や川や海の水を神と思うことは紀元前の古代中国の信仰に
> 遡ることが出来る。日本にまだ文字も文学もなかった頃、古代中国では山・川・海・水
> を神とする神仙郷の詩が詠まれていた。自然を神と思うことは日本の固有ではない
> 信仰である。(略)
>
>  【岸本尚毅氏の「俳句の力学」】p119
>  岸本尚毅は『俳句の力学』で、虚子の句は神の滝への挨拶が優先され、滝そのものが
> みえず、秋櫻子の句は、模写の印象で、言葉の美しさが滝を隠蔽していると批判的である。
> 隠蔽ということではなく、虚子も秋櫻子も心の真実として滝を神様と思ったのである。
>
> 【結び】p119
>  虚子の優れた句には主観の句が多い。虚子は「ホトトギス」の多くの俳人を長くリードしていく
> ために、詠みやすい客観写生を説いたが、自らの秀句は主観写生であった。
>  素十にも鹿島神宮で古事記の神を思う句があり、客観写生ではない。素十は人生を通じていつも
> 「自然の真」の句を詠んだわけではない。
>
>  咲くよりも落つる椿となりにけり   秋櫻子
>  月ひかり垣の朝顔いまひらく     同
>
>  さらにいえば秋櫻子にも客観写生の句が多く見られる。秋櫻子はいつも「文芸上の真」の
> 句を詠んでいたわけではない。「自然の真」と「文芸上の真」は、どちらかが正しいと
> いうことではなく、俳句全体においても、一人の俳人のなかでも同時に存在しえるのであり、
> 相補的であることに注目しておきたい。
>  (以上出典;俳句総合雑誌 「俳壇」2017年3月号 p114~119)
>
> ここでの「神」と「写神」の神が同じかどうかはわかりませんが自然を神と思うことは
> 日本に固有ではない信仰であり、「虚子と秋櫻子の滝の句は那智の滝を『神』と思っている点で
> 主観の句であり、心の写生である。」という点では同じように思いますがいかがでしょうか?
>
>
 

「写神」について

 投稿者:比良山  投稿日:2019年 2月 8日(金)08時38分2秒 sp49-104-5-249.msf.spmode.ne.jp
返信・引用
  > 比良山さんがひっかっかている「写神」、ネットで調べてみたのですが、詳しい説明が見つかりませんでした。
>
> この言葉は、中国・東晋時代に活躍した画家、顧愷之(こがいし:346~407年)の画論(絵画に関する論評や理論)の中に出てくる言葉のようです。
>
 比々きさん。「写神」について懇切丁寧に調べていただきありがとうございます。
私も俳壇 2017年3月号の「俳句論のゆくえ ③『自然の真』と『文芸上の真』論争」阪口昌弘著
を読んでいますと「写神」の神のことかどうかわかりませんが「神」についての記載がありました
ので引用致します。
【冒頭】p114
「ホトトギス」の主宰、高濱虚子の俳句観の初期は「主観写生」であったが、その後「客観写生」を
説くようになった。「ホトトギス」に所属していた水原秋櫻子は虚子の客観写生の俳句観に納得出来ず
、昭和六年、三十九歳、虚子が五十七歳の頃の事件であった。(略)
【俳句論史について】p118-119
俳句論史において、虚子?素十の主張した客観写生の道に秋櫻子は反旗を翻し、
「文芸上の真」の俳句観を主張することによって新しい道を切り開いたことは
事実である。
 作者の心を無くして自然そのものを俳句に描写する立場と、作者の心?感情を
俳句に反映しようとする立場は、相補的であり、どちらが正しいという問題では
ない。まさに立場のちがいであった、俳人の俳句観の違いである。
俳人の一生を通じての句を見れば、どちらか一方の考えで俳句が作られているわけ
ではない。同じ俳人でも物の写生と心の写生の二つの句風が混在している。
 虚子の句に主観的写生の句と客観的写生の句が混在しているように、
秋櫻子の句にも、「自然の真」と「文芸上の真」の句が混在している。
論より証拠の例をあげたい。

 神にませばまこと美はし那智の滝 虚子
 咲き満ちて桜撓めり那智の滝   秋櫻子
 滝落ちて群青世界とどろけり   同
 泉ありこの神のあり古事記あり  素十

 虚子と秋櫻子の滝の句は那智の滝を「神」と思っている点で主観の句であり、
心の写生である。滝や川や海の水を神と思うことは紀元前の古代中国の信仰に
遡ることが出来る。日本にまだ文字も文学もなかった頃、古代中国では山・川・海・水
を神とする神仙郷の詩が詠まれていた。自然を神と思うことは日本の固有ではない
信仰である。(略)

 【岸本尚毅氏の「俳句の力学」】p119
 岸本尚毅は『俳句の力学』で、虚子の句は神の滝への挨拶が優先され、滝そのものが
みえず、秋櫻子の句は、模写の印象で、言葉の美しさが滝を隠蔽していると批判的である。
隠蔽ということではなく、虚子も秋櫻子も心の真実として滝を神様と思ったのである。

【結び】p119
 虚子の優れた句には主観の句が多い。虚子は「ホトトギス」の多くの俳人を長くリードしていく
ために、詠みやすい客観写生を説いたが、自らの秀句は主観写生であった。
 素十にも鹿島神宮で古事記の神を思う句があり、客観写生ではない。素十は人生を通じていつも
「自然の真」の句を詠んだわけではない。

 咲くよりも落つる椿となりにけり   秋櫻子
 月ひかり垣の朝顔いまひらく     同

 さらにいえば秋櫻子にも客観写生の句が多く見られる。秋櫻子はいつも「文芸上の真」の
句を詠んでいたわけではない。「自然の真」と「文芸上の真」は、どちらかが正しいと
いうことではなく、俳句全体においても、一人の俳人のなかでも同時に存在しえるのであり、
相補的であることに注目しておきたい。
 (以上出典;俳句総合雑誌 「俳壇」2017年3月号 p114~119)

ここでの「神」と「写神」の神が同じかどうかはわかりませんが自然を神と思うことは
日本に固有ではない信仰であり、「虚子と秋櫻子の滝の句は那智の滝を『神』と思っている点で
主観の句であり、心の写生である。」という点では同じように思いますがいかがでしょうか?

 

Re: やっと少し前進しました……

 投稿者:比々き  投稿日:2019年 2月 8日(金)00時01分31秒 softbank060148116079.bbtec.net
返信・引用 編集済
  > No.5057[元記事へ]

>  さて、今回の谷村秀格先生の論評で、個人的に印象的な部分がありました。
>
> ―― そもそも俳句というものは、この句のようにモノの力(ものの見えたる光・真実)をしっかり引き出して詠んでおれば、小手先の技法をすべて無力化してしまうほどの強さを放つものであり、最初から比喩や破調や○○法の類、季語の本意に依らなければ鑑賞に耐えられないような句は、それ故弱いのである。
>
>  この頃、むやみに描写の工夫ということばかり考えていた私にとって、頭をガンと殴られたような言葉でした(汗)。モノの力を、もっと信じて句を詠んでみようと思います!


南風の記憶さん、こんばんは!

谷村さんは、俳句が詩であることを何より大事にされていて、その観点から、上位の句だけでなく、下位の句にまで選評をマメに書いて下さるので、私もすごく勉強になっています。

今回の選評のタイトルが「何でもありの俳句から、俳句の【深み】へ」。

http://www.htv.jp/tv-ha/haiku/index.html

谷村さんが毎回強調される3つの事があります。


①「託し詠み」:言いたいコト・ココロ・気持ちを言葉で直接表現せず、モノ(情景)に「託して」詠むこと。

②モノからの気配「そんな気がする(実感・感動)」を大切に。

③気分(ムード)が出ておれば、文法・季重なり・教条など、細かいことを言わない。


つまり自分の一番言いたい「ココロ」「気持ち」「実感」「感動」「気分(ムード)」=「目に見えないもの」を「情景」=「目に見えるもの」に「託して」詠みなさい、というわけです。


大賞、入賞句の選評も、

・「心で捕らえた実感を上手く掬った句」
・「前向きな気分を感じさせる句」
・「モノからの実感(モノの見えたる光・そんな気がする)で宇宙の真理を掴もうとするのが俳人」
・「モノ(情景)からの実感をただ無意識的に詠んだところ、結果として対比が効いていたというような詠み方(あり方)が実に冴えている。」


なので、私はある時から、出来た句の後ろに「そんな気がする」が付くかどうか、それを指標に作るようになりました。

先回はそれでうまくいきましたが、今回の私の句は「肺って風船みたいだな」という「実感」を詠んだものの、ストレート過ぎた上に、風船が肺の喩えになってしまっていて大失敗(笑)

「恥をかくのが文芸。それが嫌ならおやめなさい!」(川柳作家・時実新子)

大賞や入賞、特選句は、「ふうせん」がしっかり「主役」を張っています。
南風の記憶さんの「風船を配るピエロの薄笑い」だと、「風船」が主役ではなく、どちらかというと「ピエロ」が主役になっている気がするのですが、どうでしょうか。

次回は13日〆切「受験(入学試験・受験生など)」、翌週20日放送。
「俳句道場」は結果がすぐ出るんですよね。

気持ちを新たに、またリベンジできるよう、私も頑張ります!



 

やっと少し前進しました……

 投稿者:南風の記憶  投稿日:2019年 2月 7日(木)19時56分42秒 p2044-ipbfpfx02yosemiya.okinawa.ocn.ne.jp
返信・引用
   比々きさん、皆様こんばんは。ご無沙汰しております。取り急ぎ、近況報告を……

 昨年末より、「広島テレビ・俳句道場」への投稿を始めていました。過去二回は、いずれも「入選B」に終わっていたのですが、今回の兼題「風船」にて、初めて「入選A」をいただき、少しですが前進することができました。

http://www.htv.jp/tv-ha/haiku/index.html

 審査基準の項目によると、入選Aは「詩情が感じられるものの、直接表現などが気になる」とのこと。私の句は、一人で風船を配り続けるピエロと、鮮やかな風船、風船を手渡される人々との対比から、ピエロの内心の孤独、腹に一物抱えた様子を表現したかったのですが、下五の「薄笑い」がちょっと直接的過ぎたかもしれません。

 例によって、自分なりに推敲してみました。

<推敲句>風船を配るピエロの目は漆黒

 さて、今回の谷村秀格先生の論評で、個人的に印象的な部分がありました。

―― そもそも俳句というものは、この句のようにモノの力(ものの見えたる光・真実)をしっかり引き出して詠んでおれば、小手先の技法をすべて無力化してしまうほどの強さを放つものであり、最初から比喩や破調や○○法の類、季語の本意に依らなければ鑑賞に耐えられないような句は、それ故弱いのである。

 この頃、むやみに描写の工夫ということばかり考えていた私にとって、頭をガンと殴られたような言葉でした(汗)。モノの力を、もっと信じて句を詠んでみようと思います!

https://stand16.hatenablog.com/

 

「写神」とは

 投稿者:比々き  投稿日:2019年 2月 7日(木)18時33分5秒 softbank060148116079.bbtec.net
返信・引用 編集済
  比良山さんがひっかっかている「写神」、ネットで調べてみたのですが、詳しい説明が見つかりませんでした。

この言葉は、中国・東晋時代に活躍した画家、顧愷之(こがいし:346~407年)の画論(絵画に関する論評や理論)の中に出てくる言葉のようです。

https://munekuni-siankeow.jimdo.com/sumi-e-workshop/chinese-brush-painting/

上記ウエブサイトの説明によると、

《「以形写神」:「形を描くという手段を通して、精神や感情を表現する」

人物画を魂のこもったものとするためには、対象となる人物の外観だけをとらえるのではなく、その人が持つ心理状態なども表現しなければならない。》

という意味らしいです。

ということは『リアル(写実)のゆくえ』の「写生」「写実」とほぼ同じ意味なのかな。

またWikiは「写生」を次のように説明しています。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%99%E7%94%9F

