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Re: 「かろみ」について

 投稿者:比々き  投稿日:2019年 5月 6日(月)01時17分12秒 softbank060148116079.bbtec.net
返信・引用
  > No.5124[元記事へ]

>  前回、比々きさんが言及された「かろみ」について、自分なりに考えてみました。まだきちんとまとまってはいないので、あくまでも“現時点では”このように捉えている、ということですが……


芭蕉がどういう意味で「かろみ」と言ったのかについては、諸説あって、「重い」の反対であることは確かですが、三省堂の大辞林によると「日常的なことばによる詩の創造の実現をめざす句体・句法・芸境のこと」。

「今思ふ体は浅き砂川を見るごとく句の形、付心(つけごころ)ともに軽きなり」(別座鋪:べつざしき)とあることから、「軽み」が、「句の形」と「付心」、すなわち、「表現面」と「詩境」の両方をさしていることは明らか。

時事を詠む場合は、どうしても「形」も「心」も「重く」なりがち。
西東三鬼が原爆投下の翌年広島入りして詠んだ句「広島や卵食ふ時口ひらく」のように、「重いテーマを軽く」詠むのはけっこう難しい。


> 「常識は詩の敵である。常識は脳を委縮し硬直化し、自由な発想を妨げるのである。」
>  この“常識に囚われない”ということが「かろみ」だと、私は捉えました。


「囚われる」とどうなるか。
文献にかなり沿った多田裕計さんの『小説 芭蕉』を読むと、この「かろみ」を理解できなかった門人たちは、俗人根性丸出しで、天才肌の其角を中傷し、彼の派手で民衆受けする句を、蕉風じゃないと、嫉妬から批判したり、自分たちの方が正統な蕉風だと言って譲らず、互いが互いの悪口を言い合い、芭蕉を自分たちの方に取り込もうと賄賂めいた贈り物を用意したり、早くも分裂寸前だったことが書かれています。
51歳で亡くなった芭蕉の死を早めた遠因の一つは、この心労にあったのかもしれません。
芭蕉としては、其角は其角、「新しさ」を求める芭蕉の「古池や」の精神さえ持ち合わせていれば立派な蕉風、句姿は問わない、と、最後まで其角を擁護しました。


> 「とはいっても常識を完全に捨て去るのは難しい。詩人としては成功かもしれないが、社会人としてはアウトだ。数人はアウトになって欲しいが(以下略)」
>  このように、常識に囚われないということの難しさについて述べておられます。難しい、ということを認めざるを得ません。
>  では、どうすれば良いのか。
>  私が意識していることは、“常識”を善悪や好悪抜きにして、客観的に見てみるということです。たまには距離を置いて、遠くから眺めてみる。
>  そうすると、自分がどんな世界に生きていて、何に囚われているのかということが、朧気ながらではありますが、見えてきます。
>  このように、常識を抜け出すことはすぐには難しいのですが、常識を「客観視」することなら、努力すればできるようになるかもしれません。この「客観視」という作業が、私にとっての「かろみへの第一歩」かなと、今は考えています。


「常識」をまず知らなければ、それから脱け出すことは出来ませんが、形と共に大事なのはその心。

「常(つねに)風雅にいるものは、おもふ心の色物と成りて、句姿定まるものなれば、取物自然にして子細なし。心の色うるはしからざれば、外に詞をたくむ。是則(すなはち)常に誠を勤ざる心の俗也」(あかさうし)

(自然や事物の現象に接して《心に感ずる》ものが生じた時、それが句というかたちとなり、対象や素材の取り合わせが自然で、言葉や表現に私意による作意がない、素直なよい句が生まれるが、少しも《心に感ずる》ものがないと、「外に言葉をたくむ」、つまり言葉をこねくり回してもっともらしい表現を取り繕うと作意する。私意的な作意をもって作られた句は、俳諧の誠をせめるという姿勢からは遠い。)

「形」と「心」、その両面で「かろみ」を目指していきたいですね!

 
 

「かろみ」について

 投稿者:南風の記憶  投稿日:2019年 5月 4日(土)16時03分22秒 ai126183094049.57.access-internet.ne.jp
返信・引用
   比々きさん、皆様こんにちは。

 前回、比々きさんが言及された「かろみ」について、自分なりに考えてみました。まだきちんとまとまってはいないので、あくまでも“現時点では”このように捉えている、ということですが……

 北大路翼先生が、次のようにおっしゃっていますよね。

「常識は詩の敵である。常識は脳を委縮し硬直化し、自由な発想を妨げるのである。」

 この“常識に囚われない”ということが「かろみ」だと、私は捉えました。ただ、北大路先生は、続けて以下のようにもおっしゃっています。

「とはいっても常識を完全に捨て去るのは難しい。詩人としては成功かもしれないが、社会人としてはアウトだ。数人はアウトになって欲しいが(以下略)」

 このように、常識に囚われないということの難しさについて述べておられます。難しい、ということを認めざるを得ません。

 半分余談なのですが、Twitter上でやたらと「常識にとらわれない生き方を!」と宣っている人に限って、どこかで見たようなプロフィールと言い回しばかり。「(自分は)常識にとらわれたくない」と思っている人でさえ、何かしらの定型にハマってしまいがちだということの好例だと思います(苦笑)。

 では、どうすれば良いのか。

 私が意識していることは、“常識”を善悪や好悪抜きにして、客観的に見てみるということです。たまには距離を置いて、遠くから眺めてみる。

 そうすると、自分がどんな世界に生きていて、何に囚われているのかということが、朧気ながらではありますが、見えてきます。

 また、これを俳句に落とし込む際には、常識(=人工物)を、季語(=自然)との<対比>に活用しています。

例:紅弁慶揺れて礼服の縦列

 このように、常識を抜け出すことはすぐには難しいのですが、常識を「客観視」することなら、努力すればできるようになるかもしれません。この「客観視」という作業が、私にとっての「かろみへの第一歩」かなと、今は考えています。


 

フルポン村上の俳句修行@たんぽぽ句会

 投稿者:比々き  投稿日:2019年 5月 3日(金)13時33分39秒 softbank060148116079.bbtec.net
返信・引用
  今回は、今年度のNHK「俳句さく咲く!」の講師になった堀本裕樹さん主宰の「たんぽぽ句会」。

ここの句会の特徴は、通常はヤボとされる「自句自解」がオッケーだということ。
堀本さんの弁によれば、「作った本人からしたらめちゃめちゃ気持ちを込めて作ってるので」ということらしいです。
今回も自句自解を聞いて評価を変えた句がありました。

プレバトでも「どんな気持ちで」と、まず司会の浜田さんが訊いて、それに従って添削してますものね。

長谷川櫂さんも本の中で、「作者が苦労して作っている句を、選者がいい加減な気持ちで選句は出来ない」、というようなことを書かれてましたが、作者への愛、選者としての誠意を感じます。

以下、気になった村上さん語録。

「いろんな人がおもしろいかもな、と思える世界観」

「きれいなだけじゃないものが入れ込めないか」

「「僕の周りは美しいだけですよ」って世界は誰のことも引きつけられないじゃないですか。この人にはこんな弱さもあるとか、醜い部分があることを露呈していくから、人は「この人の話なら聞いてみたい」と思うのが小説や短歌にはあるなと思うし、だから僕は好きなんですけど、俳句にもあると思うんですよ。人が見過ごしてしまうものとか、少し斜めから見ることに詩があるっていうか。マイナスって意味ではなく、影があるって意味ではなく、例えば葉の裏側を見るって普通の人にはない感覚を俳句が広げてくれるわけじゃないですか。俳句を目指して、美しい世界をなぞってるだけって少しさみしいじゃないですか。若者がもっと俳句に来るには少しそういう影っぽいのがある方が僕は魅力だな、って思っちゃうかな。」

それに対する堀本さんのコメントも素晴らしい!

是非お読みになってみてください。

フルポン村上の俳句修行
https://book.asahi.com/article/12322828

 

Re: 「何が見えたか」ではなく「“どのように”見えたか」

 投稿者:比々き  投稿日:2019年 4月28日(日)14時45分44秒 softbank060148116079.bbtec.net
返信・引用 編集済
  > No.5121[元記事へ]

>  ただ、ここでポイントになるのは、「描写」ということを理解できているか。もっと言えば、「描写と説明の違い」が分かっているか、ということでしょうか。
>  では、どう区別すれば良いのか。私の理解の仕方では――「何が見えるか」=説明、「どのように見えるか」=描写、というふうに区別しています。


「どのように見えるか」=描写、ここに「その人ならではのオリジナルな把握」が出るので、他に類のないオンリーワンの句になるんですよね!


>  人によって違うでしょうが、私は俳句を詠む時、いつも「自分はなぜそう見えたのか」ということを自問自答します。この自問自答が上手くいった句が入選、不十分な句が落選という結果に最近はなっています。
>  話はそれましたが、この自問自答こそ、先に述べた「自分の心と向き合う」作業になります。これがしっかりできる人は、今のレベルがどうあれ、いずれ俳句が上達していく人だと、個人的には思っています。


「自分はなぜそう見えたのか、そう感じたのか」の「なぜ」は、私の場合もそうですが、どうしても後付けになりがち。
しかもその「なぜ」が、自分でもうまく説明できない時がある(笑)

私の場合句は、画像や動画を見て「おっ」と心が動き、「ここを詠みたい!」と思って「作る」句と、「どこからこんな句が出てきたんだろう?」という、出どころ不明の「浮かぶ」句の二種類があり、特に後者は「自分の心と向き合う」ことが、必ずしも自分理解に繋がらない(笑)
入選の確率はどちらも五分五分。

なので今は「なんでもアリ」で、当落を気にせず、出来たもの、浮かんだものの中から、自分でも「おもしろい!」と思う句を、後は選者のお好み、時の運にお任せで投句しています。


>  言うなれば、「俳句を通してその人が見える」ということでしょうか。そういう人は、確かに俳人として強いのだと感じています。


今、正津勉さんの『乞食 路通 風狂の俳諧師』(作品社)を読んでいるのですが、「芭蕉は世間を捨てることができず、旅もいつも随行者付き、路銀、送迎付きで、遂に風狂になれなかった」、だから風狂を生きた路通のことが心を離れなかった、とあります。

「風雅の徒」とは「月を仰ぎ、月と語り、月と化す」人のことであり、「風狂」とはその「風雅」に徹し、「心を何よりも大事にし、軽々と清々しい心で、どこまでも一人で歩む」人のことだとも。

芭蕉晩年の句境は「かろみ」。
プレバト名人クラスの人たちの句境も、時事を詠みながらも「かろみ」を忘れていない、そんな気がしています。


 

「何が見えたか」ではなく「“どのように”見えたか」

 投稿者:南風の記憶  投稿日:2019年 4月27日(土)22時00分24秒 ai126146114200.53.access-internet.ne.jp
返信・引用
   比々きさん、皆様こんばんは。

 昨日、「型の力」についてコメントさせていただきました。その舌の根も乾かぬうちに(苦笑)、やはり型に言葉を当てはめるだけでは不十分であり、やはり最後は「自分の心としっかり向き合う」という作業が必要であると付記しておきたいと思います。

 なぜ、<「季語とその描写」+「季語を引き立てる措辞」>の型がやりやすいかと言いますと、類想類句を避けやすいということが一つあります。

 例えば、「季語を引き立てる措辞」が10通りあるとすれば、それだけだと10通りの句しか作れません。しかし、ここに「季語の描写」を組み合わせると、単純計算で10×10=100、100通りもの俳句が生まれることになります。

 ただ、ここでポイントになるのは、「描写」ということを理解できているか。もっと言えば、「描写と説明の違い」が分かっているか、ということでしょうか。

 やってみて感じるのですが、「描写と説明」は、確かにその境界線が曖昧なところがあります。例えば、下の句の「燕の口赤し」の「赤し」も、描写といえば描写ですし、説明といえば説明です。

例:燕の口赤し幾百の死骸

 では、どう区別すれば良いのか。私の理解の仕方では――「何が見えるか」=説明、「どのように見えるか」=描写、というふうに区別しています。

 上の句は、燕の口元が赤いということではなく、燕の口元の「赤が強く印章に残った」ということを言いたいのです。

 ではなぜ、そのように見えたのか。答えは、後半の措辞「幾百の死骸」にあります。虫や小動物の数多の死骸。それを見た後だと、あの軽やかに空を飛ぶ燕も、激しい生存競争の中にいるのだと実感します。

 だから、まるで血の痕のようにも見える燕の口元の赤が、私の目に焼き付いたのです。

 ですから、後半部分の措辞を別の物に変えてしまうと、内容によっては「赤し」がただの説明になってしまいます。

例:燕の口赤し高層ビルの底

 人によって違うでしょうが、私は俳句を詠む時、いつも「自分はなぜそう見えたのか」ということを自問自答します。この自問自答が上手くいった句が入選、不十分な句が落選という結果に最近はなっています。

 厄介なのが、そこそこキレイな句が作れた時、この自問自答を疎かにしてしまいがちなのです(苦笑)。明らかに不出来な句は、すぐに推敲しようと思うのですが、それなりに作れてしまうと、これでいいやとそのまま出してしまい、後で「しまった」と思うことが多いです。

 話はそれましたが、この自問自答こそ、先に述べた「自分の心と向き合う」作業になります。これがしっかりできる人は、今のレベルがどうあれ、いずれ俳句が上達していく人だと、個人的には思っています。

 比々きさんへ。

> 私は最近、北大路さん初め何人かのベテランが、「小手先の技術より、人間としての生き様が俳人してるか」、その方が大事だということに妙に納得して、技術より「俳人としての生き様」の方へ関心がシフトしています

 私はまだまだ若輩者で、生き方というほど自分の人生を何も確立していないのですが(苦笑)、一つ言えるのは、自分が生き方下手で色々と苦労もしてきたせいか、なかなか世の中の表には出てこない声に耳を傾け、それを俳句を通して表現したいという思いは強く持つようになりました。