《東洋絵画における写生は描写対象に直接対することによって、「写意」(注・参照)と密接に関係しつつ、形式にとらわれずに対象の本質に迫ろうとする性格を持つものであり、西洋の写実的絵画とは共通する点を持ちながらも相異なるものである。》

《「写生」の語は中国・唐代の末期において、先人の画を写しとる方法を指す伝統的な「臨画」に対し、現実の事物を観察しつつ描写する写実的傾向を表すために用いられていた言葉であった。この「写生」は、宋代には動植物など生き物を直接描写する言葉として使われ、以後中国ではもっぱら花鳥画の分野で用いられていた。》

ここからは、絵の「模写」ではなく、動植物の「実物」を見、観察して描くことに「写生」という言葉が用いられていたことが分ります。

子規も「写生」を「実物」を見、観察することと結びつけています。

http://bungeikan.jp/domestic/detail/408/

《『俳諧大要』の「修学第二期」には、俳句創作の方法には「イマジネーション」(空想)と「写生」(写実)の二種類があるとして、初心者の人はふつう前者に頼ることが多いけれど、それが尽きた際は、後者に依拠する必要がある、といっている。そして子規は、「写実」の目的で、「天然の風光」を探るために、数十日間の「旅行」(行脚)をすすめ(中略)「写生吟行」のことを書いている》

注:「写意」とは
https://kotobank.jp/word/%E5%86%99%E6%84%8F-75460

《事物を描写するだけでなく,対象から誘発されたものや,絵に託そうとする画家の心意を描写すること。》(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)

《外形を写すことを主とせず、画家の精神または対象の本質を表現すること。》(デジタル大辞泉)

《写生は画家の主観表現を意味する〈写意〉に対する言葉ではあるが、対象の〈生命〉を写すことは、画家自身の生気と無関係ではなく、単なる客観的な写実主義とは一線を画し、作品そのものも西欧の静物画とはかなり異質な性格をもつ。》(世界大百科事典)

またWikiでは「客観写生」をこう説明しています。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%A2%E8%A6%B3%E5%86%99%E7%94%9F

《「私は客覿の景色でも主観の感情でも、単純なる叙写の内部に広ごつてゐるものでなければならぬと思ふのである。即ち句の表面は簡単な叙景叙事であるが、味へば味ふ程内部に複雑な光景なり感情なりが寓されてゐるといふやうな句がいゝと思ふのである。」》(高浜虚子「ホトトギス」大正13年3月号)

《つまり、俳句は短いため直接主観を述べる余地がなく、事物を客観的に描写することによって、そのうしろに主観を滲ませるほうがいいという考え方である。 虚子のいう客観写生は花鳥諷詠とあいまって自然を詠うものと考えられがちであるが、その自然(対象)には「人間界」も含まれており、人間も自然の一部と見るのである。》

《作中主体を含めた人間を詠んでも良いという虚子の説は俳壇でしばしば曲解されており、虚子の俳句観は人間を軽視していると批判されている。》

《虚子が俳誌等を通じて弟子たちに客観写生を進め、極めるように奨励し、安易な主観写生を戒めたことにより、客観写生絶対至上主義との誤解を生んでしまった。》

《客観写生の問題点は、詠む対象及び表現方法を決める行為そのものに作者の入る以上、100%客観的な句は存在しえないということである。芸術である以上、写真と同じく、結局何かに焦点を当てる必要があり、焦点の選択過程で主観が入る。つまり、客観写生と主観写生は主観の濃度のちがいであり、客観写生は主観を抑制して事物の根源に迫ろうとする表現方法である。 》


このような説明から見えてきたことは、『新興俳句のアンソロジー』の神野紗希さんの「見たままを主観を交えずに記述する客観写生」(229p)、の「主観を交えずに」も、多分に我田引水的な「誤解」が混じっている、そんな気がします。

虚子が意図していなかったことを、あたかも虚子が意図していたかのように誤り伝えて、虚子を悪者にする、「それってどうなんだろう?」、というのが今の私の率直な思いです。



 

Re: 小林秀雄の「写生」の考え方

 投稿者:比々き  投稿日:2019年 2月 6日(水)16時27分51秒 softbank060148116079.bbtec.net
返信・引用
  > No.5054[元記事へ]

>  写生とはsketchという意味ではない、生を写す、神を伝えるという意味だ」「斉藤氏は写生を
>   説いて実相観入という様な言葉を使っている」
>  茂吉が実相観入といった写生の定義として、生命を写し神的なものを写す「写神」という意見に
>  同意する。小林は自然の中に造化の神があることや神々を信じることの大切さを死ぬまで論じ続
    けた。
>  写生を論じても自然の奥にある造化の働きを見つめていた。自然を大切に思い造化随順において、
>   芭蕉や荘子の精神に通っていた。科学は自然にさからえないように文学もまた自然・造化にさか
>   らえない。
>  【出典;総合俳句雑誌「俳壇」2019年2月号 P130-131 抜粋】

>  ますます写生の奥深さを感じましたが「写神」という言葉が出てきたところは私には難しすぎ
>  ました。


比良山さん、タイムリーな記事をありがとうございます!

「草花の一枝を枕元に置いて、それを正直に写生して居ると、造花の秘密が段々分って来るような気がする。」(病牀六尺 明治三十五年八月七日)

、と子規も言っています。

「明治初期の洋画は、フォンタネージによって「写生」を重視したが、なお「生命を写す」意で用いられた。」(精選版 日本国語大辞典)

、ともあります。

宇宙旅行も夢でなくなり、科学、医学などかつてなく進歩発達した今、人間は未だ蟻一匹さえ創れない!

それだけ「生命」はいつの時代でも、私たちにとって不可知、永遠の「謎」、「神秘」そのものなんですよね!

この「造花の秘密」に対する「センス・オブ・ワンダー」が一番活発に動き出すのは、やはり自然と対峙した時。

俳句は、もしかしたらその「センス・オブ・ワンダー」の感覚を維持するよう助ける、一つの有効な器なのかもしれませんね。

失ってはいけないこの大事な感覚を維持するためには、目先の人工的なものに目を奪われ、自然との接触の機会を減らしてはいけない、そう虚子は感じて、敢て「花鳥諷詠」と言ったのかもしれない、そんなことを思ったりしています。



 

小林秀雄の「写生」の考え方

 投稿者:比良山  投稿日:2019年 2月 6日(水)14時03分5秒 sp49-96-5-143.mse.spmode.ne.jp
返信・引用
   俳壇2月号の「俳句論のゆくえ?批評の神様・小林秀雄の俳句観」阪口昌弘著のp130-131に

(小林秀雄の)四十七歳の「私の人生観」には、写生についての文章がある。
「正岡子規の万葉復興運動以来、西行より実朝の方が、余程評判がよろしい歌人となった
 様ですが、貫道するところは一つなのだ。子規の感動したのは、万葉歌人の現実尊重であり
 、子規は写生と言う言葉を好んで使った。斉藤茂吉氏の『短歌写生の説』によると、子規は
 写生の真意は直覚していたが、写生という言葉は、ごく無造作に使っていた。写生とは
 sketchという意味ではない、生を写す、神を伝えるという意味だ」「斉藤氏は写生を説いて
 実相観入という様な言葉を使っている」
 「西行」論を書いた小林は、子規には必ずしも同意できず、西行と実朝に「貫道」するものは
 同じだと考えた。また子規は自ら主張した写生という言葉を無造作に使っていたと批判した
 茂吉に小林は同意する。茂吉が実相観入といった写生の定義として、生命を写し神的なものを
 写す「写神」という意見に同意する。小林は自然の中に造化の神があることや神々を信じる
 ことの大切さを死ぬまで論じ続けた。
 【出典;総合俳句雑誌「俳壇」2019年2月号 P130 抜粋】

 またこのあと、小林秀雄は物理学者の湯川秀樹や数学者の岡潔と対等に対談できた唯一の文芸
 評論家であり、最先端の科学をいつも学び、文芸評論に応用していた。写生を論じても自然の
 奥にある造化の働きを見つめていた。自然を大切に思い造化随順において、芭蕉や荘子の精神
 に通っていた。科学は自然にさからえないように文学もまた自然・造化にさからえない。
 【出典;総合俳句雑誌「俳壇」2019年2月号 P130-131 抜粋】

 ますます写生の奥深さを感じましたが「写神」という言葉が出てきたところは私には難しすぎ
ました。?
 

Re: 子規や虚子の時代の「写生」「写実」とは

 投稿者:比良山  投稿日:2019年 2月 5日(火)21時36分37秒 sp49-106-206-28.msf.spmode.ne.jp
返信・引用
  > > たまたま俳壇2月号を読んでいましたら中村雅樹氏の「俳壇時評 写生と私」(p34ー35)
> > を見つけました。昨年の1月に亡くなった大峯あきら氏、10月に亡くなった宇佐美魚目氏の
> > 「写生」についての考え方が大きく異なっていることに触れています。
>
> >  俳句という場でしか問うことのできない、本質的な問題がここにはある。
> >  大峯あきらと宇佐美魚目が亡くなった今、この問にどこまでも執することが必要ではないかと、
> >  思っている。
> > と結んでいます。
> > (出典;総合俳句誌 俳壇2019年2月号P34-35)
>
>
> 比良山さん、「写生」に関する記事の紹介ありがとうございます!
> こうやって多角的に考察できると、より正確な理解が得られますね。
> また関連記事をどこかで見つけましたら、いつでも遠慮なくご紹介くださいね!
>
> 子規が「写生」に言及した文章をまとめたサイト、及び「写生」に言及したサイトをいくつか見つけましたので、貼っておきます。
>
> 子規の写生観
> http://www.sakanouenokumo.com/syasei.htm
>
>
> またいろいろ調べてみると、子規も当初唱えた「写生」に自ら不備を感じ、随時「写生」の意味するところや解釈を、拡大し変えていっている事実も判明しました。
>
>
> 子規「写生説」の不思議
> https://search.yahoo.co.jp/search;_ylt=A7dPeoDhUllch0AAXLCJBtF7?p=%E5%AD%90%E8%A6%8F%E3%81%AE%E5%86%99%E7%94%9F%E8%A6%B3&fr=top_ga1_sa&ei=UTF-8&aq=-1&oq=%E5%AD%90%E8%A6%8F%E3%81%AE%E5%86%99%E7%94%9F%E8%A6%B3&at=&aa=&ai=jqlu0IXwT5i2tjBWhrknpA&ts=21511
> (上から4番目のPDF版。アドレスが出ません。「ファイルを開ける」をクリックしてお読みください)
>
>
> 現代俳句の起源??俳句における写生と想像力を考える(序説)
> http://bungeikan.jp/domestic/detail/408/
>
>
> 情報交換しながら、一緒に「写生」の本意を探れたらいいですね。
> こんな記事もあるよ、など気付いたり、思うところがありましたら、これからもどうぞ遠慮なく書き込んでいただければと思います。
>
> 作者の感興も意図もなく、ただただ眼前の景色を言葉に置き換える、それが子規や虚子の意図した「写生」ではない、そこが私の一番知りたいところです。
>
>
>
比々きさん。承りました。比々きさんの蘊蓄の
深さに頭がさがります。m(__)m
さしあたり雑誌「俳壇」の受け売りでよければ
ちょうどバックナンバー(2017.1~)を読み返したい
とかねてより思っておりましたので「写生」からは
少々脱線するかも知れませんが
①子規・仰臥六尺:復本一郎
②俳句論のゆくえ:坂口昌弘(俳句第二芸術論~)
等から私にはかなり難解ですが興味深い記事を
私なりにピックアップして書き込みたいと思います
ので宜しくお願いいたします。m(__)m
 

Re: 子規や虚子の時代の「写生」「写実」とは

 投稿者:比々き  投稿日:2019年 2月 5日(火)19時27分48秒 softbank060148116079.bbtec.net
返信・引用 編集済
  > No.5050[元記事へ]

> たまたま俳壇2月号を読んでいましたら中村雅樹氏の「俳壇時評 写生と私」(p34ー35)
> を見つけました。昨年の1月に亡くなった大峯あきら氏、10月に亡くなった宇佐美魚目氏の
> 「写生」についての考え方が大きく異なっていることに触れています。

>  俳句という場でしか問うことのできない、本質的な問題がここにはある。
>  大峯あきらと宇佐美魚目が亡くなった今、この問にどこまでも執することが必要ではないかと、
>  思っている。
> と結んでいます。
> (出典;総合俳句誌 俳壇2019年2月号P34-35)


比良山さん、「写生」に関する記事の紹介ありがとうございます!
こうやって多角的に考察できると、より正確な理解が得られますね。
また関連記事をどこかで見つけましたら、いつでも遠慮なくご紹介くださいね!