 別に意図したわけじゃないのですが、時事を詠んだ句が入選することが多いですし、また「プレバト!!」を見ていると、描きたいものが確固としてある梅沢さんや東国原さん、村上さんの句はやはり印象に残ります。

 言うなれば、「俳句を通してその人が見える」ということでしょうか。そういう人は、確かに俳人として強いのだと感じています。

https://stand16.hatenablog.com/

 

Re: 少し余談です・・・

 投稿者:比々き  投稿日:2019年 4月27日(土)13時22分37秒 softbank060148116079.bbtec.net
返信・引用 編集済
  > No.5119[元記事へ]

>  ご紹介いただいた、北大路翼さんの著書「生き抜くための俳句塾」、私も購入して読ませていただきました。
>  特に印象的だったのは、「お前らは感動の仕方が分からないんだ」というフレーズでした。確かに! どうしても感情を抑え込んでしまいがちですし、感情を出さないことこそ社会人の美徳(?)とさえ言われがちな風潮さえあります。
>  私もそうだったのですが、俳句を始めたことで、久しぶりに自分本来の感情を取り戻したという方も多いのではないでしょうか。


私もこのフレーズにはドキンとしました。
「感動」こそが生きている証なら、「感動」の無い日々は生きていても、死んでいるようなもの。
別に大きな感動でなくても、「あっ」「おおっ」「ほぅー」「へぇー」「ん?」「おやっ?」など違和感も含めて、心が揺れる瞬間は、生きていれば必ずあるはず。
俳句の命、核も、そこにある、そんな気がしています。

兼題で作る場合でも、感動も無いのに、いきなり頭をフル回転してしゃかりきに場面をでっちあげるのではなく、まずは写真や動画などを見ながら、情報を調べながら、「あっ」「おおっ」「ほぅー」「へぇー」と、どこで自分の心が揺れるか、それを見守る。
そうやって、「私はここに感動したんだ、ここに心が動いたんだ」というところだけを詠もうと決めています。

感動が、俳句に「命」や「生動」のエネルギーを吹き込む。
理性、頭脳優位で、感動も無しで頭で作ることに慣れてしまうと、句も死ぬ、そんな気がしています。


>  この句をひらめいた時、「菠薐草」が青いのは「当たり前」だと言われそうな気もしたのですが、「もんじゅの五キロ圏」という場所を考えた時、菠薐草の「青」が、何かを訴えかけているように思えてならなかったのです。だから、ここは「青し」以外ありえないと、私の中では思っていました。
>
>  これが選ばれた時の嬉しさったら。やっぱり組長は分かってくれた、「青し」に込めた意味をちゃんと読み取ってもらえたのだと、とても感激していました。
>
>  「青し」という言葉自体はごく普通の表現ですが、普通の表現であってもそこに「思い」がこもっていれば、ちゃんと読み取ってくれるのが<俳人・夏井いつき>なのだと、強く実感した出来事でした。


「思い」がこもっている句は、必ず人の心を動かすエネルギーのポテンシャルを秘めている、私もそう思います。
俳句は「創作」ですが、嘘もホントのように感じられるのは、まさにそこに「思い」がこもっているから。
「思い」や「心」「感動」「気持ち」「感情」「違和感」、これらは全て「目に見えないもの」。
それら「目に見えないもの」を、何とか伝えようとしたのが、言葉の始まりであり、歌や詩の始まりであった、そんな気がしてなりません。

 

少し余談です・・・

 投稿者:南風の記憶  投稿日:2019年 4月27日(土)03時53分47秒 ai126183059202.57.access-internet.ne.jp
返信・引用
   比々きさん、(掲示板では)お久しぶりです。いつもコメントありがとうございます。

 ご紹介いただいた、北大路翼さんの著書「生き抜くための俳句塾」、私も購入して読ませていただきました。

 特に印象的だったのは、「お前らは感動の仕方が分からないんだ」というフレーズでした。確かに! どうしても感情を抑え込んでしまいがちですし、感情を出さないことこそ社会人の美徳(?)とさえ言われがちな風潮さえあります。

 私もそうだったのですが、俳句を始めたことで、久しぶりに自分本来の感情を取り戻したという方も多いのではないでしょうか。

 先ほどの投稿について、少し余談を……

 今までの人選で、最も印象深かった回を一つ選ぶとしたら、兼題「菠薐草」です。

 この句をひらめいた時、「菠薐草」が青いのは「当たり前」だと言われそうな気もしたのですが、「もんじゅの五キロ圏」という場所を考えた時、菠薐草の「青」が、何かを訴えかけているように思えてならなかったのです。だから、ここは「青し」以外ありえないと、私の中では思っていました。

 これが選ばれた時の嬉しさったら。やっぱり組長は分かってくれた、「青し」に込めた意味をちゃんと読み取ってもらえたのだと、とても感激していました。

 「青し」という言葉自体はごく普通の表現ですが、普通の表現であってもそこに「思い」がこもっていれば、ちゃんと読み取ってくれるのが<俳人・夏井いつき>なのだと、強く実感した出来事でした。
 

Re: 型の力

 投稿者:比々き  投稿日:2019年 4月27日(土)01時22分47秒 softbank060148116079.bbtec.net
返信・引用
  > No.5117[元記事へ]

>  私がよく使う型は、<「季語と描写の言葉」プラス「季語を引き立てる措辞」>の“取り合わせ”です。この型を使うようになってから、俳句のレベルが安定してきました。「型」には、ごちゃごちゃとまとまらない思考を整理していく働きがあるように感じます。

> 菠薐草|青し|もんじゅの五キロ圏

> 燕の口|赤し|幾百の死骸

> 桜鯛|清ら|水俣の百年

>  以前の私のように、なかなか良い句が浮かばず悩んでおられる方がいらっしゃいましたら、まずは「型」に言葉を当てはめていく作業を試してみるのも、一つの方法かなと思います。


南風の記憶さん、いい提案をありがとう!

上記3句いずれも《季語|その描写|季語と関係の無いモノ・コト》で、「取り合わせ」の「型」のまさに「王道」ですね!

今までの「取り合わせ」の公式というと、《季語|季語と関係の無いモノ・コト》でしたが、そこに《季語の描写》を一言プラスしたのが南風の記憶さんの工夫。

同じ「取り合わせ」でも、単に《季語|季語と関係の無いモノ・コト》を取り合わせただけでは並選止まりですが、そこに一言《季語の描写》を入れるだけで人選にアップするんですね。

これは活用しない手はありません!

私は最近、北大路さん初め何人かのベテランが、「小手先の技術より、人間としての生き様が俳人してるか」、その方が大事だということに妙に納得して、技術より「俳人としての生き様」の方へ関心がシフトしています。

そこから明治維新以降入ってきた、破壊的で人間優位の西欧的自然観から、人間も他の動植物も対等な日本的共生の自然観に立ち返り「野性の思考」や「野性の感覚」を取り戻すべく、中沢新一さんの『野性の科学』(講談社)やら『古代から来た未来人 折口信夫』(ちくまプリマー新書)やらを読んで、「詩」のそもそもの起源や、文学や芸術の起源など、いろいろ調べているところ。

上記の『古代から来た未来人 折口信夫』には、文学や芸能や宗教の発生の根源には「異質な体験」があり、

「おたがいに違っているように見えるものどうしの間に、何かの共通点が発見されたときに、ふたつの異質なものを重ね合わせて、新しい詩的な意味が生まれてくる」34p

「異質なものを重ね合わせると、新鮮なイメージが発生する」35p

「異質なものを一つにつないだところに出現する驚きやおもしろさが、文芸の本質なのである」37p

などなど、まさに俳句で言うところの「取り合わせ」が「詩及び文学の発生・起源」と大きな関係があることを知って驚いているところです。

俳句は、もしかしたら人間を本来の自然の姿に戻す力を持った、もっともプリミティブな文芸なのかも、などと思ったりしています。

お互いの発見を、これからもシェアして、一緒に俳句のなんたるかに少しでも近づいていけたら、こんなに嬉しいことはありません。

これからも、南風の記憶さんの発見、楽しみにしていますね!




 

型の力

 投稿者:南風の記憶  投稿日:2019年 4月26日(金)17時11分6秒 ai126183059202.57.access-internet.ne.jp
返信・引用
   比々きさん、皆様こんにちは。

 この頃、よく「型の力」ということを考えます。先日の通販生活の「燕」と「俳句ポスト365」の「桜鯛」、いずれも一句ずつ人選をいただいたのですが、実は「コレ俳句作れないんじゃないか」と思ってしまうほど、私にとっては難しい兼題でした。

 しかし、「型」に言葉を当てはめることで、何とかそれなりのレベルの句を詠むことができました。

 私がよく使う型は、<「季語と描写の言葉」プラス「季語を引き立てる措辞」>の“取り合わせ”です。この型を使うようになってから、俳句のレベルが安定してきました。「型」には、ごちゃごちゃとまとまらない思考を整理していく働きがあるように感じます。

 もっとも、得意の「型」を習得するまでには、それなりに試行錯誤も重ねました。この「型」を習得できたのは、以前の俳句ポストの兼題「菠薐草」です。

菠薐草青しもんじゅの五キロ圏(「人」選句)

 先日の「燕」と「桜鯛」も、同じ型を使っています。

燕の口赤し幾百の死骸

桜鯛清ら水俣の百年

(いずれも「人」選句)

 以前の私のように、なかなか良い句が浮かばず悩んでおられる方がいらっしゃいましたら、まずは「型」に言葉を当てはめていく作業を試してみるのも、一つの方法かなと思います。
 

Re: ありがとう!

 投稿者:比々き  投稿日:2019年 4月13日(土)11時26分16秒 softbank060148116079.bbtec.net
返信・引用
  > No.5115[元記事へ]

> 比々きさん、ありがとう。
> ちょっと強引な取り合わせでしたが、久々の金曜日で嬉しいです。

今見たら「一句一遊」も金曜日、W金曜日の快挙、こちらもおめでとう!
 

ありがとう!

 投稿者:トポル  投稿日:2019年 4月13日(土)10時21分42秒 42-147-96-133.rev.home.ne.jp
返信・引用
  比々きさん、ありがとう。
ちょっと強引な取り合わせでしたが、久々の金曜日で嬉しいです。
 

「サイネリア」地選、トポルさんおめでとう!

 投稿者:比々き  投稿日:2019年 4月12日(金)11時19分13秒 softbank060148116079.bbtec.net
返信・引用
   除光液の臭ひの隅にサイネリア トポル

常々組長も「五感+第六感」でと仰ってますが、五感のうち視覚、嗅覚、Wで訴えたのが功を奏したんですね!

「除光液」と「サイネリア」の取り合わせも、意外性があって新鮮。

人選2句と合わせて3句入選も、おめでとう!です。

 

Re: 春光戦

 投稿者:比々き  投稿日:2019年 4月 5日(金)13時20分35秒 softbank060148116079.bbtec.net
返信・引用 編集済
  > No.5112[元記事へ]

> 比々きさん、今晩は!
> 『プレバト!』録画で先ほど拝見しました。
> お題を見た瞬間「村上得意そう」と思いました(笑)。


めぐるさん、こんにちは!
彼は短歌もやっているので、元から言葉に対する感性が鍛えられていて、短歌との比較で、俳句は何を詠むものなのか、どのように詠むものなのかの呑み込みが、やっていない人よりしっかり解っている、そんな気がします。
推敲する時間もたっぷりあったようなので、それも幸いしたかも(笑)

また、毎月宗旨の異なる色々なところの句会に参加して、そこで見聞きし、学んだことも、今回の句にきっと反映されたのでは。

彼を尊敬している鈴木光ちゃんが遠からずコツを呑み込むでしょうから、来季は手ごわいライバルになるでしょうね。


> 梅沢さんも暖かい拍手を送っておられましたね。


そこがおっちゃんの愛されるところ。
慢心は演技で、実は内心では、意外と戦々恐々としているのでは(笑)

人の顔色や空気を読むことに神経疲れして、本音を言うのをつい我慢しがちな今の人たち。
そういう人にとって、梅沢さんの、人の顔色や空気を読まない傍若無人で、お茶目な言動は、ガス抜きにもなっているでしょうし、きっと羨ましいはず。
プレバトを見て、こういう常識を軽々と乗り越え、のびのびと言いたいことを云う大人もアリなんだと、俳句人口だけでなく、突き抜けた俳人格を持った大人が増えていけばいいな~、などとと思ったりしています。


> 私は横尾くんの句が一番好きでした~~~、「八重桜」効いていますね!
> なんか泣きそうになりました。


句に籠めた思いの深さでは、一番でしたね。


> 「銀漢亭」素敵なところですね!!大人の句会、憧れます!!


お客さんの8割は俳句関係者なのだとか。
平日のみの営業なのですが、是非一度行ってみたいところ。

村上さんには、新宿歌舞伎町の砂の城でやっている北大路翼さんの屍派の句会にも、いつか是非参加してほしいと思っています。

 

春光戦

 投稿者:めぐる  投稿日:2019年 4月 5日(金)02時22分8秒 101-142-238-241f1.osk1.eonet.ne.jp
返信・引用
  比々きさん、今晩は!
『プレバト!』録画で先ほど拝見しました。
お題を見た瞬間「村上得意そう」と思いました(笑)。
梅沢さんも暖かい拍手を送っておられましたね。
私は横尾くんの句が一番好きでした~~~、「八重桜」効いていますね!
なんか泣きそうになりました。

「銀漢亭」素敵なところですね!!大人の句会、憧れます!!
 