上記「俳壇」の記事でもわかるように、子規がどういう意味で「写生」と言ったのか、虚子はどういう意味で「客観写生」と言ったのか、100年以上経つのに当の俳人の間でさえ未だに定説がなく、解釈が混乱しているのは明らか。

私が読む限りでは、俳句の場合でも子規は「写生」をあくまで「手段」として捉えているように見えます。

「写生といふ事は、画を画くにも、記事文を書く上にも極めて必要なもので、この手段によらなくては画も記事文も全く出来ないといふてもよい位である。」(病牀六尺 明治三十五年六月二十六日)

子規が「写生」に言及した文章をまとめたサイト、及び「写生」に言及したサイトをいくつか見つけましたので、貼っておきます。

子規の写生観
http://www.sakanouenokumo.com/syasei.htm


またいろいろ調べてみると、子規も当初唱えた「写生」に自ら不備を感じ、随時「写生」の意味するところや解釈を、拡大し変えていっている事実も判明しました。


子規「写生説」の不思議
https://search.yahoo.co.jp/search;_ylt=A7dPeoDhUllch0AAXLCJBtF7?p=%E5%AD%90%E8%A6%8F%E3%81%AE%E5%86%99%E7%94%9F%E8%A6%B3&fr=top_ga1_sa&ei=UTF-8&aq=-1&oq=%E5%AD%90%E8%A6%8F%E3%81%AE%E5%86%99%E7%94%9F%E8%A6%B3&at=&aa=&ai=jqlu0IXwT5i2tjBWhrknpA&ts=21511
(上から4番目のPDF版。アドレスが出ません。「ファイルを開ける」をクリックしてお読みください)


現代俳句の起源――俳句における写生と想像力を考える(序説)
http://bungeikan.jp/domestic/detail/408/


情報交換しながら、一緒に「写生」の本意を探れたらいいですね。
こんな記事もあるよ、など気付いたり、思うところがありましたら、これからもどうぞ遠慮なく書き込んでいただければと思います。

作者の感興も意図もなく、ただただ眼前の景色を言葉に置き換える、それが子規や虚子の意図した「写生」ではない、そこが私の一番知りたいところです。

「客観写生ということに努めて居ると、その客観写生を透して主観が浸透して出て来る」(高浜虚子『俳句への道』)
「ただ平凡と見える客観の写生の底に作者の主観の火を見得る人のみが句を善解する人であると思う。」(同上)


 

Re: 子規や虚子の時代の「写生」「写実」とは

 投稿者:比良山  投稿日:2019年 2月 5日(火)13時33分10秒 sp49-96-9-150.mse.spmode.ne.jp
返信・引用
  > No.5049[元記事へ]


 比々きさんの写生に関する記事、興味深く拝見させていただいております。m(__)m
たまたま俳壇2月号を読んでいましたら中村雅樹氏の「俳壇時評 写生と私」(p34ー35)
を見つけました。昨年の1月に亡くなった大峯あきら氏、10月に亡くなった宇佐美魚目氏の
「写生」についての考え方が大きく異なっていることに触れています。
いずれも若い頃には高濱虚子に師事し、その後波多野爽波の「青」に所属して二人とも
「ホトトギス」流の「写生」を学んだと思われるとのこと。

雅樹氏は、
「写生」についての考え方が異なるということは「写生」する「私」をどのようなものとして
考えるのか、という問題でもあった。したがって「写生」の問題は、あきらと魚目の二人だけの
問題ではなく少なくとも吟行に出かけて何かを詠むような、現代の俳人すべてに関わる問題で
あろう。
と述べています。

それでは魚目とあきらの「写生」についての考え方は、
【魚目】
①写生とは、言葉による対象の具象化ということであり、対象の要点を掴む少ない言葉によって、
 いかに生き生きと対象を描くかということである。
②①をさらに一歩進め透徹した具象化は、対象の本質を、言葉によって掴みとることであり、
 ついには抽象に転じるのであった。この転化は、魚目に、眼前の景を詠みながら、一句に
 「永遠の景」を現出させるという力業を強いた。
 眼前の個別的な景が、ただちに「永遠の景」なのではなく、眼前の景の具象化によって、
 「永遠の景」を引き出す。
③他方において、魚目にとっての俳句とは「私の心のうた」であった。他の誰とも紛れる
 ことのない、この私の心が入っていることによって、その句は紛れもない、この私の
 俳句となる。
 「みんなのうた」であれば、多くの人の共鳴を得ることもできようが、そのような俳句は、
 私でなくても詠めるような句でしかない。たとえどれほど上手な句であっても、そこに
 私の心がなければ、技術的に優れた手錬れの句、悪達者な芸でしかないのだ。
④そして眼前の景が、「永遠の景」に転化するように、写生に裏打ちされた「私の心」は、
 この私にとどまらない普遍性を獲得するであろう。「永遠の景」であれ、「私の心」であれ、
 結局は、見えるものを通して、見えないものを詠むのである。
 魚目にとっての写生とは、この見えないものを見るための修練であった。

【あきら】
①あきらは、芭蕉の〈さまざまの事思ひ出す桜かな〉と、虚子の〈咲き満ちてこぼるる花もなかりけり〉
 の両句を比較して、
 芭蕉の桜は、人生というものをすっぽりと包んでいる桜であって、それは「客体ではなく世界である」。
 これに対して虚子の句は、満開の桜のありようを確実に捉えてはいるが、この桜はどこまでも
 「客体であって世界ではない」。桜に対する両者の違いは、「外なる客体を写すという立場と、物に
 応ずるという立場のちがい」である。
②あきらによれば、子規の写生は対象である客体と、それを写す主観との分裂を前提にしている。
 写生において、どれほど私意を離れたとしても客体を写生する主観そのものは排除されないのである。
 こうしてあきらは子規以来の近代的な写生の限界を指摘して、「物に応ずる」という立場を唱える。
 これは芭蕉の思想に連なるものである。
③後年あきらは、自然・宇宙の声を聞き、その声に応じるところに俳句が生まれると教えた。
 (略)大切なのは、向こうから来る声を聞きとめることである。聞きとめることは、感じることである。
 「本当に感じたことを正直に言う」のが俳句なのだ。「私」を持ち込み、一句において私意を主張する
 のは俳句ではない。

まとめますと
【魚目】「私のうた」が単なる私意にとどまるのではなく、それをいわば普遍化するために、若き魚目は
     写生を修行として自らに課したのであった。
【あきら】写生という近代的枠組みそのものに疑問を呈し、写生の主体である「私」を、「物に応ずる」
     という、受動性へと解消しようとしたのであった。

雅樹氏は
 俳句という場でしか問うことのできない、本質的な問題がここにはある。
 大峯あきらと宇佐美魚目が亡くなった今、この問にどこまでも執することが必要ではないかと、
 思っている。
と結んでいます。
(出典;総合俳句誌 俳壇2019年2月号P34-35)

 俳句の初心者の私としてまだよくわかりませんがあらためて俳句の奥深さにただただ圧倒されて
います。(@_@;)


 

子規や虚子の時代の「写生」「写実」とは

 投稿者:比々き  投稿日:2019年 2月 4日(月)20時02分12秒 softbank060148116079.bbtec.net
返信・引用 編集済
  『リアルのゆくえ』(生活の友社)を読み終わって見えてきたことがあります。

子規が中村不折(1866-1943)を通して「写生」という言葉を知った時、不折が「どういう意味で」写生を捉えていたか、ということです。

それを知ることは、子規や虚子が「写生」をどのようなものとして捉えていたかを、正しく理解するための鍵となります。

子規は「写生」に関してこう述べています。

「写生といひ写実といふは実際有のままに写すに相違なけれども固より多少の取捨選択を要す」(「叙事文」)

各種辞典は「写生」についてこう説明しています。

https://kotobank.jp/word/%E5%86%99%E7%94%9F-186198

「日本での写生の意味は中国の原義とはやや異なるが、その精神はいずれも、直接自然の対象を観察することによって、形式にとらわれずにその物のありのままの姿、ひいてはその内奥にある本質に迫ろうとするものである。」(日本大百科全書)

「明治初期の洋画は、フォンタネージによって「写生」を重視したが、なお「生命を写す」意で用いられた。」(精選版 日本国語大辞典)


『新興俳句アンソロジー』で神野紗希さんが理解している「客観写生」とはこうです。

229p
「見たままを主観を交えずに記述する客観写生」

『リアルのゆくえ』によると、江戸期の高橋由一から現代にいたるまで、画家たちは「見たままを主観を交えずに」描くことを「写生」「写実」とは言っていないことが解ります。

不折その人の「写生」に関する直接的な言葉はこの本にはないのですが、当時の画壇における「写生」の共通認識はこうでした。

16p
「応挙が現れて、京では写生ということばが流行した。」(上田秋成)
「近代の写実的絵画の流れが応挙から始まった。」(佐々木丞平)

291p
「(高橋由一は)描いた作品が、その対象を超越してはじめて神品と言えると述べている。描かれたものは作者の意や情を宿すものとして見るものに迫ってくる。つまり写意を得ている。それは単なる絵ではなく、由一の精神の一部、あるいは分身と化す。だからこそ由一の絵は底に計り知れない澱のようなものが沈んでいる。それが見る者の心にまとわりつくように感じられる。精神性のなせる業だが、それが過剰となると不気味な雰囲気を醸し出す。」

「この過剰な精神性は岸田劉生によって引き継がれた。劉生は、技術は画家の才能にとって主要なものと認めるが、それに溺れるのは危険であり、実物どおり描けた満足を突き破ってそれ以上のものを表さなくてはならないと説く。由一も写意と写形ともに得ているものが一番だが、それに次ぐのが「写形ニ乏シキモ写意ニ富ナルモノ」だとしている。いくらホンモノそっくりに上手に描かれていても精神性が乏しければだめなのである。この言葉は現代の写実絵画への警鐘として生きている。大事なのは写実を通して何を表現したいのか、その内容、精神なのだ。劉生は「深き神秘」を写実により表現すると言明する。写実はあくまでも「深き神秘」に至るための「道」なのである。」

295p
「劉生にとって写実は通過する道であり、手段であった。よってその後の画風は大きく変化した。草土社のメンバーを含め劉生に従った画家たちの多くは写実が目的となってしまい、彼を理解できなかった節がある。劉生の目指すところは「無形の美」だったのである。」


西洋の支配・被支配のヒエラルキーのある「一神教的」自然観が入ってくる前、子規や虚子や当時の画家たちは、全ての生きものは人間も動物も昆虫も草花も無機物も、皆命として横一列、同等であるという「草木国土悉皆成仏」の「汎神論」的自然観を持っていました。

28p
「この、日本人にいまなお残る(汎神論的)感性、一木一草。自然の細部に意味と価値を見い出し、畏(かしこ)きものの宿りを感じる感性の発露を写実絵画において考えた場合、高橋由一や岸田劉生の作品にも見ることは可能ではないだろうか。」

29~31p
「(現代の画家たちの)それはまた、技術的な問題、技法として本物そっくりの写実や細密描写を制作の目的としたものではない。写実はもともと二次元の画面を三次元の虚空間に変換する修辞法である。これを目的とした絵画であれば、トリック・アートとなんら変わらない。写実は手段であって、目的とするものではない。大事なのは、写実する姿勢であり取り組みである。このことによりすべての存在の根源である生命・魂を見出し、絵画に顕現させようとすることである。」

「日本の写実は、幕末になって、西洋由来の写実を知る。その刺激を受けて、それまでの絵画の主流であった、観念的、象徴的な世界を描くのではなく、現実を描く、すなわち現実への眼差しを意識するようになった。これにより絵を描くことは対象をつぶさに見る、観察する態度を基本とした。画家たちは見ることにこだわるが、西洋のように主客分離、自然を突き放して見るのではなく、多寡はあるものの、どこか無意識のうちに彼我融合、自然との一体感の感性を保持しつつ対象を見る。凝視は描く対象の細部にそれぞれの意味を見つけることにつながる。それは、日本人のDNAの二割を縄文人から受け継いでいるように、古来よりのアニミスティックな感性の発動の現れであろう。この感覚によって、「迫真に物狂いのようになっている」高橋由一の日本独自の写実は劉生から、更に現代まで引き継がれていくのである。」

168p
「花一つを、砂一粒を人間と同物に見る事、神と見る事」(高島野十郎「遺稿ノート」)

193p
「写実を追求して、無形の神秘な幽明境に達するのが自分の道」(岸田劉生)

196p
「私にとってリアル(写実)とは、真実の追求で永遠の生命力である。」(奥谷 博)

197p
「私にとってリアル(写実)とは、魂の世界を表すべきものである。」(野田弘志)

216p
「私にとってリアル(写実)とは、普遍性を追うことである。」(木下 晋)

217p
「私にとってリアル(写実)とは、真理を追究することである。」(三浦明範)

233p
「写実――実を写すとも言える。大きな真実のための無数の小さな嘘、とボナールは言った。芸術ってそういうものだと思う。そんなふうにしてこの世のふしぎをうつしてくる。」(安藤正子)


素十が「甘草の芽のとびとびのひとならび」と詠んだのは、甘草という植物に人間と同等の神性、仏性を見いだしたからなんですね。
見かけは「とびとび」で離れているけれど、「ひとならび」横一列なんだね、と言ってるわけです。
人間も一緒だよ、と。
皆と自分は「別々の存在」と思ってるけど、ちがわない、「いっしょ」同じなんだよと言ってるんですね。
この句はだから、ただ「見たままを主観を交えずに」詠んだ句ではないわけです。
むしろ素十の「主観」「自然観」を仮託するにふさわしい「普遍性」のある景として詠まれたんですね。

でもこの句を読んで、碧梧桐や秋櫻子はこんな風に鑑賞できなかった。
見かけがあまりにも地味ですからね。
「見たまま言葉に置き換えただけじゃん、つまんねえ~」、と多分思ったのかもしれません(笑)

もしかしたら彼ら読者の側に、作者と同じ自然観がなかったのかもしれません。
同じ自然観を持っていた虚子だからこそ、素十の句は読めましたが、そうでないと、ただのつまらない句として「その外見」だけで弾かれる可能性大ですものね。

「読めない」自分の側に問題があるとは、碧梧桐も秋櫻子もきっと考えなかったんじゃないでしょうか。

そして草土社の人たちが「写生」のための「手段」だった「写実」を、いつのまにか「目的」にしてしまい、劉生の「目的」が「無形の美」を描く事=「写生」であることを忘れてしまったように、虚子造反派も「写生」の「手段」だった「写実」を、「写生」の「目的」だと勘違いしたのではないでしょうか。

もしかしたら、その後の虚子派も反虚子派も、この点を勘違いしたまま今に至っている、とんだ誤解という点では「同じ穴の狢」?その可能性も無きにしも非ずなのでは、と思ったりしています(笑)

 

Re: 感受する生き方

 投稿者:比良山  投稿日:2019年 2月 3日(日)18時28分41秒 sp49-104-13-133.msf.spmode.ne.jp
返信・引用
  > No.5046[元記事へ]

> 今朝娘が毎週録画しているEテレ「こころの時代」を、何気にお相伴して視ていたら、ドリアン助川さんがいきなり芭蕉の話をし出したのでびっくり。
> 慌てて身を入れて聴いてしまいました。
>
> http://www4.nhk.or.jp/kokoro/31/
>
> ドリアンさんは震災後に線量計片手に自転車と人力で芭蕉の「おくのほそ道」を辿ってみたのだそうです。
>
> https://gendai.ismedia.jp/articles/-/54838
>
> 《あらためて読むと芭蕉のすさまじさに驚嘆させられます。人は生産性のあることをして、お金を稼ぎながら、生きています。俳句を詠む行為にも生産の一面はありますが、それはお金を生むためではなく、その根本にあるのは「感受すること」なんです。
>
> 四季折々の風情を感受することに徹する生き方。自分も『あん』という小説で、ハンセン病の療養所の、ある女性の生き方を描きましたが、彼女に共感することも俳句の「感受すること」と同じ。今の時代、皆が見失っている姿勢だと感じます。》
>
> 若い頃の成功体験の後、40代になり長い暗黒の不毛時代を経験したドリアンさん。
> その「やることなすことうまくいかない」沈潜の中で彼が掴んだ気付きが素晴らしい!
>
> http://www4.nhk.or.jp/kokoro/
>
> 「自然界とか、この世が与えてくれるものは何を見ても面白い。私たちはそれを見るために生まれてきた。」
>
> 再放送は2月9日土曜日、午後1時~2時。
>
> 彼が暗黒の40代をどんな思いで過ごしていたか、それを知るだけでも勇気を貰えますが、そのもがきの中、「追いつめられた」中で、ある日僥倖のように掴み取った人が生きる意味。
>
> 人は何のために生きるのか?
> 生産性や効率が重視される現代、ドリアンさんが提案するのは「積極的感受」という生き方。
>
> 是非視て頂きたいです!
>
>
>
>
やっぱり比々きさんもご覧になっていましたか。(^o^)
私も思わず見入ってしまい、芭蕉の話が出てきたところから録画していました。
もちろん再放送は初めから録画予約しました。(@_@;)

積極的感受が生きることにつながるということと理解しました。
「三千大千世界」「一即多」「積極的感受」
座右の銘ならず座右の言葉と致したく。?
 

偉大な質問者になる

 投稿者:比々き  投稿日:2019年 2月 3日(日)16時21分47秒 softbank060148116079.bbtec.net
返信・引用 編集済
  日課の鑑賞、今日は、

 ていねいに刻つかひゐる蝸牛 小菅白藤

この鑑賞文を書こうとして思い出したのは、五十嵐秀彦さんのブログにあった寺山修司の言葉。

言語の風狂 その後の寺山修司俳句論
http://hideig.wixsite.com/mumon575/untitled-c1xlg

《偉大な政治家にならなくともよいし、偉大なスポーツマンにならなくともよい。ただ、偉大な質問者になりたい。》(寺山修司「時代に向かって疑問を投げかける」より)

《地球儀を見ながら私は「偉大な思想などにはならなくともいいから、偉大な質問になりたい」と思っていたのである。》(寺山修司『田園に死す』「跋」より)

上記の句は「スピードこそ善」と信じてきた私たちに、明らかに「それでいいのか?」と「問いかけている」句。

「常識」に疑義を差し挟む句。

以下は私の鑑賞です。

「この句を読んで、俳句とは「常識に毒されない、新鮮なものの見方」の提示だなあ、と改めて思う。遅いより「早いほうがいい」という価値観に、長い間私たちは毒されてきた。だが、いたずらに「早さ」を追求してきた結果人は、本来得られるはずの、時間と心の余裕を失くし、セカセカ緊張を強いられ、文字通り「忙殺」され、心身を深く病むようになった。これが現実である。本当にそれでいいのか?とこの句は問いかける。知り合いの子で学校のテストの点数が悪い子がいた。しかしその子は頭が悪いのではなく、何事もゆっくりで、単に時間切れで、全問解けないまま答案用紙を出さざるを得ず、その結果点数が悪いだけだった。時間を掛けさえすれば、全問解ける能力を持っていたのに、限られた時間では彼女の「ゆっくリズム」が対応できない、ただそれだけだった。なのに、彼女は「とろい子」「頭の悪い子」というレッテルを貼られていた。寺山修司は「私は偉大な質問になりたい」と言ったが、俳人も、時には読者に「質問」を投げかける存在になる必要がある。「批評精神」という詩人の魂があれば、「あれっ、これっておかしくない?」というものに絶対ぶつかるからだ。昔の人は自然を自らの生き方の手本にしてきた。掲句の「蝸牛」の「ていねいに刻つかひゐる」、その生き方、在り様は、言葉にならないかたちで、スピード重視の今の私たちに大きな「質問」、「それって、ちょっとおかしくないですか?」と問いかけているような気がする。小菅白藤には他に/いくたびも耳掻つかふ雪の底/かなかなの刻つかひ切り墜ちにけり/一月や飛びそこなへし札一枚/大寒や逝く順あらばどのあたり/寒鯉のうごく包みをもらひけり/小正月河童を釣りに出てゆけり/海鳥の縄張りのなか代を掻く/など。」

 

感受する生き方

 投稿者:比々き  投稿日:2019年 2月 3日(日)14時14分56秒 softbank060148116079.bbtec.net
返信・引用 編集済
  今朝娘が毎週録画しているEテレ「こころの時代」を、何気にお相伴して視ていたら、ドリアン助川さんがいきなり芭蕉の話をし出したのでびっくり。
慌てて身を入れて聴いてしまいました。

http://www4.nhk.or.jp/kokoro/31/

ドリアンさんは震災後に線量計片手に自転車と人力で芭蕉の「おくのほそ道」を辿ってみたのだそうです。

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/54838

《あらためて読むと芭蕉のすさまじさに驚嘆させられます。人は生産性のあることをして、お金を稼ぎながら、生きています。俳句を詠む行為にも生産の一面はありますが、それはお金を生むためではなく、その根本にあるのは「感受すること」なんです。

四季折々の風情を感受することに徹する生き方。自分も『あん』という小説で、ハンセン病の療養所の、ある女性の生き方を描きましたが、彼女に共感することも俳句の「感受すること」と同じ。今の時代、皆が見失っている姿勢だと感じます。》

若い頃の成功体験の後、40代になり長い暗黒の不毛時代を経験したドリアンさん。
その「やることなすことうまくいかない」沈潜の中で彼が掴んだ気付きが素晴らしい!

http://www4.nhk.or.jp/kokoro/

「自然界とか、この世が与えてくれるものは何を見ても面白い。私たちはそれを見るために生まれてきた。」

再放送は2月9日土曜日、午後1時~2時。

彼が暗黒の40代をどんな思いで過ごしていたか、それを知るだけでも勇気を貰えますが、そのもがきの中、「追いつめられた」中で、ある日僥倖のように掴み取った人が生きる意味。

人は何のために生きるのか?
生産性や効率が重視される現代、ドリアンさんが提案するのは「積極的感受」という生き方。

是非視て頂きたいです!



 

ありがとう!