フルポン村上の俳句修行@銀漢亭

 投稿者:比々き  投稿日:2019年 4月 4日(木)23時46分38秒 softbank060148116079.bbtec.net
返信・引用 編集済
  プレバト春の「春光戦」で見事優勝したフルーツポンチ村上さん。
今回は、かの有名な神保町銀漢亭での句会。
ここは、是非一度行きたいと、私が前から目を付けていたところ。

https://blogs.yahoo.co.jp/imaimamama/62627011.html?__ysp=6YqA5ryi5LqtIOelnuS%2FneeUug%3D%3D

年配のベテランに混じって、さて結果はいかに。
詳細は、以下で。

https://book.asahi.com/article/12261026

 

虚子と秋櫻子

 投稿者:比々き  投稿日:2019年 4月 1日(月)17時36分20秒 softbank060148116079.bbtec.net
返信・引用 編集済
  『新興俳句アンソロジー』、及び近代俳句の周辺をあれこれ逍遥して、思ったこと。

生きているということは、変わり続けること、同じではいられないということ。

虚子は、一見変わり映えのしない平凡な日常や自然界の中にも、「生きている」証である小さな変化があり、多くの人がともすれば見逃すその些細な変化、それを「観察」によって見つけることに意義と喜びを感じ、満足できる、そういうどちらかと言えば恬淡無欲な体質だったのだと思う。

また、俳句の裾野を広げ、普及するには、自然と日常が素材であれば、特別な教育も教養もいらないので、一般庶民もとっつきやすいだろう、そう考えたかもしれない。

一方、虚子より18歳若く、東大出の医者で、教養に溢れていた秋櫻子は、変り映えのしない日常の些細な変化や自然を詠むことに物足らなさを感じ、「庶民の文芸」ではなく、もっと尊敬と憧憬の対象となる「文学」に、俳句を格上げしたかった。

でもそれでは、一部の教育、教養のあるインテリ層には受け入れられても、庶民には手の届かない、敷居の高いものになる。

敷居を低いものにして、俳句の裾野を広げたい虚子には、だから秋櫻子の目指す句は、素直にウンとは言えるものではなかった。

俳句の裾野を広げ、教育の有る無し、教養の有る無しにかかわらず、誰でも参加できる「庶民の文芸」にしたかった虚子。

個人として人を瞠目させ、「文学」作品として尊敬と高い評価を得たかった秋櫻子。

自然の一部として、人間を他の動植物より優位に置かなかった虚子。

西欧の価値観を強く意識していた秋櫻子は、もしかしたら無意識の内に人間優位の西欧的自然観の影響を受けていたかもしれない。

自然=人間、自然<人間。

たぶん二人の齟齬は、こんなところにあったのではないだろうか。

実は虚子も、子規から(俳句分類などの仕事を引き継ぐ)後継者になって欲しいと言われ、それがどうしても受け入れられず、最後は自分の心の声に従うほうを選び、申し出を断った。

秋櫻子も、虚子の俳句観とその目指す方向性に疑問を持ち、結果的に自分の心の声に従った。

自分の嘘偽りのない心の声に従ったという点では、二人は全く同じである。

時々刻々、時とともに、人は生きていれば変わらざるを得ない。
その時、その時の自分の本心と向き合い、その本心の指し示すほうへ迷わず舵をきる、それによって友情に罅が入り、決裂することになっても、情実に負けない。
作品以上に、こういう生き方、生きる姿勢そのものが、実は「俳句」なのではないか。

作品は、そういう作者の生きざまの反映に過ぎない。
北大路翼さんもこう言っている。

「技術だけ勉強しても無駄だよ。まずは自分を磨くことが俳句上達の近道だ。生き様が俳句になっている人を俳人と呼ぶ。」(『生き抜くための俳句塾』11p)


 

「俳句王国がゆく」投句募集中

 投稿者:比々き  投稿日:2019年 3月30日(土)22時19分48秒 softbank060148116079.bbtec.net
返信・引用
  4月からリニューアルするEテレ「俳句王国がゆく」。
組長選で俳句を募集しています。
結果はホームページでも発表されるとのこと。

兼題は「上がる↑下がる↓」。
気持ちや気分が思わず「上がった・下がった」エピソードを詠み込んだ句、だそうです。

詳細はこちらから。
https://www4.nhk.or.jp/haiku/

応募フォーム
https://cgi2.nhk.or.jp/prog/form.cgi?p=P240&tb=f2&f=P240

次回放送は、4月21日(日)午後2:30~3:13です。





 

Re: 描写と説明の違いについて

 投稿者:比々き  投稿日:2019年 3月25日(月)18時43分35秒 softbank060148116079.bbtec.net
返信・引用 編集済
  > No.5107[元記事へ]

>  一口に「(ボールを)打つ」といっても、これだけのニュアンスの違いがあります。そのニュアンスの違いこそ、俳句でいうところの「作者の実感のこもった描写」ということになるのではないか、と自分なりに考えてみました。


おっしゃるとおりですね!

自分の五感+第六感が感じとった「微妙なニュアンス」、それを、どうしたら読者にも共有してもらえるだろうか?

そこの工夫が、俳句を俳句たらしめている、そんな気がします


>  ところで、中断していた“裏プレバト”も、最近再開しています(苦笑)。以前よりも更新頻度を速くするため、かなりシンプルな造りにしました。また、「プレバト!!」で生まれた名句も、毎回紹介しています。
>
>  人様の参考になるというよりも、自分自身が勉強になっていますね(笑)。


経験から、「書く」という作業は、ただ読むだけより、はるかに記憶の歩留まりをよくするだけでなく、「発見」や「気づき」を促す、そういう大事な働きをするのでは、と思っています。

南風の記憶さんも、続けるうちに、俳句のコツが知らぬ間に身についていく、そんな気がします。

これからは、「描写の工夫」、そこに注目しながら、ブログを楽しみに読ませて頂きますね!

 

描写と説明の違いについて

 投稿者:南風の記憶  投稿日:2019年 3月25日(月)00時18分28秒 ai126244151245.61.access-internet.ne.jp
返信・引用
   比々きさん、皆様こんばんは。

 比々きさん、私の紹介した『俳句 -人生でいちばんいい句が詠める本-』を取り上げてくださり、ありがとうございます。私自身、まだ内容を消化しきれたとは言い難いのですが(汗)、自分なりに考えたことを少し。

 ご承知の通り、私は今野球小説を書いています。野球ですので、バッティングの場面を書く必要があるのですが、私は意図的に(ボールを)「打つ」という表現を使いません。同じ「打つ」でも、表現したいニュアンスが場面ごとに変わってくるからです。

 例えば、次のような表現になります。

・弾き返す……飛んでいくボールに焦点を当てたい時。

・捉える……ボールがバットの芯に当たった瞬間に焦点を当てたい時。

・振り抜く……ボールよりも、バットの動きと打者の動作に焦点を当てたい時。


 一口に「(ボールを)打つ」といっても、これだけのニュアンスの違いがあります。そのニュアンスの違いこそ、俳句でいうところの「作者の実感のこもった描写」ということになるのではないか、と自分なりに考えてみました。

 ところで、中断していた“裏プレバト”も、最近再開しています(苦笑)。以前よりも更新頻度を速くするため、かなりシンプルな造りにしました。また、「プレバト!!」で生まれた名句も、毎回紹介しています。

 人様の参考になるというよりも、自分自身が勉強になっていますね(笑)。

https://stand16.hatenablog.com/

 

Re: 【俳壇時評】俳句の分かりやすさ 

 投稿者:比良山  投稿日:2019年 3月23日(土)08時34分42秒 sp49-106-213-48.msf.spmode.ne.jp
返信・引用
  > ただ作り手の中には「難解なのが詩」と思い込み、詩人気どりで、わざと分かりにくく表現する輩もいるようなので、そこは注意深く峻別する必要があるかもしれませんね。
>
> 私の場合、「一読すぐわかる」句や「なにを言おうとしてるんだか、さっぱり見当がつかない」句より、「わかりそうで、わからない。わからなそうで、なんとなくわかる」句、手を伸ばせばギリギリ届きそうな句、そんな微妙な句に魅かれます。
> 言い換えれば、読み解く意欲に火を付けない句より付ける句かな。
>
>
> > 以上ですが、最後の部分は俳人の目線での意見ですからさすがに私には高度過ぎて
> > 完全には理解できません。正直言って私の鑑賞力では例えば俳句ポストの「天」や「地」の句に理解できないものが多くあり、ましてやこれが理解できなくては自分に「天」や「地」の句が詠めるはずもないと半ば諦めの境地で投句しているのが現状です。著者の言う俳句の「大衆化」のおかげで俳句らしきものを曲がりなりに作って投句して時々選をいただいて一喜一憂しているわけでして。
> > この著者の憂いが本当にわかる日が私には来るのでしょうか?(笑)
>
>
> 鑑賞をやっていると、最初は解らなくても、「書いているうちに」解ってくることがしばしば。
> 一読して「わかる・わからない」と決めつけるのではなく、解らないながら、「ああかな、こうかな」と、とにかく「書いてみる」。
> 830人ほどの句を鑑賞してきた経験から、「わかる」ためには「書く」という作業は欠かせない、と感じています。
>
> 是非比良山さんにも、「読む」だけでなく、鑑賞文を「書いてみる」、そのことを強くお勧めしたいと思います!
>
比々きさん。早速のアドバイスありがとうございます。
俳人や評論家の先人の句の鑑賞文は出来るだけ読みたいと思っていましたが、自分で書いてみるということは考えにも及びませんでした。もっとも、お世話になっています「るるる句会」では出来るだけ全句選評を書くようにしていますがわからない句は鑑賞力不足を言い訳にしてなおざりにしてしまい、礼を失することが多いです。これからは多作多捨多作鑑賞文に努めたいと思います。
 

Re: 【俳壇時評】俳句の分かりやすさ 

 投稿者:比々き  投稿日:2019年 3月23日(土)00時38分50秒 softbank060148116079.bbtec.net
返信・引用 編集済
  > かねてから俳句について分かりやすさについて気になってはいたのですが、
> 自分が選句する場合どうしても分かりやすい句に目が行きがちで
> 俗に言うわかりにくい句については自分の鑑賞力の限界かと敬遠してしまい
> がちでした。そんな中、俳句の分かりやすさについての記事を見つけました。


比良山さん、いつもながら有益な記事のご紹介、ありがとうございます。

私も今「新興俳句」繋がりで俳句の「近代」について調べている中で、丁度長谷川櫂さんの『俳句の宇宙』(中公文庫)2回目を読み終わったところ。
まさにこの本の序章、1、2章で述べていることも、その点でした。

俳句が「わからない」理由には、主に3つあると言われています。

「俳句質問箱」(3番目「俳句を読んでも、よく分らないのですが」参照)
http://www.geocities.jp/haikunomori/faq.html#q03

・作者に責任がある場合
・読者に責任がある場合
・両者の間に縁がなかった場合

それに付け加えて長谷川さんがあげているもう一つの理由は、

・「場」を共有できない場合

長谷川さんも芭蕉の「古池や蛙飛びこむ水のおと」を初めて聞いたとき「芭蕉という人は、いったい、何が面白くてこんな句をよんだのだろうと不思議に思った。」(7p)のだそうです。

> 内容が分かりやすければ、その句の「よさ」も当然分かりやすいもの、

とはならなかったんですね。

長谷川さんはその理由を次のように述べています。

《この句を初めて読んだとき、何かもどかしかったのは、古池の句をとりまいていたはずの当時の「場」の大半が、『古今集』の歌も、其角の進言も、山吹も、長い年月のかなたに飛び去ってしまっていて、即座に芭蕉や其角たちがいた「場」に参加できなかったからだ。支考の『葛の松原』に出会わなければ、このもどかしさは、いつまでも解けなかっただろう。》(10p)

《芭蕉の古池の句は、もともと当時の俳諧という「場」に深く根ざしたものだった。時間とともに、その「場」が失われてしまうと、この句が本来もっていた和歌や当時の俳諧に対する創造的批判という意味が見えなくなってしまった。》(同)

《そして、残ったのは、古池にカエルが飛びこんで水の音がした―――ただ、これだけである。(中略)
 それではなぜ、「古池に蛙の飛込む音を聞きたり」という部分だけが残ったのか。
 それは今でも芭蕉の時代と同じように古池がありカエルがいるからである。
 当時の俳諧という「場」が時間のかなたに失われてしまうとともに、そこに根ざしていた古池の句の創造的批判という部分は消えてなくなってしまったが、古池やカエルのような今も変わらずある自然という「場」に根ざした部分だけは残った、といえないだろうか。》(11p)

《古池の句は、俳句には十七字の言葉のほかに、言葉にならない「場」というものがあって、俳句の言葉は「場」を前提にしているということを教えてくれる。》(同)

《そして、俳句がわかるには、俳句の言葉がわかるだけでなく、その俳句の「場」がわからなければならない。俳句の「場」に参加しなければならない。いいかえると、俳句が通じるためには、作り手と読み手の間に「共通の場」がなければならない。
 俳句にとっては言葉と同じくらい、言葉以前の「場」が問題だ。そして俳句を読むということは、その「場」に参加することなのだ。》(12p)

《 桔梗(きちこう)の花の中よりくもの糸

素十のこの句を初めて見たときから、よくわかったのは、そんな少年の日のキキョウやクモの記憶があって、素十がキキョウを見ている「場」へすぐに行けたからだ。(中略)この句の「場」であるキキョウやクモのいる自然が今のところ、どこにでもありふれた空気のようなものだからだ。(中略)
 もし将来、キキョウという種が滅び、人々の記憶から消えてしまう日が来れば、この句はだれにもわからない句になる。(中略)
 だが、そこまで考えなくても、キキョウの花を見たこともない外国人なら、たとえこの句の言葉が読めたとしても、何のことかわからないだろう。それと同じで、自然破壊や都市化がこのまま進み、キキョウの花を知らない子供や大人が増えれば、この句の通じる範囲はそれだけ狭くなる。》(14、5p)

《この句はキキョウやクモを知っている人ならだれにでもわかるし、またキキョウやクモが地上にある限り、半永久的に人々にわかる。
 それは、この句が自然以外のものを何も「場」にしていないからだ。この句は『古今集』の歌のようなものを前提としていない。(中略)時代背景からも完全に切れている。
(略)この句の強さは、おそらく句の「場」から自然以外の不純物をすべて削り落としているところにあるのだろう。(中略)
 どこにでもある自然だけを俳句の「場」にしようとしたこと―――そこに子規以降、近代俳句のひとつの巧知をよみとることもできる。》(16、7p))

《俳句の言葉は、自然や人生といった「場」の上でプラズマのように活性化する。これは俳句が紛れもなく言葉でありながら、言葉だけでできているのではないということである。
 ここが俳句の他の文芸といちばん違うところ、いわば俳句の俳句性の根ではないだろうか。(中略)
 俳句は「俳句」としか呼びようがない。
 俳句に対する勘違いの多くは、俳句は言葉だけでできている、一行の詩である、という思い込みから出発している。
 ことに俳句の近代は、言葉が自然や人生といった「場」と一体になって働く俳句の独自性などお構いなしに、たとえばワイルドの芸術至上主義のような欧米の文学理念を無理に俳句に押しつけて、俳句というものを理解しようとしてきた。
 俳句を西欧流の「芸術」にまで押し上げるためにはそうせざるをえなかったのだ。その結果俳句の独自性は無視しなければならなかった。俳句が「場」のような言葉以前のものをひきずっていることが恥ずかしかったのだ。》(38、9p)

《「場」を認めない、一行詩としての俳句がどういう形をとるか、それは大きく分けて、二つしかないだろう。
 言葉は本来あいまいなものであり、あいまいな言葉を活性化するのは文脈と「場」しかない。そこで「場」を認めないとすれば、文脈に依存するしかない。つまり、叙述し説明する俳句。これが第一のタイプ。
(中略)
 次に、「場」を認めない俳句が文脈にも依存しないとすれば、その俳句の言葉はあいまいなまま留まるしかない。これが第二のタイプ。
(略)読み手との間の、たとえば自然のような「共通の場」を認めないから、他の人には意味あり気な言葉の羅列としか見えない、難解な句だ。》


舌足らずな「説明」になるか、「意味ありげな言葉の羅列」になるか、いづれにしても「わからない」句になることは必至。

長谷川さんは、西欧に対する「劣等感」から、西欧に追いつけとばかりに、近代俳句が追い求めてきた、西欧の詩の亜流のような俳句を、西欧はむしろ認めないだろう。むしろ日本という「場」と一体となった、特殊性、土着性、固有性、オリジナリティが前面に出た俳句、それこそを、他に類を見ない唯一無二のものとして認めるだろう、と言っています。


>  分かりやすさを求めることは、不特定多数の人々が理解できるレベルで句を詠め、ということを含意している。その結果、俗情俳句が増えるだけではない。俳句のいわば切り詰めが生じる。すなわち俳句の持っている豊かさが、切り詰められるのではないか。その豊かさとは、わかりやすく分析的に説明することの難しいもの、混沌としたもの、分析するとその面白さが消滅してしまうようなものである。これらが俳句の世界から、駆逐されてしまわないことを願う。(完)


ただ作り手の中には「難解なのが詩」と思い込み、詩人気どりで、わざと分かりにくく表現する輩もいるようなので、そこは注意深く峻別する必要があるかもしれませんね。

私の場合、「一読すぐわかる」句や「なにを言おうとしてるんだか、さっぱり見当がつかない」句より、「わかりそうで、わからない。わからなそうで、なんとなくわかる」句、手を伸ばせばギリギリ届きそうな句、そんな微妙な句に魅かれます。
言い換えれば、読み解く意欲に火を付けない句より付ける句かな。


> 以上ですが、最後の部分は俳人の目線での意見ですからさすがに私には高度過ぎて
> 完全には理解できません。正直言って私の鑑賞力では例えば俳句ポストの「天」や「地」の句に理解できないものが多くあり、ましてやこれが理解できなくては自分に「天」や「地」の句が詠めるはずもないと半ば諦めの境地で投句しているのが現状です。著者の言う俳句の「大衆化」のおかげで俳句らしきものを曲がりなりに作って投句して時々選をいただいて一喜一憂しているわけでして。
> この著者の憂いが本当にわかる日が私には来るのでしょうか?(笑)


鑑賞をやっていると、最初は解らなくても、「書いているうちに」解ってくることがしばしば。
一読して「わかる・わからない」と決めつけるのではなく、解らないながら、「ああかな、こうかな」と、とにかく「書いてみる」。
830人ほどの句を鑑賞してきた経験から、「わかる」ためには「書く」という作業は欠かせない、と感じています。

是非比良山さんにも、「読む」だけでなく、鑑賞文を「書いてみる」、そのことを強くお勧めしたいと思います!

 

【俳壇時評】俳句の分かりやすさ 

 投稿者:比良山  投稿日:2019年 3月22日(金)14時54分40秒 sp49-104-16-211.msf.spmode.ne.jp
返信・引用
  比々きさん。いつも有意義な記事の掲載ありがとうございます。
いつも拝見させていただいております。
今年の俳壇4月号でおもしろい記事を見つけましたので久しぶりに書き込みさせて
いただきます。
かねてから俳句について分かりやすさについて気になってはいたのですが、
自分が選句する場合どうしても分かりやすい句に目が行きがちで
俗に言うわかりにくい句については自分の鑑賞力の限界かと敬遠してしまい
がちでした。そんな中、俳句の分かりやすさについての記事を見つけました。
以下、タイトルは俳壇時評「俳句の分かりやすさ」中村雅樹氏 俳壇2019年4月号P38-39から抜粋しております。

【冒頭】
最近はとかく分かりやすさが求められることが多い。政治経済の複雑な問題を、わかりやすく解説することで定評のある評論家もいる。大学においても、難しいことをわかりやすく説明する力がないと、学生からも高評価は得られない。俳句においても同様であろう。誰にでもずっと分かるような句を詠むことが、多くの結社において、作句の際の基本と考えられているようだ。(略)
【四つの分類】
①内容がよく理解できるし、その句の「よさ」もよく分かる。
②内容はよく理解できるが、その句の「よさ」が分からない。
③内容は十分理解できないが、その句の「よさ」は何となく分かる。
④内容も理解できないし、その句の「よさ」も全くわからない。

本来、分かりやすい句というのは、多くの場合①の句のことであり
分かりにくい句というのは、④の句の場合であろう。
 言うまでもなく、この分類は、内容の理解と「よさ」の理解とは別物である。という前提のもとでの分類である。もちろん、「よさ」が分かるためには、その句の内容の理解は欠かせない。両者が無関係であると言っているわけではない。ただここで混乱が生じる。内容が分かりやすければ、その句の「よさ」も当然分かりやすいもの、と考えられがちになるということだ。その結果、分かりやすい「よさ」が氾濫する。かつて藤田湘子は口うるさく「俗情」を排斥したが、例えば、その「俗情」と結託したような「よい」句が氾濫するのである。
 分かりやすい句が求められるようになったのには、理由がある。一言で言えば
俳句の大衆化である。(略)

【著者が言いたい問題点】
(略)虚子が「花鳥諷詠・客観写生」と旗幟を鮮明にしたことは、当時のエリートのみならず一般大衆に俳句を広めるうえで、実に画期的なことであった。「大衆文学」
という言葉が定着する一方で、俳句の大衆化に勢いがつくというのも、全くの偶然ではないであろう。
 皆さんがよく知っている、春夏秋冬の自然を詠みなさい。その自然に従いながら生きている、わたしたちの生活を詠むんですよ。難しいことを言ってはいけません。自分の理屈や思い込みを先に立てて詠むのではなく、あるがままの対象をよく見て、素直に詠みなさい。特別な才能や教養はなくても大丈夫です。俳句は誰でも詠むことができます。
 もちろん、「花鳥諷詠・客観写生」のモットーのもと、名句ばかりが生まれるわけではない。②の句ばかりが増えるに決まっている。詠まれている内容は、よく理解できるのであるが、その句の「よさ」があるのか、ないのか分からない、というような句である。事実を述べているだけの平浅な只事俳句の氾濫である。
 しかし、いっそう問題なのは、①の句の多くの部分を、俗情に基づく分かりやすい「よい」句が占める、ということではないだろうか。これは何も「ホトトギス」に限らない、俳句が大衆化すると、必ず起こる傾向であろう。このような句は、分かりやすいだけに人々の心をも摑みやすい。現代の俳句が抱える問題の一つはここにあるように思われる。
 分かりやすさを求めることは、不特定多数の人々が理解できるレベルで句を詠め、ということを含意している。その結果、俗情俳句が増えるだけではない。俳句のいわば切り詰めが生じる。すなわち俳句の持っている豊かさが、切り詰められるのではないか。その豊かさとは、わかりやすく分析的に説明することの難しいもの、混沌としたもの、分析するとその面白さが消滅してしまうようなものである。これらが俳句の世界から、駆逐されてしまわないことを願う。(完)

以上ですが、最後の部分は俳人の目線での意見ですからさすがに私には高度過ぎて
完全には理解できません。正直言って私の鑑賞力では例えば俳句ポストの「天」や「地」の句に理解できないものが多くあり、ましてやこれが理解できなくては自分に「天」や「地」の句が詠めるはずもないと半ば諦めの境地で投句しているのが現状です。著者の言う俳句の「大衆化」のおかげで俳句らしきものを曲がりなりに作って投句して時々選をいただいて一喜一憂しているわけでして。
この著者の憂いが本当にわかる日が私には来るのでしょうか?(笑)
 

Re: 俳句に“少し慣れてきた方”にオススメです。

 投稿者:比々き  投稿日:2019年 3月14日(木)14時36分47秒 softbank060148116079.bbtec.net
返信・引用 編集済
  > No.5098[元記事へ]

>  最近、八木健先生の監修による『俳句―人生でいちばんいい句が詠める本―』(主婦と生活社)を書店にて購入し、読んでいます。この本は、俳句の大事なポイントがコンパクトにまとめられていて、俳句歴の浅い方にも読みやすい構成となっています。


読んでみました。
これ、今まで読んだ入門書の中で、私的にはベスト1です。
これ1冊あれば十分、というような中身の濃さ。
しかも、今までの「ことばでごちゃごちゃ説明した」アカデミックな入門書と違い、おそろしく分かりやすい!

「百聞は一見に如かず」と言いますが、要所要所が絵で図解してあるので、難なく頭に入ってきます。
井上ひさしの「「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく、おもしろいことをまじめに、まじめなことをゆかいに、そしてゆかいなことはあくまでゆかいに」を地でいっています。


>  もっとも、俳句の“ハの字”も知らなかった半年前にこの本を読んでいたら、細かすぎて難しく感じてしまったかもしれません。多少、俳句をかじってきてた今だからこそ、理解できます。


見かけはものすごく分り易く書かれているので初心者向きのようですが、テクニックだけでなく、俳句のこころ、俳句とは何ぞやがきちんと押さえられているので、句歴を重ねた人でも、ここに立ち戻ればいつでも軌道修正できる、そんな作りになっています。


>  個人的には、「写生と説明の違い」についての解説が、とても腑に落ちる内容でした。他にも、“分かりそうで分からない”または“分かったつもりになりがち”な部分について、的確に押さえられています。


「写生と説明」、どう違うのか?
42p
「虚子が言った客観写生とは、感動を直接表現するのではなく、感動の中心を具体化し、単純化して描き出すことです。」

例:
【説明】しやぼん玉無邪気にとばす子ども心
【写生】しやぼん玉追ひかけとびつき子どもたち

【説明】しやぼん玉小さく低く浮いている
【写生】しやぼん玉ふはふは地面すれすれに


「とりあわせ」も絵で図解してあるので、「なるほど、ただAとBをとりあわせただけではダメなのね。AとBが地下水脈でつながっている、それがコツなのね」と、初心者でも一目で分るようになっています。

例(実際は絵になってます):おそるべき君等の乳房夏来る 西東三鬼

(A)おそるべき君等の乳房/(B)夏来る
       (A)躍動感/(B)暑さ
共通項  (A)エネルギー/(B)エネルギー


と、こんな具合。
見開き2ページに要点が例句とともにまとめられているので、引きやすいことダントツ。

オススメです!