 投稿者:トポル  投稿日:2019年 2月 2日(土)14時10分48秒 42-147-96-133.rev.home.ne.jp
返信・引用
  比々きさん、ありがとう!
久しぶりでした。

ところでこの掲示板、友人が読んでいてとても勉強になると言ってました。
訪れたなら、コメントくらい残せよって話ですが。
 

Re: 青嵐俳談

 投稿者:南風の記憶  投稿日:2019年 2月 2日(土)02時30分26秒 ai126165038013.73.access-internet.ne.jp
返信・引用
  > No.5037[元記事へ]

> 南風の記憶さん、青海也緒さん、森川大和選、入選おめでとう!

 比々きさん、ありがとうございます。愛媛新聞「青嵐」の入選句は、以前の俳句ポストの兼題「枇杷の花」の以下の没句を推敲したもので、リベンジ(?)が達成できて良かったです。

俳句ポスト<没>句:敦盛の笛偲ぶかに枇杷の花

→推敲句:「敦盛」の足袋に鼓に枇杷の花

 我ながら、“上手く”詠めたと思っています。「敦盛」の舞、その足袋の動きと鼓の音、そこに静かに落ちていく枇杷の小さな白い花。誰が読んでも、ほぼ100%同じ光景が浮かぶ、キレイで分かりやすい句ですよね。

……何が言いたいか、比々きさんならお察しでしょう(笑)。ええ、良く言えば「(そこそこ)キレイで分かりやすい句」であり、悪く言えば「(それ以上の)広がりはない句」です。

 ご周知の通り、「敦盛」とはかの織田信長が「人間五十年」と好んで演じたとされる舞ですが、そこに舞う人物の“心情”まで託せているかというと、ちょっと微妙でしょうか。

 このままだと頭打ちになりそうなので……先日、組長の新刊「夏井いつきの365日季語手帖(2019年版)」「夏井いつきの俳句ことはじめ」の2冊と「「月」の歳時記」の計3冊を購入し、就寝前に少しずつ読んでいます。

 三冊とも面白いのですが、特に「「月」の歳時記」がお気に入りです。数々の秀句を読むのが心地良いですし、それと写真もとてもキレイですね! まるでクラシック音楽を聴くような、贅沢な気分が味わえます(笑)。

 このところ、引越し準備等に追われ、なかなか掲示板に書き込めなかったのですが、比々きさんのコメントやリンクは読ませていただいています。また勉強させて下さい。

https://stand16.hatenablog.com/

 

トポルさん、天おめでとう!

 投稿者:比々き  投稿日:2019年 2月 1日(金)22時16分30秒 softbank060148116079.bbtec.net
返信・引用
  「一句一遊」・寒苦鳥、「竹輪の笛のように啼く」、いやあ、笑った!参りました!

 寒苦鳥竹輪の笛のように啼く トポル

http://575.aritani-mahoro.com/cgi-bin/rakugaki/petit.cgi

 

フルポン村上の俳句修行・その4

 投稿者:比々き  投稿日:2019年 2月 1日(金)22時01分38秒 softbank060148116079.bbtec.net
返信・引用
  今回は稲畑廣太郎さん主宰、あの「ホトトギス」の句会へ。

なんと!ここでも村上さん、大活躍!

想像句でも全然オッケーの「ホトトギス」。

詳細は、是非下記で。

フルポン村上の俳句修行
https://book.asahi.com/article/12109046

 

「読み」は自由でいい

 投稿者:比々き  投稿日:2019年 2月 1日(金)14時29分24秒 softbank060148116079.bbtec.net
返信・引用 編集済
  北海道の俳句を面白くしようという俳句集団【itak】の活動に、前から注目していて、五十嵐秀彦さんや橋本喜夫さんの書いたものをちょこちょこ読んできたのですが、読んでしみじみ思うのは、俳句の底には「自由」の精神と「反骨」の精神があって、それを絶対潰しちゃダメだ、ということ。

「こうすべき」「こうあるべき」で、人を縛ろうとする言説には要注意、要警戒だということ。

それは俳句の精神から出た言葉ではないということ。

自分自身縛られ、又他者を縛ろうとする、つまり「支配・被支配」の自然観の人が言う言葉だということ。

私がヨミビトシラズさんの「組長の読みに準ずる読みをすべき」に反発を覚えたのは、まさにこの思いがあったからなんですね。

たまたま今日もまた五十嵐さんのブログを読んでいて、「読みは自由でいい」を裏付ける記事に出会ったので、貼っておきます。

http://itakhaiku.blogspot.com/2015/08/blog-post_19.html

一部抜粋

《O:個人的にですけど、俳句も音楽も鑑賞する側に委ねるというというところが…。

E:強制しないっていうね。

O:間違った解釈でも。

E:聞き手が受け取ったとおりでいいということね。

O:歌詞とか間違えててもアリなのかもと、いろいろ聴いてみて感じましたね。

E:まあ、俳句にしても文学全般でもシンプルで分かりやすいものがいいのかもしれないね。わかりやすくても隙があって解釈の余地がある。そういうのがいいと思うね。

O:きちっと決まってるものも、格好いいと思いますけど、そういう自由さがどちらにも大事だと思いましたね。

E:そうだね、強く感じたね。》


あと、五十嵐さんのブログも良かったらお暇なときにでも読んでみてください。

無門日記
http://blog.livedoor.jp/mumon1/archives/2018-10.html

私は、ただ読みっぱなしにするんじゃなくて、心に留まった言葉をノートに書きつけているのですが、そこから少しおすそ分け(上記アドレスに掲載)。

《ぼくにとっては、俳句も上原ひろみの音楽も同類のものなのだ。
それは保守的で成熟した文化ではなく、形而上学的な前衛でもなく、伝統芸能化したエセ前衛でも、また最近広がりつつある都会的で洗練されたタダゴト俳句でもない。
燃えるような魂で、存在に肉迫する表現者の姿が、原郷のように思える。

たぶんそんな文化は、今の若い世代にはめんどくさいほど田舎くさいものに違いない。
でも田舎くさいこととは、辺境ということではないだろうか。
新しい時代は辺境からしか生まれないのではないか。
洗練は心地良いかもしれないが、きっとなんにも生み出さない。

ぼくは彼女の音楽を聴いて、そのことを考えていた。
つまり、俳句のことを考えていたのである。

保守化と商業化の底に沈んでいたジャズの世界から、不死鳥のように彼女が現れた。
そうであれば同じように、保守化のどん底にある俳句の世界から不死鳥のように「現代」の俳句が現れる可能性もあるだろう。
少なくとも、この「音」があらわしている文化が身にしみているぼくらの世代が、保守化した俳句(これは伝統俳句だけを言っているのではなく前衛俳句も含めて言っている)を否定しなければならない状況にいるのかもしれない。

リラックスするためにだけジャズがあるのではなく、リラックスするためだけに俳句があるのではない。
存在に迫ろうとする者がいて、文化はより高みへ、さらなる深みへと向かう。

がんばろう、そう思った。》


※「燃えるような魂で、存在に肉迫する表現者」「リラックスするためだけに俳句があるのではない。存在に迫ろうとする者がいて、文化はより高みへ、さらなる深みへと向かう」、これは先にも書いたカラオケ俳句についても考えさせられる言葉。

私は、あなたは、果たして、「燃えるような魂で、存在に肉迫する表現者」「存在に迫ろうとする者」ですか?



 

西洋の自然観と日本の自然観

 投稿者:比々き  投稿日:2019年 1月30日(水)16時08分4秒 softbank060148116079.bbtec.net
返信・引用 編集済
  『新興俳句アンソロジー 何が新しかったのか』と『リアル(写実)のゆくえ』を並行して読んで、色々なことを考えさせられています。

その一つが「西洋の自然観」と「日本の自然観」の違い。

輸入と言えば私たちは、文物や絵画、技術、方法、思想などの輸入と受け取りますが、実は、それらを通じて、西洋の「物の見方」=「見型」=「視文化」、精神、自然観、価値観を「無意識」のうちに取り入れ、影響を受けている、ということなんですね。

ご存知のように西洋は「一神教」、日本は「八百万神」「草木国土悉有仏性」の「多神教」。

西洋の絵画における遠近法、透視図法は「焦点が1つ」に収束していきますが、これも、実は西洋の「一神教」的「自然観」の反映なのだとか。

どんな自然観かというと、(『リアルのゆくえ』22p23p)

・「一神教による神から人、動物、植物という揺るぎないヒエラルキーが支配する世界」
・「見る《主体》と、見られる対象=《客体》に絶対的な区別を設ける」
・「われわれ(人間)を自然の支配者かつ所有者たらしめる」(デカルト)

それに対して日本の伝統絵画の特徴から窺える「日本の自然観」はこうです。

・「異時同図=多視点の構図」
・「中心が偏在=多中心」
・「画面上に階層構造を持たず、それぞれの場面が独立し、なおかつ有機的に連動している」
・「画家の視点が遠近高低自在に動くことにより、描かれた場面にはひとつの統一的なものの見方が成立しない」
・「したがって画家・見る者と世界・自然との関係は相対的なものとなる」

維新の西洋の波をもろに被った子規や虚子や碧梧桐、秋櫻子たちは、西洋の文化・文物と同時に「一神教的自然観」にもさらされていたんですね。

明治から数えて150年経った今、草も木も動物も虫も無機物も人間も「同等」の「自然の一員」、「支配・被支配」の関係ではなく、互いに依存し合いながら「共存共栄」していく存在、この日本的自然観が、西洋の「支配・被支配」の自然観に、少しづつ置き替わりつつあるような気がしてなりません。

虚子が「花鳥諷詠」を敢て唱えた、その心には、あくまでも「ヒエラルキー」に拘り、「支配・被支配」の関係を持ち込もうとする、西洋の暴力的な価値観に対する、彼なりの「NO」の意思表示、「流行」に無批判的に飛びつく虚子造反派に対する警告、それがあったような気がします。

量子力学の世界では「観察される物(客体)」は「観察する者(主体)」が「観察」しようとした途端(観察には「光」が不可欠なので)、否応なく「影響を与えてしまう」、なので、「客体」と「主体」を「切り離して」考えることは不可能だ、ということが知られるようになりました。

私たちも人のことを「ああだこうだ」言いますが、その時には、必ず自分の「主観」「先入観」の影響を受けて評価している、その影響を受けずに純粋にその人を評価することは不可能、それに似ていると考えれば理解しやすいかもしれません。

日本的自然観は、「客体」と「主体」を分けませんが、はるか昔から量子力学的自然観を持っていたんですね!
本当に驚くべきことです。

俳句にも、作者の自然観が自ずから出てしまいます。

「自他」を「横」並びで捉える自然観、「自他」を「縦」並びで捉える自然観、果たしてあなたはどちらでしょうか?



 

岸本式スランプ脱出法

 投稿者:比々き  投稿日:2019年 1月30日(水)01時41分22秒 softbank060148116079.bbtec.net
返信・引用 編集済
  『俳句一問一答』(岸本尚毅著 NHK出版)より。169、170p要約・抜粋。

①題詠:
生活体験のある季語を選んで、「同じ季語」で1時間で5句なら5句と締め切りを決め、想像を逞しくして、嘘も方便で、思いついたらどんどん書き留める。
締め切りを設け、自分を追いつめられた状態に仕向けると、否応なく自分で自分の殻を破るような発想が出てくる。

②吟行:
梅を見に行く、春風の句を作る、など題詠と同じく「同じ季語」でたくさん作る。
最初は平凡な句しかできないが、書き捨て、書き捨てしているうちに、既成観念が洗い流され、予想もしなかったような句が生まれることがある。
たくさん作ることが、自分の殻を破るきっかけになるので、とにかく「たくさん」作るを目指す。

③名句鑑賞:
先人の名句に触れることで、自分の作句の発想力がアップする。
俳句を読む力が高まれば、作句力もそれに応じて向上する。
先人の名句に触れることで、鈍っていた俳句の感性を回復することができる。

※組長も、「詠むと読むは俳句の両輪」と言っています。

私自身名句鑑賞を続けて、名句からたくさん作句のヒントを貰うので、句作に行き詰まることは皆無。
いつでも、ものの30分もあれば20句30句出来てしまいます。

今からでも遅くありません。やればわかります。
書きたいことが浮かばなくても、書き始めさえすれば、書きたいことが次々出てくる不思議!
それをぜひ体験して頂きたいです。

名句鑑賞を続けていれば、おそらくスランプはないし、あってもすぐ脱出できるような気がします。

 

句会のあり方を変えることから

 投稿者:比々き  投稿日:2019年 1月29日(火)12時39分36秒 softbank060148116079.bbtec.net
返信・引用 編集済
  俳句は、類想や前例踏襲を嫌う。

それなのに、どこの句会へ行っても、ほとんど似たようなやり方ばかり。

それが句会の「型」だとばかり、俳人でありながら、その類想・類型に何の疑問を持っていないのが不思議。

同じことの繰り返し、予定調和には、正直「厭きる」、それが偽らざる心理。

句会だって「多様」でいい!