 

池田澄子×佐藤文香

 投稿者:比々き  投稿日:2019年 3月12日(火)16時14分48秒 softbank060148116079.bbtec.net
返信・引用 編集済
  堀井鶏の句を捜していて、偶然見つけました。
お二人の対談は前にもご紹介しましたが、これも又、おもしろい!
是非お読みになってみてください!

https://sheishere.jp/interview/201808-ikedasato/

心に留まった言葉を、一部抜粋、転載。

《視点がずらされ、目の前の景色がゆさぶられる感覚。知っている言葉の組み合わせなのに、たった17音に脳内がかきまわされていく。》

《共感ではなく驚嘆の視点が大切》

《ものの見方によって世界の認識が変わる》

《佐藤:私は面白いことしたいとは思っていたけど、書きたいと思っていたわけじゃない。そして、書きたい思いがなくてもできるというのが、俳句の面白さなんです。「言葉で面白いことをしよう」とさえすれば、作品ができてしまう。》

《池田:人が何かを感じる前に、「事象」があるわけです。その事象だけを書くことで、読んだ人が自ら何かを感じてくれるんですよね。だから、つくるときには観念を込めなくても、結果的に観念や情緒はついてくるものなのです。》

《池田:とある一場面を切り取った断面だったはずが、永遠の主題になることがあるんですよね。その刹那が永遠とつながると、名作になるわけです。》

《佐藤:私は書きたいものはそのときによって変わりますけど、自分が「あっ!」って思った空気感を捉えたいというのは一貫しているかな。》

《佐藤:あと、私の場合は、俳句を始めた中学生の頃から、目の前のものはどうしたら、これまでなかった見方ができるだろう? と考えていました。》

《池田:たとえば桜がはらはら舞って儚くてきれいだなあと思うのは当たり前。それを意識的に捨てるんです。根性悪いですよね(笑)。》

《佐藤:やりたいのはみんなの共感を集めるのではなく、びっくりさせること。言われるまで思ってもみなかったけど、確かにそうだ! と感じてもらえるものをつくりたいです。》

《池田:はじめに書いたものが、推敲してどんどん変わっていって、違う句になったときにようやく本心が出てきます。「あ、私こういうこと書きたかったんだわ」って。そうなったときが完成です。》

 

書斎訪問&俳人インタビュー

 投稿者:比々き  投稿日:2019年 3月12日(火)15時12分0秒 softbank060148116079.bbtec.net
返信・引用
  出版社「文學の森」の結社の主宰へのインタビュー動画です。

https://www.youtube.com/user/bungak8194/videos?disable_polymer=1

どんなきっかけで俳句の世界に入ってきたのか、俳句をどういうものと捉えているか、どういう姿勢で俳句と向き合っているか、師から何を学んだか、などなど、俳句と長年格闘してこられた方々の含蓄のある言葉に学ぶこと多々。

私はちょっと集中が途切れたときなど、箸休めのように見ています。
オススメです。

 

『生き抜くための俳句塾』名言ツイート

 投稿者:比々き  投稿日:2019年 3月 6日(水)14時28分22秒 softbank060148116079.bbtec.net
返信・引用
  北大路翼さんの『生き抜くための俳句塾』の出版元左右社が、この中に出てくる名言を随時ツイートするアカウントを作ったようです。
よかったら是非お読みになってみてください。

生き抜くための俳句塾
https://twitter.com/Ikinuku_haiku

 

Re: 俳句に“少し慣れてきた方”にオススメです。

 投稿者:比々き  投稿日:2019年 3月 6日(水)01時02分3秒 softbank060148116079.bbtec.net
返信・引用 編集済
  >  最近、八木健先生の監修による『俳句―人生でいちばんいい句が詠める本―』(主婦と生活社)を書店にて購入し、読んでいます。この本は、俳句の大事なポイントがコンパクトにまとめられていて、俳句歴の浅い方にも読みやすい構成となっています。


八木さんは以前松山の萬翠荘館長だった時、愚陀仏庵インターネット句会を主宰しておられて、私もハイポニスト達も大勢投句していました。
特選句には八木さん自筆の俳画が付き、その絵が何とも言えない味があって大好きでした。

http://www.kokkeihaikukyoukai.net/haiku-art.html

その時のご縁で今も毎朝八木さんから俳句と川柳が3句づつメールで送られてきています。


>  もっとも、俳句の“ハの字”も知らなかった半年前にこの本を読んでいたら、細かすぎて難しく感じてしまったかもしれません。多少、俳句をかじってきてた今だからこそ、理解できます。
>
>  個人的には、「写生と説明の違い」についての解説が、とても腑に落ちる内容でした。他にも、“分かりそうで分からない”または“分かったつもりになりがち”な部分について、的確に押さえられています。
>
>  比々きさん始め、こちらの掲示板に集う“手練れ”の方々には、周知の内容かもしれませんが、私のように、そろそろ「超初心者」の域は脱して、もう一歩上に進むには……と模索している方には、かなり参考になるかと思います。


今図書館にあるか調べたら、あったので早速予約。
私も読んでみますね。

今日は北大路翼さんの新刊『生き抜くための俳句塾』が届いたので、「サイネリア」の推敲をほったらかしにしてイッキ読みしてしまいました。
彼以外には書けない超々過激な俳句入門書!一部おすそ分け。

10p
《いいか、よく聞けよ。お前らの問題は俳句の作り方がわからないことじゃないんだ。

お前らは感動の仕方がわからないんだ。

 お前らは常識に洗脳されて、何が良いのか悪いのかがわからなくなっているんだ。喜怒哀楽さえ、他人の顔色を見ないと判断できなくなってるだろ。笑いたければ笑え、泣きたければ泣け。大事なのはお前がどう感じたかなんだよ。(後略)
11p
 技術だけ勉強しても無駄だよ。まずは自分を磨くことが俳句上達の近道だ。生き様が俳句になっている人を俳人と呼ぶ。

 俳句は遊びである。それも大人の遊びだ。(後略)
 いいか、遊びっていうのは役に立たないから大事なんだよ。いかに無駄なことに有限の時間や金を使えるかで人間の価値が決まる。
16p
感じることが表現の勉強だ。覚えることではない。感じることだ。》

他にもクーラーや電子レンジは使うな、テレビも見るな、など「便利さに溺れると想像力が枯渇する」とも。

北大路さんは組長を尊敬しています。
もし本屋さんで見つけたら、是非手にとって、その本音でもの言う過激な爽やかさに、じかに触れてみてくださいね。

 

俳句に“少し慣れてきた方”にオススメです。

 投稿者:南風の記憶  投稿日:2019年 3月 4日(月)23時26分51秒 ai126244109095.61.access-internet.ne.jp
返信・引用
   比々きさん、皆さんこんばんは。

 最近、八木健先生の監修による『俳句―人生でいちばんいい句が詠める本―』(主婦と生活社)を書店にて購入し、読んでいます。この本は、俳句の大事なポイントがコンパクトにまとめられていて、俳句歴の浅い方にも読みやすい構成となっています。

 もっとも、俳句の“ハの字”も知らなかった半年前にこの本を読んでいたら、細かすぎて難しく感じてしまったかもしれません。多少、俳句をかじってきてた今だからこそ、理解できます。

 個人的には、「写生と説明の違い」についての解説が、とても腑に落ちる内容でした。他にも、“分かりそうで分からない”または“分かったつもりになりがち”な部分について、的確に押さえられています。

 比々きさん始め、こちらの掲示板に集う“手練れ”の方々には、周知の内容かもしれませんが、私のように、そろそろ「超初心者」の域は脱して、もう一歩上に進むには……と模索している方には、かなり参考になるかと思います。

 さて、愛媛新聞の青嵐俳壇にて、今週も入選させて頂きました。この句、俳句ポスト兼題「鮃」が不本意な結果でしたので、改めて詠んだ句でした。

「俎板の鮃と裁判所の我と」(入選)

 今回は、人秀さんや立志さん、青海也緒さんら、俳句ポストでも活躍中の方も入選されたようです。手練れの方と句の優劣を競うのは、プレッシャーでもあり、良い刺激にもなります(ちょっと強がりを言いました・汗)。

 ところで。比々きさんのアドバイスを受け、サイネリアに関して「心に残った光景」から句をいくつか作ってみました。後で読み返して、印象に残りそうな句も僅かながら作れたのですが……「通販生活」<マスク>の句といい、俳句ポストの「法蓮草」といい、この頃なぜか、“不穏な句”ばかり詠んでしまいます(苦笑)。

 締め切りまで僅かとなりましたが、もう少し粘ってみることとします。

https://stand16.hatenablog.com/

 

Re: いいな!いいな!

 投稿者:比々き  投稿日:2019年 3月 3日(日)21時35分0秒 softbank060148116079.bbtec.net
返信・引用
  > No.5095[元記事へ]

> 入院中、ハイポに投句できなかったので、結果を見ないでいたら、なんと比々きさんが地選!!!
> でも、天選にもなった方だから、常連さんで、今さら嬉しくもないかもなんてね。


あ~すけさん、ありがとうございます!

川柳の2018年下半期の「みどり賞」のお祝いメールを送ったのに、いつもすぐ来る返事がなく、「どうしたのかな?」と思っていたら、なんと、脳梗塞で入院していた!
いやあ~びっくり!
幸い発見が早かった、ということで退院してからすぐ返信メールくださいましたね。

今日の書き込みを見る限りでは、いつものあ~すけ節なので、その後順調に回復しているのかな。

金曜選は、やっぱりうれしいですが、ただ、以前ほどは選への執着は薄くなりましたね。
毎回ベストを尽くす、悔いを残さない、結果は神様の御心次第、という感じでしょうか。
作ること自体が、今何より楽しいので、もうそれで満足してしまっています。


> ともあれ、おめでとうございます!
> グリコのおまけでしかないとは言え、詩があることが選者に認められたことはおめでたいことです。
> 最近、鳴かず飛ばずな私ですが、いつか俳句の句集でノーベル文学賞受賞を目指して、ガンバるのです。
> そして、俳句で世界を救い、ノーベル平和賞とのダブル受賞を目指すのです。
>
> とか、バカ言ってますが、いつか金曜日にまたお目見えしたい。
> できれば、一番初めの一句で。


何かを失うとそれを補う形で、何かの能力がスイッチオンするらしいです。
交通事故で記憶を失って、退院後いきなり絵を描きたい衝動に駆られ、それまで絵心など全くなかったのに、描いたらこれが傑作で、あちこちから展示のオファーが来るようになった、そういう人を知っています。

私の勘ですが、あ~すけさんにも何かそれに類することがこれから起きるような気がしてなりません。
どんな体験も神様が起こることを許されたこと。
なので、きっと「それがベスト」なんだと思います。

あ~すけさんのこれからが、楽しみです!


 

Re: 羅刹日

 投稿者:比々き  投稿日:2019年 3月 3日(日)20時21分24秒 softbank060148116079.bbtec.net
返信・引用 編集済
  > No.5094[元記事へ]

> 比々きさん、『俳句ポスト』兼題「菠薐草」地選おめでとうございます!!
> 「法蓮草」という表記と響き合う「羅刹日」にズドンと胸を撃ち抜かれました。


めぐるさん、ありがとう!
組長は元国語の先生だったので、「羅刹日」という言葉にピピッと反応したんだと思います。


> 宗教的なイメージだけでなく、原産地の寒冷な気候にも通底している気がします。
> 寒さの中で甘くなる「菠薐草」。
> 人間も、つらいことがあってこそ円熟味を増すことが出来るのね、と思ったり。


冬に出回る「ちぢみほうれんそう」は、本当に甘いですもんね!
確かに、いい経験よりつらい経験のほうが、人の感受性を鋭く、肌理細やかにし、人の気持ちを素早く察知する能力を育ててくれますね。
そのおかげで、微妙な心の機微、感情の襞を俳句に詠むこともできる。

そう思えば、「寒さ」を与えてくれる経験や人は、恨むというより、むしろ感謝すべきこと、人たち。
そう思えるからこそ、よけい「甘く」感じるのかもしれませんね。

私くらいの歳になれば、全部「つながり」が見えてきて、どれもこれも必要で、意味のある経験だったと、心から「ありがたい!」と感謝できるようになります。
ほんと、無駄な経験なんて一つも無い!


> 自句も【人】に採って頂けましたが、比べるといかにピントが甘いかがよく分かります。
> 「勉強になるな~」なんて言いながら、なかなか「学んだ」と言える結果を残せない私(^^;
> でも、どんなに少しずつでも、自分の投句内容を濃くしていこうと思います。
> たくさん作って絞る・・・
> 何とかこの頃は「十句で【人】×2句」に手が届くようになってきましたが、
> まだまだ不安定で絞っても薄いことが多いので、もっとたくさん出すように頑張ります!


私は最低でも20句、平均3、40句は作ります。
「菠薐草」は身近な素材だったので、50句ほど作りました。
殆ど1日か2日で作り、締め切りまでに何度も見直します。
それでも、発表の時に見直すと「しまった!」「どうしてこんな句を?」と思う句が必ずあり、「まだ、まだだなあ」、と思ってしまいます。
今ではどんな兼題でも作れるという自信めいたものも生まれ、「できない」と焦ることもありません。
なにより作っている時が一番楽しい!
「鑑賞」も欠かさずやっているので、自分の句を批評的に見る眼も、少しは養われてきたのかな。

努力は裏切らないし、努力に応じた結果しか出ないので、とにかく毎回「悔いなく」が目標。
不完全燃焼のまま出すことだけはしない、と決めています。
ただ、私の一押しの句が組長になかなか採っていただけず、実は毎回「(;´д`)トホホ」なのが悲しいところ(笑)


 

いいな!いいな!

 投稿者:あ~すけ  投稿日:2019年 3月 3日(日)16時22分36秒 ai126188049201.59.access-internet.ne.jp
返信・引用
  入院中、ハイポに投句できなかったので、結果を見ないでいたら、なんと比々きさんが地選!!!
でも、天選にもなった方だから、常連さんで、今さら嬉しくもないかもなんてね。

ともあれ、おめでとうございます!
グリコのおまけでしかないとは言え、詩があることが選者に認められたことはおめでたいことです。
最近、鳴かず飛ばずな私ですが、いつか俳句の句集でノーベル文学賞受賞を目指して、ガンバるのです。
そして、俳句で世界を救い、ノーベル平和賞とのダブル受賞を目指すのです。

とか、バカ言ってますが、いつか金曜日にまたお目見えしたい。
できれば、一番初めの一句で。
 

羅刹日

 投稿者:めぐる  投稿日:2019年 3月 3日(日)16時10分5秒 101-142-238-241f1.osk1.eonet.ne.jp
返信・引用
  比々きさん、『俳句ポスト』兼題「菠薐草」地選おめでとうございます!!
「法蓮草」という表記と響き合う「羅刹日」にズドンと胸を撃ち抜かれました。
宗教的なイメージだけでなく、原産地の寒冷な気候にも通底している気がします。
寒さの中で甘くなる「菠薐草」。
人間も、つらいことがあってこそ円熟味を増すことが出来るのね、と思ったり。
自句も【人】に採って頂けましたが、比べるといかにピントが甘いかがよく分かります。
「勉強になるな~」なんて言いながら、なかなか「学んだ」と言える結果を残せない私(^^;
でも、どんなに少しずつでも、自分の投句内容を濃くしていこうと思います。
たくさん作って絞る・・・
何とかこの頃は「十句で【人】×2句」に手が届くようになってきましたが、
まだまだ不安定で絞っても薄いことが多いので、もっとたくさん出すように頑張ります!


 

Re: おめでとう!

 投稿者:比々き  投稿日:2019年 3月 2日(土)20時18分50秒 softbank060148116079.bbtec.net
返信・引用
  > No.5092[元記事へ]

> 比々きさん、
> ハイポ地選おめでとう!


トポルさん、ありがとう!


> 羅刹日なんて言葉初めて知りました。


私もごく最近知ったばかり。
「菠薐草」の句を作ってるときに、たまたま漢字を調べてたらその並びにあって、何気に意味を読んで「おおっ!」となった言葉。

虚子の句を読んでたら、ほんのちょっとでも「心が動いた」モノやコトを、片っ端から句にしているのが解ったので、「よっしゃ~わたしも!」と真似してみました。

組長も言うように、「俳句って、これでいい」んですよね!

 

おめでとう!

 投稿者:トポル  投稿日:2019年 3月 2日(土)16時45分57秒 42-147-96-133.rev.home.ne.jp
返信・引用
  比々きさん、
ハイポ地選おめでとう!
羅刹日なんて言葉初めて知りました。
 

Re: 「地」選、おめでとうございます!

 投稿者:比々き  投稿日:2019年 3月 2日(土)01時40分31秒 softbank060148116079.bbtec.net
返信・引用
  > No.5090[元記事へ]

>  比々きさん、俳句ポスト「地」選おめでとうございます!


南風の記憶さん、ありがとうございます!
「羅刹」という言葉は知っていたのですが、「羅せつの〈せつ〉ってどう書くんだっけ?」と調べて、ついでに見つけたのが「羅刹日」。
「そう、そう、こういう日ってあるよね」と思ったので、早速使ってみました。


>  組長も評しておられますが、「法蓮草」がなぜ甘く感じてしまうのか、色々と“想像してしまう”句ですね。いつもながら、恐れ入りました……と言うほかありません。「こういうふうに読者の想像を掻き立てるのか」と、私自身勉強させていただきました。


「何をやってもうまくいかない日」は、ほとんどの人が一度は体験していると思うので、「そんな気分で食べたら、自分ならどんな風に感じるだろう?」と、想像しやすかったかもしれませんね。


>  流水に花枇杷頭痛の視野撫でん 南風の記憶
>
>  あらら、見付かっちゃいましたか(苦笑)。この句のことは、ちょっと恥ずかしくて、前回あえて書かなかったのです。
>  と言うのも……お気付きになられたかもしれませんが、実はこの句、俳句ポスト「枇杷の花」の時、比々きさんの「地」選句を参考に詠ませていただいたのです(汗)。
>  ご本人に直接言うのも恐縮なのですが、中七・下五の「吐きだしてゐる樋の口」という措辞が、私にとっては鮮烈で、この句をヒントに自作のレベルを少しでも上げたいと思い、“客観写生の練習”のつもりで詠みました。


「この句をヒントに」と書いて下さっているように、先人の句を読むことが、私の場合も一番の「ヒント」、インスピレーションの源になっています。

私の場合、ネットで読むだけだとマーカー出来ないので、専ら紙媒体で読みます。
特に、アンソロジーになっているものは、1冊で何十人もの句が何千句も読めますし、マーカーも、書き込みもできるのでお得。
記憶にも残りやすいような気がします。

南風の記憶さんもお持ちの『おウチde俳句』も、マーカーしながら注意深く読むと、至る所に組長が作句のヒントを忍ばせてくださっているのが見えてくるので、一度読んだだけでしまっておくのは本当にもったいない!
是非大事なところには線を引き、何度も開いては自分の句と見比べ、自分の血肉になるまで活用してみてくださいね。


>  今募集中の兼題「サイネリア」では、ネット上に掲載の句をテキスト代わりにして、作句に当たっています。まだまだ数を作れないのが、今のチカラなのですが(汗)。


「サイネリア」が兼題だと、どうしても「サイネリア」の例句を参考にしがちですが、私の経験だと、それとは全く関係の無い句を読んでいる時でも、ヒントやインスピレーションは幾らでも浮かびます。

大事なのは、さっきの「羅刹日」のように、「自分の心がピピッと反応する」言葉やシチュエ―ションに「敏感」になること。
それを句の「核」にすること。

「自分の心が動き、惹きつけられたモノ・言葉・シチュエーション」、それが「作句動機」になっている句ほど「説得力」のあるものはありません。

上記の青嵐の入選句も、「頭痛」という南風の記憶さんの「実体験」が、単なる言葉上の「取り合わせ」ではない、そういうニュアンスを読者に伝え、感じさせている、そんな気がします。


>  以前と少し変わってきたのは、作り始めて最初の一、二句は、“凡句”と見て、躊躇なく捨てるようになったことです。「多作多捨」とまではいきませんが、「少作少捨」くらいは……という感じです。
>  俳句に関して、最近ようやく分かってきたこと。一句仕上げるのに、色々と表現を考えて「しまう」句は、表現に頼らないといけないほど、素材のチカラが弱いということ。よって、さっさと捨ててしまった方が良い。


「素材のチカラが弱い」=「作句動機が弱い」。
「心が動いたから」ではなく、南風の記憶さんがよくやる「イメージ先行で作った」から、ということなのでは?

『おウチde俳句』の30pに、組長はこう書いています。

《なぜ、ありきたりの句になってしまうか。それは、自分の目や耳や鼻を使わないで、イメージだけで俳句を作っているから》

組長おススメの「脳内吟行」や「テレビ吟行」で作るとしても、私がよくやる「頭から出まかせ」で作るとしても、自分の「心が動いた」モノ・コトだけを詠む、「感動の所在が明確」な句だけを投句する、それを心掛けるだけでも随分結果は違ってくる、そんな気がします。

「多作多捨」を推奨した波多野爽波は、最初の20句ぐらいは「凡句」だけど、とにかく駄作でもその20句をクリアしないと、「おっ」と自分でも驚くような句は出てこない、と言っています。

物を見る眼を「常識的」な視点から「俳句的」な視点に「切り替える」、いわゆる運動で言えばウォーミングアップして筋肉を温める、それからようやく走れる体、サッカーならサッカーの試合に臨める体になる、そんな感じでしょうか。

俳句も「俳筋力」や「瞬発力」で作るものなので、やはり日々の練習と、同じようにウオーミングアップが不可欠。
自分なりのトレーニングメニューを作り、地道にやり続ける、それしか上達の道はないのかもしれませんね。




 

「地」選、おめでとうございます!

 投稿者:南風の記憶  投稿日:2019年 3月 1日(金)19時06分26秒 ai126165054116.73.access-internet.ne.jp
返信・引用
   比々きさん、俳句ポスト「地」選おめでとうございます!

 組長も評しておられますが、「法蓮草」がなぜ甘く感じてしまうのか、色々と“想像してしまう”句ですね。いつもながら、恐れ入りました……と言うほかありません。「こういうふうに読者の想像を掻き立てるのか」と、私自身勉強させていただきました。

 さて……

>「青嵐俳壇」でもたびたび入選!
https://www.za-chelin.jp/article/news201902250002

 流水に花枇杷頭痛の視野撫でん 南風の記憶

 あらら、見付かっちゃいましたか(苦笑)。この句のことは、ちょっと恥ずかしくて、前回あえて書かなかったのです。

 と言うのも……お気付きになられたかもしれませんが、実はこの句、俳句ポスト「枇杷の花」の時、比々きさんの「地」選句を参考に詠ませていただいたのです(汗)。

「枇杷の花吐きだしてゐる樋の口」

 ご本人に直接言うのも恐縮なのですが、中七・下五の「吐きだしてゐる樋の口」という措辞が、私にとっては鮮烈で、この句をヒントに自作のレベルを少しでも上げたいと思い、“客観写生の練習”のつもりで詠みました。

 こちらも「人」以上なら、胸を張って「比々きさんのお陰です」と言えたのですが……申し訳ありません、力不足で(苦笑)。

>私の場合、寝起きの布団に座って先人の句を読んでいるときに、次々アイデアやフレーズが浮かんでくるので、作ろうと思った時は、とにかくメモ帳とシャープペンを傍において、起きたらすぐ先人の句を100句200句「描写」の「ここだ!」というところにマーカーを引きながら読みまくります。

 先人の句が呼び水になって、何の苦労もせずにあっという間に20句30句出来てしまうので、考えてもなかなかフレーズが浮かばない時は、この方法はお勧めです。
是非一度試してみてください。

 今募集中の兼題「サイネリア」では、ネット上に掲載の句をテキスト代わりにして、作句に当たっています。まだまだ数を作れないのが、今のチカラなのですが(汗)。

 以前と少し変わってきたのは、作り始めて最初の一、二句は、“凡句”と見て、躊躇なく捨てるようになったことです。「多作多捨」とまではいきませんが、「少作少捨」くらいは……という感じです。

 関連して、昨日次のようなツイートをしたところ、何人かのハイポニストの方が反応して下さりました。

>俳句に関して、最近ようやく分かってきたこと。一句仕上げるのに、色々と表現を考えて「しまう」句は、表現に頼らないといけないほど、素材のチカラが弱いということ。よって、さっさと捨ててしまった方が良い。

https://twitter.com/stand161/status/1101096883001290752

 自分よりもキャリアの長い方と、俳句の作り方において共感していただけるようになったのは、少し進歩した証かなと勝手に思っております(笑)。

https://stand16.hatenablog.com/

 

フルポン村上の俳句修行・東大編

 投稿者:比々き  投稿日:2019年 3月 1日(金)15時31分46秒 softbank060148116079.bbtec.net
返信・引用
  今回は「東大俳句会」のサブ句会へ。
ほとんどのメンバーが「俳句甲子園」出身者なのだとか。
岸本尚毅さん、双子の青本瑞季さん、柚紀さん姉妹、2017年「俳句甲子園」優勝の開成高校出身、個人でも「旅いつも雲に抜かれて大花野」の句で最優秀賞に輝いた岩田奎さんなど、そうそうたるメンバーに囲まれて、果たして結果は?

https://book.asahi.com/article/12172293

 

Re: こちらは一歩ずつですね……

 投稿者:比々き  投稿日:2019年 3月 1日(金)00時19分20秒 softbank060148116079.bbtec.net
返信・引用 編集済
  > No.5087[元記事へ]

>  本日発表の兼題「法蓮草」にて、前回の「うらうら」に続き、一句人選を頂くことができました。連続で「人」選に入ることが当面の目標でしたので、達成できて良かったです。
>
>  最近、俳句ポスト以上に嬉しかったのが、通販生活「よ句もわる句も」の兼題「マスク」でも、一句人選を頂けたことです。三句しか作れなかったのですが、そのうち最も好きな句を選んで頂けたので、喜びも一入でした。


よかったですね!

「青嵐俳壇」でもたびたび入選!
https://www.za-chelin.jp/article/news201902250002

 流水に花枇杷頭痛の視野撫でん 南風の記憶

元から文章を書くのが得意でお好きなようなので、俳句のコツを掴むのもきっと早い、そんな気がします。

これからの成長がとっても楽しみです!


>  二つの人選句に共通するのは、ほとんど思いつきに近い感じで詠んだ句だということ。通販生活の句に至っては、夜中に目が覚めた日、なぜか頭に浮かんだ句をメールの「下書き」に書き留めておいた句だという……ウソのような、本当の話です。


私の場合も殆どそうです。
考えて作るというより、フッと浮かんでくるフレーズをすかさず捕まえる、そんな感じです。
私の場合、寝起きの布団に座って先人の句を読んでいるときに、次々アイデアやフレーズが浮かんでくるので、作ろうと思った時は、とにかくメモ帳とシャープペンを傍において、起きたらすぐ先人の句を100句200句「描写」の「ここだ!」というところにマーカーを引きながら読みまくります。
先人の句が呼び水になって、何の苦労もせずにあっという間に20句30句出来てしまうので、考えてもなかなかフレーズが浮かばない時は、この方法はお勧めです。
是非一度試してみてください。

今日は「お~いお茶」「おウチde俳句」「カタログハウス」「野性俳壇」「金曜俳句」の締め切りが目白押し。
この方法で、昨日今日だけでトータル76句作って投句しました。


>  次は、やはり「複数句の人選」を目指します。私は、俳句自体の素質は“凡”だと思っているのですが、子供の頃から人一倍「諦めの悪い性格」です。私が唯一「俳句に向いている資質」と言えば、この諦めの悪さだけでしょうね(汗)。


「俳句を作るのに才能はいらない。唯一必要なのは【続ける】才能」なのだとか。
そうであれば、南風の記憶さんは、立派に「才能アリ!」です!
必ず花開くときが来ますから、とにかく続けてくださいね!


>  俳句を始めて早半年。喜びあり、くやしさあり、また喜びあり。道は色々でしたが、確かに一歩ずつ進んできたのだなと思います。ここから、さらに半年、一年、二年……と一歩を積み重ねていった時、どんな景色が見られるのか。それを何よりのモチベーションとし、また「一歩ずつ」進んでいこうと思っています。


「あの時止めないでよかった!」、と思う時が必ず来ます。
とにかくしつこく食らいついていきましょう!(笑)


>  比々きさんへ。ツイッター上にて、俳句関連のコメントのみならず、私のヘタな連載小説に関するコメントまでチェックいただいているようで、恐縮です(汗)。


南風の記憶さんの文章は、読者が読んで目に浮かぶように書かれているので、とっても読みやすいです。
この「客観写生」をそのまま俳句に応用できれば、見違えるように俳句も変わっていくのではないでしょうか。


>  これも俳句効果か、重複表現を削るということに以前より敏感になった感覚があります。昨日、初めて感想のコメントをいただけましたので、これを励みにまた頑張ります。


相乗効果は確実にあると思います。
また新しい記事がアップされるのを、楽しみにしていますね!