予想もつかない展開を期待してわくわくしながら出掛け、帰るときには何かをしっかり掴んだ、という手ごたえを感じて、「よし、今度はあの方法を試してやる!」とわくわくしながら帰る、そういう句会にしたい。

初心者も含め、輪番制で全員講師をやってもらうのもいい。

講師をやる以上、否応なく本を読み勉強するし、人前で話すためにはしっかり理解してかかりますからね。
読んだことが、1人で読む以上に身に付くのは確か。

俳ポや一句一遊の兼題が発表されたら、それをすかさず句会の兼題にしてしまう。
自分一人では思いつかないアイデアが、5人いれば無限に出てくるはず。
そこで出たことをヒントに、その場で早々と作って、それを句会形式で論評し合う。

帰るときには余裕で句が出来上がっているので、締め切り間際に焦ってバタバタ不完全燃焼な句を出すことも無くなる。

今朝『新興俳句アンソロジー』の富澤赤黄男の百句を読みながら、こんなことを考え、ついでに「ていれぎ」20句作ってしまいました!

800人近くの句を毎日欠かさず読んで「読む」楽しさを知り、ついでに先人の句が俳句作りの最高の呼び水になることを知ったので、組長の言う通り、俳句作りは今の私にとって年々「かんたん」で、一番楽しい時間になってます!

「読む」を侮っている人には、永遠にこの楽しさは解らないだろうなあ(笑)
騙されてこの挑発にのった人は幸いなり。アーメン(笑)


 

青嵐俳談

 投稿者:比々き  投稿日:2019年 1月28日(月)16時53分22秒 softbank060148116079.bbtec.net
返信・引用
  南風の記憶さん、青海也緒さん、森川大和選、入選おめでとう!

https://www.za-chelin.jp/article/news201901280001


「敦盛」の足袋に鼓に枇杷の花  南風の記憶

 枝に居る枯葉小鳥のごと冬日  青海也緒

 

「勉強句会」始動します!

 投稿者:比々き  投稿日:2019年 1月28日(月)15時01分3秒 softbank060148116079.bbtec.net
返信・引用 編集済
  下記の「カラオケ俳句」で書いたうちの一人が、今日またお電話を下さって、「いつき組の勉強句会があれば参加したい」とのこと。

彼女は俳ポに投句し始めて5年になるのに、いつも並どまり。自分の句をどうにかしたいと思っても、その方法が解らなくて、句会には数回参加したのですが、自分の句のどこをどうすれば良くなるのか、そのヒントももらえないまま、ずっと悶々としていたのだそう。

カルチャーセンターも考えたけれど、変な先生に当たって、変な考えを押し付けられてもイヤだし、やっぱり「いつき組」の仲間と、ただの吟行句会ではなく、「自分の句のどこが駄目なのか」「どうすれば良くなるのか」、その手ごたえがはっきり感じられ、自分の句が見違えるように変わっていく、そういう句会に参加したいのだそう。

下記の対談で五十嵐さんもこうおっしゃっています。
http://itakhaiku.blogspot.com/2015/05/blog-post_30.html?m=1

五 itakも最近、斡旋業になっています。結社に入って先生と自分との関係で、俳句を極めていく。ただ、結社には先生しかいないというわけではなく、先生以外にも(会員に)いろんな人がいる。あれって、言っていいかなあ……、じゃまだよね。

夏 恐ろしいことを、いきなり言いましたね。言いたいことは、肌で分かる部分はありますが。先生と一対一で結ばれることによって学ぶというところが師弟関係の本質という面は確かにありますね。

五 「じゃまだ」と言ったのは、(結社の人と)友だちになれないというわけではなく、結社の中で、主宰の入らない小さな句会が出来てくる。その小さな句会を、必ずしも結社が生かしていないことがしばしば感じられる。先生の代わりになるような人が登場するんですが、代わりになった人って本当に先生の代わりになるのかな……って。結局、みんなで平凡な同じような句を作って、上手になったと喜んでいるのはどうかなと思う。結社も大事なんだけど、変わっていかないとだめ。結社だけではやれる状況ではなくなっていると思います。


「勉強句会」はラーラさんの発案で、「みんなで平凡な同じような句を作って、上手になったと喜んでいる」ような句会ではなく、俳句を社交の道具にしたお喋りメインの句会でもなく、探求心や向上心のある人たちと一緒に「本気で」俳句を究めたい、というもの。

ラーラさんも私も、組長人気に乗じてというよりも、「俳句という文学を今までになかった高みに引き上げ」ようという、組長の志の高さに共鳴しているんですね。

ただの「俳句好き」で漫然と投稿する、そういう自分を、自分の向上心や探求心が許さないタイプ(笑)

組長は言います。

「俳句の種蒔きをやめる気はなかった。同時に自分自身の作品、書くモノを高める気持ちも失っているつもりはありません。」

私も全く同感で、「自分自身の作品、書くモノを高める気持ち」を「本気」で持ち、そのための努力を惜しまない、と言う人が5人集まったら始動しようと思っていたら、上記の電話だったわけです。

初回は早くて来月の末辺りを予定。

もし参加したいという方がいらしたら、是非意思表示をして頂ければと思います。

 

「客観写生」の誤解

 投稿者:比々き  投稿日:2019年 1月28日(月)14時33分6秒 softbank060148116079.bbtec.net
返信・引用
  『新興俳句アンソロジー』を読んでいると、どうしてもひっかかるのが、新興俳句出自の「前提」。

「保守「ホトトギス」の掲げた花鳥諷詠・客観写生に対し」(227p)

「見たまま主観を交えずに記述する客観写生とは性質を異にする主観的で象徴的な言葉」(229p)

どちらも神野紗希さんのことば。

これは「客観写生」についての岸本尚毅さんの理解とはまるで違います。

1月12日の記事「虚子の言う「客観写生」とは」にも書きましたが、岸本さんの理解はこうです。


「客観写生の「客観」とは、俳句の対象や内容において客観的であれ、ということではありません。俳句の【表現】において客観的であれ、という意味です。したがって観念を詠む客観写生もあり得ます。」

「主観的な事柄を客観的に表現する、平凡な観念を生き生きと表現する、それが虚子の意図するところの「写生」でした。」

「物をよく見てありのままに表現する、ということだけが俳句ではありません。見えたものや聞こえたものなど、感覚が捉えた事実だけではなく、観念から生まれた切実な嘘(「作者の解釈や思い込み」112p)を語ることもまた、虚子のいう写生の範疇です。」


岸本さんと神野さん初め若手の俳人との間にある、虚子理解の齟齬、「客観写生」理解の隔たり、それを埋めるような話し合いをしてくれないと、と思います。

「誤解」に基づく論議には、正直言って読者は素直に耳傾けられないですからね。

尚このアンソロジーでは、我らがウェンズデー正人くんも「橋本夢道」の項を執筆。

芭蕉、虚子、新興俳句作家たちの「俳句という文学を今までになかった高みに引き上げ」ようという意志と、方法の試行錯誤は、組長の下記の志と同じもの。

どこかでこの両者の齟齬が解消されることを祈りたいです!

 

夏井いつき×五十嵐秀彦

 投稿者:比々き  投稿日:2019年 1月27日(日)23時01分50秒 softbank060148116079.bbtec.net
返信・引用 編集済
  ずっと以前にご紹介したことがありますが、再掲載です。

http://itakhaiku.blogspot.com/2015/05/blog-post_30.html?m=1

組長の言葉を幾つか抜粋。

「黒田(杏子)さんはわがままな、自分で勝手にやり出す人間のことが好きなんです。大事にしてくれます。」

「遠くのほうで「あなたたちの好きなように、やりたい放題やりなさい」と言ってくれる。あんな主宰も珍しい。口がでかいだけではなく、腹も太い。ブラックホールのように懐が深い人です」

「「高める」ことと「広げる」ことは相反することではないと思います。広げることにより、たくさんの人が俳句することにより、互いに切磋琢磨する人・空間・人脈が広がっていく。それが最終的に、俳句という文学を今までになかった高みに引き上げるはずだと。高めると広げるは相反しない。高めることと楽しむことも相反することではない。その確固たる思いがありました。俳句は強靱な文学です。17音しかないけど、どんなにはちゃめちゃに楽しんでも崩れるはずはない。強靭な背骨で立っている。何の遠慮無く、一緒に楽しみましょう、広げましょう、その先に一緒に高まって行きましょうという理屈が少しずつ出来ていった。そうすると、批判されても気にならなくなりました。批判されても「ご意見として参考になります」と言いながら聞かない。俳句の種蒔きをやめる気はなかった。同時に自分自身の作品、書くモノを高める気持ちも失っているつもりはありません。」

「松山は保守的な場所ですが、俳句を始めたころ、結社という括り、よその結社との交流も御法度のような括りに、反発を感じました。地元の大御所の先生と喧嘩して、松山で完全に干されて、たった一人ぼっちになった。不思議なことに結社間の連絡網があるんですね。私はブラックリストに載ってしまったので、どこにも入れてもらえませんでした。一人で吟行して、牡丹を見ていたら、以前の仲間たちがいて、手を振ってくれたんです。2、3言話して別れただけなのに、後になって、私と言葉を交わした人がつるし上げられる。こんなことやってたら、俳句はバベルの塔どころか、根腐れして自滅してしまうという思いがありました。」

「先生と一緒に句会ができる環境ではなかったけど、教えてもらいたいと信じた先生に、黒田杏子さんに、投句して一文字変わって掲載される。その一文字の意味を、先生の選から、こちらが読み解いていく。こちらが勝手に学び取っていくシステムは俳句にとっては有効な学び方です。私は句会には行けず、結果だけで独学していたけど、ぶれずに来ることができたのは、黒田杏子という軸があったから。どんなに迷っても、必ず戻る場所がある。それが一番ありがたかった。だから、いつき組も「結社なんてだめだよ」とは一言も言いません。」

「「俳句はこうあるべき」とは絶対に言いません。芸術に対して「こうあるべきだ」と言った瞬間から、根っこから腐っていくと思う。すそ野を広げること、こうあるべきと言わない、枠をはめない。それだけで多様性を実現できるのではないかと、100年後を楽観しています。」


※「わたし」は「わがままな、自分で勝手にやり出す人間のことが好き」ですか?それとも嫌いですか?

※「わたし」は「あなたたちの好きなように、やりたい放題やりなさい」と言ってくれる人ですか?

※「わたし」の「広げる」ことは「最終的に、俳句という文学を今までになかった高みに引き上げる」ことを目的にしたものですか?

※「わたし」は「(反発を感じ)地元の大御所の先生と喧嘩して、松山で完全に干されて、たった一人ぼっちにな」る、それができますか?