 

こちらは一歩ずつですね……

 投稿者:南風の記憶  投稿日:2019年 2月28日(木)20時08分52秒 p2044-ipbfpfx02yosemiya.okinawa.ocn.ne.jp
返信・引用
   比々きさん、皆さん、こんばんは。

 本日発表の兼題「法蓮草」にて、前回の「うらうら」に続き、一句人選を頂くことができました。連続で「人」選に入ることが当面の目標でしたので、達成できて良かったです。

 最近、俳句ポスト以上に嬉しかったのが、通販生活「よ句もわる句も」の兼題「マスク」でも、一句人選を頂けたことです。三句しか作れなかったのですが、そのうち最も好きな句を選んで頂けたので、喜びも一入でした。

 二つの人選句に共通するのは、ほとんど思いつきに近い感じで詠んだ句だということ。通販生活の句に至っては、夜中に目が覚めた日、なぜか頭に浮かんだ句をメールの「下書き」に書き留めておいた句だという……ウソのような、本当の話です。

 次は、やはり「複数句の人選」を目指します。私は、俳句自体の素質は“凡”だと思っているのですが、子供の頃から人一倍「諦めの悪い性格」です。私が唯一「俳句に向いている資質」と言えば、この諦めの悪さだけでしょうね(汗)。

 俳句を始めて早半年。喜びあり、くやしさあり、また喜びあり。道は色々でしたが、確かに一歩ずつ進んできたのだなと思います。ここから、さらに半年、一年、二年……と一歩を積み重ねていった時、どんな景色が見られるのか。それを何よりのモチベーションとし、また「一歩ずつ」進んでいこうと思っています。

 ところで……

 比々きさんへ。ツイッター上にて、俳句関連のコメントのみならず、私のヘタな連載小説に関するコメントまでチェックいただいているようで、恐縮です(汗)。

 これも俳句効果か、重複表現を削るということに以前より敏感になった感覚があります。昨日、初めて感想のコメントをいただけましたので、これを励みにまた頑張ります。
 

小3俳人・幸の実ちゃんに密着!

 投稿者:比々き  投稿日:2019年 2月26日(火)19時01分29秒 softbank060148116079.bbtec.net
返信・引用
  俳ポで家族で大活躍の幸の実ちゃん一家。
お父さんのあみまさん、お母さんのめぐみの樹さんともども、NHK松山放送の密着取材動画です。

https://www.nhk.or.jp/matsuyama/himepon/movie/movie_190225-2.html

 

Re: 『伊吹嶺』特選!

 投稿者:比々き  投稿日:2019年 2月25日(月)13時04分8秒 softbank060148116079.bbtec.net
返信・引用
  > No.5084[元記事へ]

> 比々きさん、こんばんは!
> 『伊吹嶺』2月句会、伊藤範子選の特選おめでとうございます!!
>
> 縁側は妻の書斎や風信子   比々き


めぐるさん、ありがとう!
めぐるさんも、渡辺慢房選の並選、おめでとうございます!
毎月4人の選者の、必ずどこかにめぐるさんお名前がある、これってすごいこと!
この安定感は、まぎれなく日ごろの研鑽のたまものですね。

私の句はいつも頭から出まかせで、これもその一つ。
後から考えると、別れた旦那の福島の実家には日当たりのいい広い縁側があり、それと、以前住んでいた小田急線鶴川に白洲正子、白洲次郎の住まい「武相荘」があり、そこを尋ねた際見た正子の書斎、どうもこの二つがマリアージュしてこの句が出てきたみたい。


> 何かといえば縁側に持ち込んで作業したり読書したり手紙を書いたり。
> 「妻」にとってそこは日常の生活から少し離れた、楽しめる場所なのだろうと思いました。
> 例えば洗濯物を畳むにしろ、縁側なら何だか楽しい。
> 「書斎」とはいうけれど机や椅子がある訳でなく、脚を折りたたむような小さい机をちょっと持ってきて使うような感じかなって。
> さらさらと家の中で立ち働いて、自分の時間を楽しむことも忘れない、そんな心地良い風のような「妻」。そんな人物の佇まいや日常の所作を「風信子」という表記から感じました。
>
> 比々きさんの句からは、描かれていない動きや奥行きが感じられて、想像がどんどん膨らんでいきます。素敵な句を有難うございました!!!


素敵な鑑賞、こちらこそ、ありがとう!
この句が出てきた時、私もまったく同じようなことを想像しました。

「伊吹嶺」のベテラン選者による選評付きの句会は貴重。
これからも、たまにホームランかっとばしたいです(笑)
 

『伊吹嶺』特選!

 投稿者:めぐる  投稿日:2019年 2月25日(月)02時15分24秒 101-142-238-241f1.osk1.eonet.ne.jp
返信・引用
  比々きさん、こんばんは!
『伊吹嶺』2月句会、伊藤範子選の特選おめでとうございます!!

縁側は妻の書斎や風信子   比々き

何かといえば縁側に持ち込んで作業したり読書したり手紙を書いたり。
「妻」にとってそこは日常の生活から少し離れた、楽しめる場所なのだろうと思いました。
例えば洗濯物を畳むにしろ、縁側なら何だか楽しい。
「書斎」とはいうけれど机や椅子がある訳でなく、脚を折りたたむような小さい机をちょっと持ってきて使うような感じかなって。
さらさらと家の中で立ち働いて、自分の時間を楽しむことも忘れない、そんな心地良い風のような「妻」。そんな人物の佇まいや日常の所作を「風信子」という表記から感じました。

比々きさんの句からは、描かれていない動きや奥行きが感じられて、想像がどんどん膨らんでいきます。素敵な句を有難うございました!!!
 

虚子と秋櫻子

 投稿者:比々き  投稿日:2019年 2月23日(土)14時00分3秒 softbank060148116079.bbtec.net
返信・引用 編集済
  今「新興俳句」勃興の端緒となった、秋櫻子の「ホトトギス」脱退の経緯をいろいろ調べているのですが、これまでに見えてきたことを少しまとめておきますね。

発端は、自然を観察して詠むことに飽き足りないものを感じていた秋櫻子が、「筑波山縁起」という、もう一つの伊弉諾・伊邪那美二神の「オノゴロ島」(=筑波山)創造譚を読み、それに想を得て、想像で連作句を創作、「新風」を問うたこと。

 筑波山縁起(五句連作)

わだなかや鵜の島群るゝ島二つ
天霧らひ雄峰は立てり望の夜を
泉湧く女峰の萱の小春かな
国原や野火の走り火よもすがら
蚕の宮居端山霞に立てり見ゆ


それが、窪田空穂に私淑していた秋櫻子の短歌趣味、短歌的ロマンチシズムを反映し、雅語を用いた流麗な調子のもの、「現実」を全く反映しないものだったために、虚子に二度とこのような句は詠まないようにと釘を刺されたこと。

虚子には、俳句がその草創期に、意を決して後にしてきた和歌の雅な世界への逆行、庶民の慰藉の詩から、インテリゲンチャの衒学趣味、美意識偏重、才気誇示の詩への移行、そんな風に見えたのかもしれません。

虚子には、「自然至上主義」とでもいうべき日本が西洋に誇れる精神文化、それを伝える器としての俳句、という意識が濃厚にあり、自然を尊重し、自然から学び、生き方や、考え方がより自然に近づけば近づくほど、生きることが楽になり、いわゆる「極楽」に近づいていくという強い信念があったこと。

その「自然」には、美も醜も清も濁もあり、それをあるがまま詠むことを願っていたということ。

一方秋櫻子は、俳句をより文学臭のあるものにするために、「美」と「清」に限って詠むことを望み、「醜」と「濁」は詠むことを断固拒否したこと。

言ってみれば、リアリスト虚子とロマンチスト秋櫻子、といった構図でしょうか。

この当時の「ホトギス」には虚子の「選評」というものがなく、「何句採られたか」が絶対基準で、虚子が俳論を書き始めるまでは、それしか判断基準がなかったらしい。
句会でも「選評」など一切なく、点数だけ発表し散会したとのこと。
よくこんな状態でやってたもんだと、試行錯誤の手探り状態とはいえ、感心するやら、驚くやら。

「客観写生」も、初心者向けの手始めの修練方法として奨励されたもので、「感興」(主観)の有無にかかわらず、取り敢えず「見たままを言葉に置き換える」練習をさせたらしい。

なので、初心者ではないベテランや中級以上は「守・破・離」の「破」もしくは「離」として、「感興」(主観)込みの「客観写生」へ移行。
虚子の句に主観句が多いのは、そのせいなのかもしれません。

 

俳句百年史

 投稿者:比々き  投稿日:2019年 2月23日(土)00時46分0秒 softbank060148116079.bbtec.net
返信・引用
  「ホトトギス」のHPに、明治34年(1897)~平成8年(1996)まで、その間の俳句関連の動向、トピックスが、月単位でかなり詳しくまとめられていました。参考までに。

http://www.hototogisu.co.jp/kiseki/nenpu/100nensi/1001-top.htm

 

虚子の目指したもの

 投稿者:比々き  投稿日:2019年 2月21日(木)22時58分24秒 softbank060148116079.bbtec.net
返信・引用
  昨日今日、青空文庫で虚子の「進むべき俳句の道」「俳句とはどんなものか」「俳句の作りよう」「俳句への道」を読んで、虚子が何を目指していたのか、新傾向俳句や新興俳句が何を目指していたのか、少し解った気がします。

https://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1310.html#sakuhin_list_1

簡単に言えば、虚子はあくまでも、「小説や詩ではできないこと」をやってこそ俳句の存在価値があり、そのためには自然とその循環から目を逸らしてはいけない、自然をより深く知ることが即ち「新」を追求すること、自然を離れて癒しも、豊かな生も無い、だから「季語」に拘る、そう考えていたということ。

一方新傾向俳句や新興俳句は、「文学」として西洋と伍するためには、小説や詩と同じレベルにまで俳句を近づけたい、そのためには、花鳥風月ではなく「人間」中心、人間生活の喜怒哀楽の実相や実感を前面に押し出し、新しい時代に即応した素材や表現方法で「新」を追求すべき、「季語」も場合によっては不要、そう考えたということ。

それに対し、虚子は「小説や詩で出来ることをやるなら、敢えて俳句である必要がない。なぜ17音に拘るのか。新しく一行詩という文芸ジャンルを創って、そこでやりたいことをやればいい。俳句という名称であくまでやろうとするのは何故なのか。そこが解せない」と言って反論する。

虚子が一番危惧したのは、俳人の心が新しさや流行に目を奪われ、「自然」への関心を失い、「自然」から気持ちが離れ、気が付いたら反自然を志向してしまっている、それを恐れていたような気がします。

「自然」に学び、「自然」を志向してこそ、慰めや安らぎを得られるのに、反自然のままいくら社会改革の運動をしても、徒労に終わることの方が多く、安らぎや慰めは得られないですからね。

虚子の自然観は、人間も他の動植物も命として同等、というもの。

「自然」を軽んじ、「人間」を重んじる新傾向、新興俳句は、西洋の自然観そのもの。

両者の対立は、煎じ詰めれば「自然観」の違い、そんな気がします。




 

鑑賞の勘所

 投稿者:比々き  投稿日:2019年 2月20日(水)14時58分28秒 softbank060148116079.bbtec.net
返信・引用
  「薄氷」の句を捜していたら、「増殖する俳句歳時記」に、こんな今井聖さんの鑑賞を見つけました。
心のアンテナにピピッときたので転載しますね。

http://www.longtail.co.jp/~fmmitaka/cgi-bin/g_disp.cgi?ids=19980205,20000222,20030209,20061229,20070215,20080205,20080222,20100112,20100209,20100915,20120228&tit=%94%96%95X&tit2=%8BG%8C%EA%82%AA%94%96%95X%82%CC

《 薄氷の吹かれて端の重なれる 深見けん二

薄氷が剥がれ、風に吹かれかすかに移動して下の薄氷に重なる。これぞ、真正、正調「写生」の感がある。俳句がもっともその形式の特性を生かせるはこういう描写だと思わせる。これだけのことを言って完結する、完結できるジャンルは他に皆無である。作者は選集の自選十句の中にこの句をあげ、作句信条に、虚子から学んだこととして季題発想を言い、「客観写生は、季題と心とが一つになるように対象を観察し、句を案ずることである」と書く。僕にとってのこの句の魅力の眼目は、季題の本意が生かされているところにあるのではなく、日常身辺にありながら誰もが見過ごしているところに行き届いたその「眼」の確かさにある。人は、一日に目にし、触れ、感じる無数の「瞬間」の中から、古い情緒に拠って既に色づけされた数カットにしか感動できない。他人の感動を追体験することによってしか充足せざるを得ないように「社会的」に作られているからだ。その縛りを超えて、まさに奇跡のようにこういう瞬間が得られる。アタマを使って作り上げる理詰や機智の把握とは次元の違う、自分の五感に直接訴える原初の認識と言ってもいい。季題以外から得られる「瞬間」の機微を機智と取るのは誤解。薄氷も椅子も机もネジもボルトも鼻くそも等しく僕らの生の瞬間を刻印する対象として眼の前に展開する。別冊俳句「平成秀句選集」(2007)所載。(今井 聖) 》

 

詩の源泉

 投稿者:比々き  投稿日:2019年 2月18日(月)11時10分46秒 softbank060148116079.bbtec.net
返信・引用 編集済
  虚子没後50年記念ムック本『高浜虚子の世界』で、大峯あきらさんが「詩の源泉へ」と題して書かれた文章に、俳句を詠むうえでとても大事なことが書かれていたので、転記しておきます。