※「わたし」は「一文字変わって掲載される。その一文字の意味を、先生の選から、こちらが読み解いていく。こちらが勝手に学び取っていく」をしていますか?

※「わたし」は「こうあるべきと言わない、枠をはめない」人ですか?

 

岸本尚毅インタビュー

 投稿者:比々き  投稿日:2019年 1月26日(土)16時35分0秒 softbank060148116079.bbtec.net
返信・引用
  俳句というものがどんなもので、どんなものでないか、それを知りたい方は、是非ご一読を!

岸本尚毅インタビュー(1)「感覚」から「観念」へ
http://weekly-haiku.blogspot.com/2010/12/1.html


岸本尚毅インタビュー(2)最適化された「単純」さ
http://weekly-haiku.blogspot.com/2010/12/2.html


岸本尚毅インタビュー(3)俳句はどこまで「馬鹿になれるか」の競争です(笑)
http://weekly-haiku.blogspot.com/2010/12/3.html



 

カラオケ俳句

 投稿者:比々き  投稿日:2019年 1月26日(土)11時57分20秒 softbank060148116079.bbtec.net
返信・引用 編集済
  今朝『新興俳句のアンソロジー』で鈴木六林男(1919~2004)を読んでいたらこんな句が!

 蜿蜒とカラオケ俳壇去年今年  鈴木六林男

18歳で作句開始、句歴2年、20歳で応召、中国、その後フィリピンへ。
20代を丸々戦場で、毎日死と隣り合わせに過ごし、自身も負傷、右腕の骨に機関砲の破片10数個を食い込ませ、手のひらには大きな擦過傷を付けて、命からがら帰ってきた六林男。

「(戦場では)俳句には〈季語が必要である〉とか、そんなゆとりのあることは言っておれなかった。生きている時間の今がすべてであった。この時、俳句力倆二年の技術で書き残せることは、いま生きている自分が中心であった。殺るか、殺られるかであった。それを書くには、花鳥諷詠や造化をともとするゆとりはなかった。(中略)無季の俳句に取り組まざるを得なかった。人間、生れてくれば死ぬことは決まりきっているから、そんな判りきったことを俳句にしない、とする風流人が多い。しかし、私は、詩とは判りきったところから出発するものだと思っている」(鈴木六林男『定住游学』)

「状況としての見える自然や情況としての見えない自然を視る眼は、遠来者や観光者や侵略者の眼でなく。土着者の、生活者の、ゲリラの眼、そうゲリラの視座でなければならぬと思うようになる」(同)

言論弾圧、思想や表現を制限された中で、書き留めればたちまち制裁の対象となる戦場句は、すべて「記憶」の中に書き留めて持ち帰ったという六林男。

そんな六林男の「ゲリラの眼」が、大半が「飽食、使い捨て、消費は美徳」の「戦争を知らない」「死ぬのは他人ばかり」の世代が作った今の俳句や俳壇を視たとき、意識の上での余りのギャップに、上記のような句を作らざるを得なかった、その心境を思うと、なんだか切なくなります。

そういう命がけで生み出され、切実な思いから生まれた句を引き継ぎながら、「存在の耐えられない軽さ」の「カラオケ俳句」に甘んじている私たち。

「自分のために詠む」とはいえ、本当に「カラオケ俳句」のままでいいのか、考えさせられてしまいました。

一昨日私とある人が電話及びメールでやり取りした内容は、奇しくも同じ。
どちらも句歴は長いのにいつも並どまりで「悩んでいる」というもの。

訊いたら「勉強していない」という返事。
「俳句をやめようかどうか迷っている」とも。

入門書が巷に溢れ、ネット環境もそれなりにあり、その気になれば幾らでもできる恵まれた環境にいながら、やるべきことをやらないで、「楽(らく)して」結果だけ得ようとするこのメンタリティ。

「当り前だろ」に本人は気付いていないんですよね。

鈴木六林男が嘆くのも無理ない!

そんな六林男に「楽しくなければ俳句じゃない!」と、言ったらどんな顔をするだろうか?

と、そんなこんなを思った今朝でした。



 

聞ける俳句

 投稿者:比々き  投稿日:2019年 1月25日(金)13時33分18秒 softbank060148116079.bbtec.net
返信・引用
  神野紗希さんが、今日1月25日〆切の俳句の募集をツイッターで呼びかけています。

兼題は「梅」。

自作なら既発表句でも構わないとのこと。

詳細及び応募フォームはこちらから。

https://www.ebc.co.jp/haiku/



 

ていれぎ

 投稿者:比々き  投稿日:2019年 1月24日(木)22時37分25秒 softbank060148116079.bbtec.net
返信・引用 編集済
  俳ポの新兼題「ていれぎ」=大葉種漬花(オオバタネツケバナ)。

気を付けてみると結構そこら辺に生えています。

実は我が家の鉢植えにも、しばらく前からにょきにょき生えてきたのが、まさにコレ。

野草料理に親しんできたので、タネツケバナは何度も食べたことがあるのですが、青臭いだけで、さほどおいしいものではありません。

しかしオオバタネツケバナは食べると山葵のような爽やかな辛みがあって、こちらはクレソンとはまた違った美味しさ。

タネツケバナは小ぶりで地面に貼りつくように生え、葉も硬めで色も濃いですが、オオバタネツケバナは伸び伸び生えていて、葉の色は若干薄目。

お散歩の時にでも気を付けてみると、案外身近に見つけられるかもしれませんよ。
 

ファイルが届きました

 投稿者:比々き  投稿日:2019年 1月24日(木)18時41分40秒 softbank060148116079.bbtec.net
返信・引用
  カタログハウスの賞品、組長のクリアファイル、届きました!

1枚かと思ったら、3枚も入ってました!


 

何が新しかったのか

 投稿者:比々き  投稿日:2019年 1月24日(木)16時12分47秒 softbank060148116079.bbtec.net
返信・引用 編集済
  今『新興俳句のアンソロジー 何が新しかったのか』(現代俳句協会青年部・編)と、高橋由一を挟んで、その前後、室町時代のキリスト教伝来(1549)から現在に至るまでの写実絵画の変遷を追った『リアルのゆくえ』(生活の友社)を同時並行で読んでいるのですが、これが俳句黎明期の「写生」を理解する上で、実に示唆に富んでいて、すこぶる面白い!

ご存知のように俳句は、明治時代(1868~1912)「維新」によってどっと到来した西洋の新風に、「新しもの好き」が「新しい」というだけで「新しいものに飛びつく」ように、いってみれば「西洋かぶれ」の形で、子規(1867~1902)が「洋画」の方法「写生」を導入したことに端を発しています。その頃にはいわゆる「写真」文化も輸入されていました(1848年)。

1720年に洋書輸入の禁が緩和され、西洋の「学術書」の「図版」「挿絵」が「写実的」であったことから、それまで日本の絵画といえば、物語や仏教説話、歌に詠まれた名所など「絵空事」中心だったものが、徐々に影響を受け、「現実世界」を積極的に描く方へシフトしていったと考えられます。

子規は、俳諧のみならず短歌や詩、散文を含む文芸全般に、時代の趨勢に合った新風、一味違う「新味」を加えたいと、それまでの擬古文や漢文調からいわゆる「写生文」への改革も勧めています。

洋風の野菜や調味料が日本に輸入されることで、それまでの料理が一新した、それと似ていると考えると分り易いです。

要するに子規は芭蕉のように「革新、刷新の精神」に溢れた若者だったわけです。

この「刷新精神」は、虚子(1874~1959)も同様で、虚子自身「写生文」を積極的に試みていますし、子規の「写生」に関しても、自然の景物だけでなく、主観や観念の「写生」まで「写生」の範囲を拡張・拡大し、それまで圧倒的に男性優位の俳壇に、「台所俳句」を通して「女性」進出の道を開きました。また娘立子をして、「女性初」の俳句結社誌「玉藻」を創刊させています。

決して頑固な「変化を嫌う」「守旧派」「保守派」ではなかった虚子の「革新の精神」を例えるなら、絵画の世界で言えば高橋由一(1828~1894)や岸田劉生(1891~1929)のような感じかもしれません。

高橋由一、岸田劉生に関して、芳賀徹さん(日本文学、比較文学の研究者)は次のように述べています。

《由一も劉生も絵画制作を自覚的にもまた無自覚の域においてまでも、自己の精神の深層と相渉る者として営みつづけた。写実という一見純粋に即物的な眼の営為と考えられがちな仕事が、実は心的世界の最深の部分の関与をうながし、それによってのみ意味をもつ――劉生の言葉によれば『深い神秘、深き無形に到達する』ものであることを知った点で、明治の高橋由一と大正の岸田劉生は、その名も外光派という黒田清輝およびアカデミーの叙情的感覚主義の谷間をへだてて、相呼応し照射しあう二つの頂だったのではないだろうか》(『リアルのゆくえ』11p)

『新興俳句のアンソロジー 何が新しかったのか』を読んで私が感じる違和感は、新興俳句が、秋櫻子(1892~1981)の虚子批判、虚子の「自然の真」を求める態度は「科学に属するもの」、自分たちは文学をやる者として「文芸上の真」を求める、というそこに端を発しているところ。
そしてそれを現代の若手の俳人たちも、おおむね肯っているところ。

《俳句を現代の文学たらしめようとした、子規の革命精神を引き継いでいるのは、虚子よりもむしろ新興俳句の作家たちではなかったか。》(『新興俳句のアンソロジー』「はじめに」神野紗希さん執筆)

岸本尚毅さんの虚子理解を読んだ後で、この本を読んだせいか、秋櫻子にしても、虚子が唱導した「客観写生」を勝手に浅く解釈し、「正しく理解しないまま」その「誤解」が招いた「反発」だったような気がしてなりません。

虚子にしろ、新興俳句(1931~1941)の人たちにしろ、「刷新精神」をもって「新」を追求したという点では、何ら変わるところはありません。

以前の記事にも書きましたが、俳句には二つの方法があります。

①季語の本意に忠実に、その季語らしい境地を深く深く掘り下げてゆく行き方。

②新しい風俗や物の見方を取り入れながら、季語の新しい表情を発見しようとする行き方。

「深は新なり」(虚子)

①「深」を志すか。

②「新」をめざすか。

虚子はあくまでも「深」・「不易」を追求し、「映画」や「鉄道」や「機械産業」の導入、ネオンやカフェーなど都市生活に伴う「目新しい素材」に飛びついた「新興俳句」は「新」・「流行」を追求した、ただそれだけの違いのような気がします。

虚子が「花鳥諷詠」を唱えたのも、「流行」の目新しい素材を追うあまり、「自然」に対する興味や関心が薄れ、考え方まで西洋にかぶれてしまう、それを懸念したのかもしれません。

西洋と日本では、その「自然観」は真反対。

西洋は「自然を人間に従わせ、屈服させようとする」「支配・被支配」の考え方、日本は「同じ自然の仲間同士」人間も他の生物も「共存共栄」していこう、という考え方。

「自然」に対する考え方の違い、それがひいては人間の価値観や生き方や物事の選択にまで影響する、そのことを虚子は見抜いていて、その懸念が今現実化している、そんな気がします。










 

Re: 「俳句の精神」こそ、現代社会に必要ではないか

 投稿者:南風の記憶  投稿日:2019年 1月23日(水)20時59分5秒 p2044-ipbfpfx02yosemiya.okinawa.ocn.ne.jp
返信・引用
  > No.5026[元記事へ]

 比々きさん、いつもながらコメントありがとうございます。


> 没句とそれについての説明を今見させて頂いて、率直な感想を言わせて頂くと、南風の記憶さんは俳句を「物語の縮尺ツール」だと「勘違い」しているように私には見えます。

> 「かくもあろうかと思われる景、こういうことも起ころうかという生活」、これを詠もうとすることが、南風の記憶さんの場合、圧倒的に多いわけです。
>
> こういう俳句がえてしてコケるのには、理由があります。
>
> ・「(作者自身の)感動、感激が稀薄」だから。
> ・結果「自然の理」として「表現に力が入らない」から。
> ・そして、それを「読者」は感じとるから。
>

 うーん……実に、耳が痛いです(苦笑)。図星も図星、「おっしゃる通り」です(汗)。私自身、後で読み返した時に「(この句の作り方は)何かズレているんじゃないか」と、モヤモヤした感じがずっとあったのですが、その「何か」がよく分からずにいました。やっぱり、こうして第三者にご指摘いただくのが一番分かり易いですね。

 まぁしかし、当初の「表記ミス」といい「季重なり」といい「ストーリーを作りたがる癖」といい、俳句における“ありとあらゆる失敗”を重ね続けたおかげで、どういう考えで作ればいいのか、少しずつ絞れてきた感覚はあります。


> 俳句の場合、17音で語らないといけないという厳しい制約があるので、必然、作者は、「この感激、感動を、この気持ちを、この発見を、何としてでも読者に伝えたい!そのために俺は、私は、表現の「ここに」に、「この一言に」、細心の描写、俺なりの「工夫」をし、そこに命を懸けたんだ、そこを読みとってくれ!」、そういう切実な願い、祈りを込めて作品を作っているわけです。
>

 以前、兼題「枇杷の花」での比々きさんの「地」選句、私はとても印象に残っています。

「枇杷の花吐きだしてゐる樋の口」

 私、中七の「吐きだしてゐる」という言葉がとても鮮烈で、まさに磨き抜かれた“言葉の力”を強く感じました。この句、今日締め切りの兼題「菠薐草」の句を作る時の参考とさせていただきました。近々、その成果を披露……できれば、と思っています(汗)。



https://stand16.hatenablog.com/

 

Re: 「俳句の精神」こそ、現代社会に必要ではないか

 投稿者:比々き  投稿日:2019年 1月23日(水)14時15分51秒 softbank060148116079.bbtec.net
返信・引用 編集済
  >比べてみて、「並」選の一句以外、季語を「描写」していないことに気付き、愕然としました。やはり描写から「逃げて」しまっていることが一目瞭然。


没句とそれについての説明を今見させて頂いて、率直な感想を言わせて頂くと、南風の記憶さんは俳句を「物語の縮尺ツール」だと「勘違い」しているように私には見えます。

俳句は、人生の哀歓、空想、回想、観念、虚構など、何を詠んでもいい「なんでもあり」の懐の広さがある文芸ですが、伝えたいことを17音に要約し、あたかも梗概のようにしたのが俳句ではありません。

南風の記憶さんの句は、ほとんどが実体験に基づかない「空想句」。

空想句に関して、水原秋櫻子は『俳句のつくり方』のなかで、次のように述べています。

《俳句は実際に見て感動し、実際に経験して感激したことを詠むのがよいので、空想して詠んでは、つまらぬものであります。かくもあろうかと思われる景、こういうことも起ころうかという生活を題材にしたのでは、感動、感激が稀薄ですから、表現に際しても力のはいらぬのは自然の理です。だから、できた句に自分が惹きつけられるようなことはほとんどありません。すでに作者自身さえ惹きつけられぬのですから、読者がこれに惹きつけられる筈がないではありませんか》

「かくもあろうかと思われる景、こういうことも起ころうかという生活」、これを詠もうとすることが、南風の記憶さんの場合、圧倒的に多いわけです。

こういう俳句がえてしてコケるのには、理由があります。

・「(作者自身の)感動、感激が稀薄」だから。
・結果「自然の理」として「表現に力が入らない」から。
・そして、それを「読者」は感じとるから。

俳句の場合、17音で語らないといけないという厳しい制約があるので、必然、作者は、「この感激、感動を、この気持ちを、この発見を、何としてでも読者に伝えたい!そのために俺は、私は、表現の「ここに」に、「この一言に」、細心の描写、俺なりの「工夫」をし、そこに命を懸けたんだ、そこを読みとってくれ!」、そういう切実な願い、祈りを込めて作品を作っているわけです。

「読者」はその作者の籠めた「熱エネルギー」を感じて、それに「感応」するんですね。

岸本尚毅さんも『俳句一問一答』の中で「何かを説明しようとして言葉を工夫すればするほど、説明すべき内容と説明のための言葉との間のズレが目立ってしまう。俳句にはそういう一面があります」(76p)と書いています。

南風の記憶さんが感じ、苦慮しているのは、まさにこれではないでしょうか。

また岸本さんは、「私たちが俳句を作る目的」について、こう述べています。(同82p)

《俳句は芸術です。私たちが俳句を作る目的は、五七五の言葉のかたまりとして構築された芸術作品によって、読み手に快い読後感を与えるためなのです。作者の体験を読者に伝えることが目的なのではありません》

「その場に来られない友達がいて、その子のために(雪兎の材料である)笹の葉を取っておいた」、これは「作者の体験」です。

それを「読者」が読まされて、果たして「快い読後感」が得られるかどうか?

組長が「いい句を読むと血がきれいになるような気がする」、というのはこの「快い読後感」があるからなんですね。

1月12日の記事でも書きましたが、《「絵」や「小説」や「音楽」でできることを俳句でやるのはナンセンス、絵や小説や音楽では「できないこと」、それをやってこそ、俳句のアイデンティティがある》。

絵や小説や音楽では「できないこと」、その一つが日常の中の小さな「発見」です。

並選句には「不揃いの瞳の色」という小さな「発見」が辛うじてあったので、組長も採ったのだと私は思いますよ。

「読者」である私たちが一番知りたいのは、南風の記憶さんが、「何に感動し、何に心を動かされたのか」、です。

「星月夜」の句は、南風の記憶さんの「感動」が確かにあり、それが「空想」の翼を得て成功しましたよね。

「感動」には作者だけでなく読者の心をも動かす「エネルギー」があります。
「作者の感動」が「読者の感動」となった時、「あ~、いいものを見させてもらった」と、読者は思うのではないでしょうか。


>俳句以外の記事も、いくつかアップしています。ジャンル違いなのでリンクは貼りませんが、もし良かったらご覧下さい。

はい、読ませていただいてます。


>  以前、比々きさんとのレス交換でも話題になったのですが、「自己中心的」「利益優先」(露骨に「金儲け優先」と書いても良いかもしれません)の風潮があまりにも強く感じられ、憤りを覚えること、やりきれない思いを抱いてしまうことが、多々あります。
>  だからこそ、自分だけでなく“他者の眼差し”をも尊重し、繊細な感覚を表現することのできる「俳句の精神」こそ、現代社会に必要ではないかという思いを、日に日に強くしています。


岸本さんも「心にしみる句」(同60p)の中で同じことを言っています。

《他人の痛みを自分の痛みのように感じる能力は、人間の大切な資質です。その裏返しとして、自分の痛みを他人事のように語る能力も、同じように貴重だと思います。俳句の秘訣もそこにあります》

 

「俳句の精神」こそ、現代社会に必要ではないか

 投稿者:南風の記憶  投稿日:2019年 1月23日(水)00時36分47秒 ai126198111109.60.access-internet.ne.jp
返信・引用
   比々きさん、皆様こんばんは。ブログに新しく記事を複数アップしておりますので、お知らせ致します。なお、俳句関連の記事は以下のリンクです。

https://stand16.hatenablog.com/entry/2019/01/21/035908

 今回の見所(?)は、没句と入選句を一覧にして、見比べられるようにした点です。比べてみて、「並」選の一句以外、季語を「描写」していないことに気付き、愕然としました。やはり描写から「逃げて」しまっていることが一目瞭然。そういえば弱気になっていたなと思ってはいたのですが、こうも露骨に反映されてしまっているとは(汗)。

 俳句以外の記事も、いくつかアップしています。ジャンル違いなのでリンクは貼りませんが、もし良かったらご覧下さい。

 以前、比々きさんとのレス交換でも話題になったのですが、「自己中心的」「利益優先」(露骨に「金儲け優先」と書いても良いかもしれません)の風潮があまりにも強く感じられ、憤りを覚えること、やりきれない思いを抱いてしまうことが、多々あります。

 だからこそ、自分だけでなく“他者の眼差し”をも尊重し、繊細な感覚を表現することのできる「俳句の精神」こそ、現代社会に必要ではないかという思いを、日に日に強くしています。

https://stand16.hatenablog.com/

 

作句の二つの方向性

 投稿者:比々き  投稿日:2019年 1月22日(火)16時35分29秒 softbank060148116079.bbtec.net
返信・引用 編集済
  岸本尚毅さんの『俳句一問一答』(NHK出版)よりの、要約抜粋です。

28、29p
《◆俳句の作り方

①季語の本意に忠実に、その季語らしい境地を深く深く掘り下げてゆく行き方。

②新しい風俗や物の見方を取り入れながら、季語の新しい表情を発見しようとする行き方。

「深は新なり」(虚子)

①「深」を志すか。

②「新」をめざすか。

「いずれにせよ、季語と作者との関係は自由でありたいものです。」

「季語の本意を十分に理解した上で、あえてその本意とは異なる季語の表情を見出すことも、俳句作りの醍醐味の一つです。」


13p
◆「つきすぎ」とは:「季語と季語以外の部分との関係が、同質的・常識的なために一句が面白みを欠くこと」

例:桜咲き軍帽の叔父帰省せり

理由:軍国主義の時代に国のために命を潔く捨てることが讃美され、桜はその価値観の象徴だった。なので「桜」と「軍帽」は「つきすぎ」。

例:梅の花母の遺品に櫛その他

理由:古来、梅の香をよすがに故人を偲ぶ詩歌は数多くある。なので「梅」と「遺品」の取り合わせは常識的で「つきすぎ」。

例:一葉忌本郷辺り晴れにけり

理由:一葉は本郷に住んでいたので「つきすぎ」。

(例句は、榎本好宏著『俳句入門』より)

14p~16p
例:「水温む」に対し「緋鯉・橋・舟・バケツ・釣、、、」など「水」に関わるものはNGで「つきすぎ」。


◆「つきすぎ」がすべて悪いわけではない。「つきすぎ」の名句もある。

例:草臥れて宿かる比(ころ)や藤の花 芭蕉

理由:「藤のおぼつかなきさましたる」(『徒然草』)と「くたびれて宿かる頃のおぼつかない気分」がぴったり合っている。

例:行春(ゆくはる)を近江の人とおしみける 芭蕉

理由:「湖水朦朧として春ををしむに便有(ある)べし」(『去来抄』)とあるように、近江と「春惜しむ」という季語がよく合っている。

「つきすぎ」に対して神経質になると、これらの句のような伸びやかな俳句のよさを見失ってしまうおそれがある。

「つきすぎ」という批判を寄せつけない、力強い俳句が理想。


◆「季語を選ぶ」という発想は本末転倒。

服やアクセサリーを選ぶようなつもりで季語を選ぶという発想は捨てるべき。

季語以外のフレーズが先にできたとしても、出来上がった句を推敲するとき、〈この句に対してこの季語がふさわしいかどうか〉ではなく、〈この季語に対してこの句がふさわしいかどうか〉という発想で自作を吟味する。

季語を中心に詠う習練を積み重ねて行くと、やがて季語が最初に自分の中に飛び込んで来て、その後に季語につられて他の語が出てくるようになる。

そういう状態に到達すると、もはや季語で迷うことはなくなる。

一句の出発点が季語だと、「季語の動かない句」が作れる。

季語以外の何かが先にあって、後から季語を置こうとすると「季語の動く句」になりやすい。》


※俳ポを始め、ほとんどの投句先が当季雑詠ではなく、「季語」を「兼題」にするのは、こういう理由があったんですね!

 

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