203p
《私たちはみな、何とかして虚子に採って貰おうと一生懸命であった。しかし、この句こそはと意気込んで出した自信作はたいてい見事に選に洩れた。それに反して、締切間際に追い込まれて、苦しまぎれにやっと投じた句が入選するような幸運が、しばしばあった。

 そんな経験を何べんも反復しているうちに、私は或ることを学ぶことが出来た。一座の誰も採らず、虚子の選にだけ入る句がある。そんな句は、ちょっと見たところ、どこがよいかわからないようで平凡に思える。しかし、注意して読み返してみると、作者が本当に感じたところを詠んだ句である。私たちは一句の平明さのゆえに、それを平凡な句だと思ったのだが、虚子はこの二つをはっきり識別して、決して混同することはなかった。平凡と平明とを感じ分けるという点において、虚子は誰より敏感だったのである。これはとりもなおさず、虚子が本当の詩と詩まがいとを容赦なくふるい分ける力量の持主であったことを意味する。

 詩というものは、当たり前のことを言葉で彩色して当り前でないかのように見せる技巧のことではないと思う。当りまえのことが実は当りまえでないことに驚き、その驚きが我れ知らず言葉になったものが本当の詩である。

 この宇宙の中に、不思議なことと不思議でないことの二種類の出来事があるわけではない。いたるところで、不思議な事ばかりが起こっているではないか。花の開落、鳥の去来、季節の移り、人の生死、すべて不思議である。それは当たり前のことが本当は当たり前でないという意味である。当たり前のことを当たり前としない感受性を詩という名で呼ぶのである。

 今思うと、虚子という俳人の選句は、私たち若者をいつも、詩というものが生まれる源泉へつれもどそうとしていたわけである。決して選評をしなかった虚子が、一度だけこう言ったのを覚えている。「自分が本当に感じたことを正直に言うのが、良い俳句です。」》


 
 

虚子の俳句の作り方

 投稿者:比々き  投稿日:2019年 2月18日(月)01時14分35秒 softbank060148116079.bbtec.net
返信・引用 編集済
  虚子没後50年記念ムック本『高浜虚子の世界』を読むと、虚子の俳句の作り方が書いてあって、虚子が季語の斡旋も含め「嘱目」や「事実」には全く拘っておらず、句会の「題詠」では、「記憶」や「想像」で詠んだり、「心をひいた」(昭和38年『虚子俳話』「生々流転」)もの・ことなら、大小問わず、自由自在、融通無碍に詠んだことが解ります。

◆「事実」に拘らない:103p

 冬海や一隻の舟難航す 虚子(昭和23年6月17日句会提出作 北海道白老海岸)

《句会の時に、「今頃、冬海とは何事だ」と高野素十が呟いたところ、終了後、虚子は「今日の海の荒れようは、私には、冬の海としか見えませんでした」と答えたというエピソードが伝わる。実際の季節と季節感とは別のものであるという考え方をうかがわせる。虚子の季題発想の自在さでもある。》(三村純也)

◆「写生とは発見、描写」(『虚子俳話』):104p

 一弁を仕舞ひ忘れて夕牡丹 虚子

◆「生々流転」(生命の循環)を詠む:187p

  この池の生々流転蝌蚪の紐 虚子

「まことに万物の生々流転の姿がわが心をひいた。春立ち、夏来り、秋去り、冬至る、一年の流転の忙しさが心を引く。」(『虚子俳話』)

◆想像の実感を詠む:104p

 秋天にわれがぐんぐんぐんぐんと 虚子

「虚子註 秋の高い空に登つて行く事を考へた。自分の身体が自分を離れてぐんぐんぐんぐんと登つて行くのが見える。」

 虚子一人銀河と共に西へ行く 虚子

「虚子註 夜中、眠れぬままに雨戸を開けて一人、銀河を眺めての作。私が銀河の中に吸ひ寄せられてちいさいちいさい一分子となつて無限の空際を西へ西へ行つてゐるやうな心もちがしたのであつた」

◆季題の用い方が自在:108p

 人生の颱風圏に今入りし 虚子

「颱風といふ季題にこのやうな使ひかたもあるものかと思つた。自分自身のことをいつたものか、誰かそんな年恰好の人がゐたのをいつたものか。そんな境遇の人をいつたものか。」(星野立子『虚子一日一句』)

◆実景を見ず、記憶や想像で「見たように」作る:135p

 ぱつと火になりたる蜘蛛や草を焼く 虚子

「深見けん二:虚子の句というとみんな目の前で見て作っているように鑑賞しますが、そうではないのです。兼題を出しておいて、必ず兼題も作っているんです。(中略)これは虚子の俳句を考える上で非常に大事なことですが、それがどうも今まで抜けているような気がします。(略)〈ぱつと火になりたる蜘蛛や草を焼く〉も兼題で、その時に実景は見てないと思うのです。見たように作る。想像の世界でそれを句にできるのです。目で見て、そこで作るときの触発的なすばらしさと同時に、想いをめぐらす時の飛躍がある。俳句はその作家の全人格を反映している。だから、面白いものができるのです。それができないのは作家の器量の狭さです。虚子先生はすごい器量でしたから、こういう句がたくさんあると思うのです。」

※深見けん二氏は昭和29年1月より始まった「玉藻」研究座談会で虚子の話を延べ21日間聴いた人。

 大寒や見舞に行けば死んでをり 虚子

「深見:そのときに知人が死んだという鑑賞があるけれど、これはあくまで「大寒」の題で作っているのです。そういうときの発想で家族の思い出とか、人生の思いというものがそこに入り込んでいる。」

「本井英:蛍の句にそういうのが多いですね。虚子の蛍の句は全部で五、六〇あるのですが、そのうち直接見て作っている句よりも兼題で作ったものが多い。」

「小澤實:景から発想するよりも言葉から発想するほうが多いということですか。」

「深見:いや。そういう意味ではなくて、季題が中心だということです。季題から発想していく。普通はそうでない場合があるでしょう。自分の気持ちを表すために季題を持って来るとか二物衝撃という取り合わせが非常に多いですね。そうではなくて、あくまで季題と心とを一緒にさせる。(略)目の前に見ているものでも、題詠で作るときでも、季題と心が一つになっていく過程を客観写生といっている、(略)そこを基本としていくのが花鳥諷詠の詠み方だと思うのです。」

「深見:〈桐一葉日当たりながら落ちにけり〉も題詠ですよ。いかにも見ているように作られているけれど。」

「深見:〈白牡丹といふといへども紅ほのか〉も題詠ではないかと思うんです。確かに見てはいるかもしれない、庭にありましたから。でも、これを作るときは見ていないと思うんです。」

「本井:発表した場所は大阪(大正14年5月17日)でしたね。でも作ったのはどこだかわからない。」

「深見:そう。投句しているのが咲く前ではないかと私は思っているんです。」

「小澤:実際に見ていたら作れないかもしれないですねえ。「いふといへども」なんて出てこないのでは。」

「深見:見ているとできないような句が兼題でできるような気がするのです。もう一つ〈大根を水くしやくしやにして洗ふ〉、これは丸の内倶楽部で句会していますから、見て作ってないと思います。」

「深見:題詠をしているうちに「くしやくしや」という言葉が飛び込んできたと思えてしょうがないのです。」

「深見:想像の世界の中で俳句を作るということも写生だということをね。もちろん目の前のものを凝視して、そこからすばらしいものを発見するということに基本はあるのですが、虚子の俳句の場合はそれだけではないから、あれだけ膨らみがあるという気がしてしょうがないのです。」

◆宇宙感覚を詠む:142p

 地球凍てぬ月光之を照しけり 虚子

◆些事・無意識・今まで詠まれなかった人間の姿を詠む:142p

 川を見るバナナの皮は手より落ち 虚子

「小澤:私が虚子にいちばん学んでいるところは、俳句でこんなに自由な世界が詠めるのかというところです。(略)人間の放心状態なんて誰も詠まないと思うのです。詠みえない。しかし虚子は、ふとした心の透き間を見えるかたち、すなわち川に落ちていくバナナで見せてくれる。その巧みさに驚くわけです。こんなものまで句になるのかという実験であると思います。俳句において無意識を詠むということはひとつの試みであったと思います。そこに魅かれます。その一句一句は俳句の領域を広げたと思うのです。」

「小澤:〈食ひかけの林檎をハンドバッグに入れ〉文学派の方はこういう句を否定されると思うのですが、今まで詠まれなかった人間の姿を詠んでくださったのはとても貴重ですね。」

◆時間を詠む:144p

 流れ行く大根の葉の早さかな 虚子

「本井:虚子が生涯を通じて大きなテーマとしているのは時間、時の流れです。(中略)大根の葉っぱがツッと流れてきた、そしてあるスピードで流れて行く、その距離は確実に時の流れだ。その流れを映像的に把握できた。ずーっと思い描いていた時間に対する、ある漠然とした不安とか不思議なものが、その映像で「あ、時はそれだ」と見たと思うのです。」

「深見:俳句の中で時間を詠むということは虚子の得意としたところです。」

「深見:この句は実体験として瞬間にできたと言います。その気持ちもわかる気がするのです。言葉というものが混沌としてあるなかで、ある景色を見たとき、言葉の組み合わせの中からリズムにのって一瞬にできるのが俳句だと。まさにこれはそうだと思うのです。」

◆実物とは違う別の天地を創造する:247p

「写生といふことは、只写すといふことではなくて、作者がその景色を見てその心に映じた影を描くのである。その影は実物その物とは異なつてゐるのである。これを云ひ換へると、実物を写す場合に、実物とは異なつた一つの物を造り出してそれを描くのである。されば俳句の作者は、造物者の如く、一つ一つ別の天地を創造して行くのである。」(昭和四年「写生俳話一則」)




 

ダメ押し「虚子の写生観」

 投稿者:比々き  投稿日:2019年 2月16日(土)12時30分42秒 softbank060148116079.bbtec.net
返信・引用 編集済
  十年前に出た虚子没後50年記念のムック本『高浜虚子の世界』(角川学芸出版)を読んでいるのですが、この中に虚子の「写生」を巡る言葉が幾つも引用されており、これはという言葉を、虚子への誤解を解く意味でも、ダメ押しで書き写しておきます。

「俳句も詩でありますから、我々の感情をうたふものでなければなりません。が、俳句には季題といふものが必要でありますから、その季題を通じて感情を詠わねばなりません。俳句は季題を通じて感情を詠い、また季題の刺戟を受けて感情が躍動する、つまり季題と感情とが互いに相援け合って生まれるのであります。」(昭和十年『俳句読本』)

「写生といふものは何でも目で見たものを其ままスケッチすればいいといふ風に心得てゐる人がありますが、そんな軽はずみなものではありません。」(大正三年『俳句の作りやう』)

「写生といふものは、只写すといふことではなくて、作者がその景色を見てその心に映じた影を描くのである。」(昭和四年「写生俳話一則」)

「写生をする場合に最も注意すべきことは目前の景色にのみとらはれないで常に心を天の一方に遊ばせるといふことである。」(昭和十三年「心は生々躍動してをれ」)


※これらの言葉のどこから「見たままを【主観を交えずに】記述する客観写生」という言葉が出て来るのか不思議です。

虚子造反派が自分たちの造反を正当化するためにでっち上げた虚偽の写生観、それを「それって、本当に虚子の言ったことなの?」と、虚子の実際の言葉に当たって「確認」する事もせず、ただ鵜呑みにしただけの言葉、悪く言えば、自分のこれから展開する論議の裏付けとして「利用するには都合のいい」言葉だったので故意に確認作業を怠った言葉、そんな気がします。

「真理探究の志」があれば、本にする手前で「虚子の写生観て、本当はどうだったんだろう?」という、自分自身の思い込みに対する「批評精神」も働いたような気がするのですが、どうでしょうか。

「検証」作業を怠ることで、図らずも虚子の写生観を誤って広く伝播する結果になってしまった、その結果虚子への反感、拒否感をいたずらに醸成してしまった、その影響は決して小さくない、そんな気もします。



 

俳句は俺が知る限り一番ヤバイ「遊び」だ

 投稿者:比々き  投稿日:2019年 2月16日(土)00時32分48秒 softbank060148116079.bbtec.net
返信・引用 編集済
  最も過激な俳句入門書。

3月4日発売。

北大路翼著『生き抜くための俳句塾』(左右社)

北大路翼とは
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新宿歌舞伎町一家「屍派」の家元としてメディア出演多数の俳人・北大路翼初の俳句入門書。
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技術を身につけるより先に必要なのは、己の感動を取り戻すこと。
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人生に迷うすべての人たちに送る、前代未聞の俳句生き方バイブル決定版!

目次
はじめにーー本当の詩は世の中が捨てた中にある
第一講 俳人になるための心構え一〇箇条
〇、心を取り戻せ
一、道楽でたいていのことは学べる
二、いいものに触れる
三、謙虚さは傲慢である
四、含羞を持て
五、便利さに溺れるな
六、メディアより己を過信するべし
七、刺激には刺激を
八、ケチらない
九、変化を楽しむ
一〇、頑張るのは一度だけ
第二講 俳句的脳内回路の作り方
詠みたいモノを思い浮かべる
連想にはルールがある
言葉の展開法
モノからシーンへ
実作
第三講 最強句会ルール・実践編
屍派句会のやり方
実践編
一回戦 「し」と読める漢字の入った句
二回戦 年末感のある句
三回戦 糸偏の漢字の入った句
投句一覧
第四講 悩み別作句技法
悩み1「自分が誰だかわかりません」
悩み2「統合失調症で先が不安です」
悩み3「電車に気になる女性がいます」
悩み4「難病生活、死との向き合い方は」
悩み5「褒められる俳句が作りたい」
悩み6「年相応になるべきでしょうか」
悩み7「幸せな人生、もうひと花咲かせるべき?」
第五講 俺を変えた魂の二五句
おわりにーー遺言にかえて
付録 廃人日記


 

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