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Re: 面白さを「発見する」

 投稿者:日午  投稿日:2019年 7月 8日(月)10時01分4秒 163-80-8-61.flets.videw.com
返信・引用
  > No.5144[元記事へ]

比々きさん、南風の記憶さん、返信ありがとうございましたm(_ _)m

「罌粟坊主」の地選については、本当にその通りです。
具体性が欠けていたのに、よく通ったなと自分もビックリしていました……
引き続き作句精進します。ご指摘ありがとうございました。m(_ _)m

俳句ポストに関してなのですが、

>  ただ……なかなか、この感覚にはなれない(苦笑)。特に「俳句ポスト」は兼題自体が難しく、兼題の特徴を捉えて一句捻り出すのに、どうしても「頭」を使ってしまう。この辺り、まだまだ鍛錬が必要なのだろうなと痛感しています。

今回「楊梅」で天をとられていた蟻馬次朗さんの作句の様子をみるに、
ネットで調べるかたわら、自らの足で楊梅を生えてる場所にいったり、
楊梅を実際に摘んで食べたりお酒につけたり、と様々なアプローチをされていたので、
やはり「写生」であり、「実感」が大事なのだなあ、ということを実感しました。


https://hiuma.blog.fc2.com

 
 

フルポン村上の俳句修行@日本橋

 投稿者:比々き  投稿日:2019年 7月 5日(金)11時43分9秒 softbank126015149096.bbtec.net
返信・引用 編集済
  今回は、7歳から俳句を始め句歴35年の阪西敦子さん率いる日本橋句会へ。

俳句甲子園強豪校出身者3人を交え、歯に衣着せぬディベートが白熱。

3人の俳人が出演したプレバトのその後の打ち上げで、3俳人それぞれが自説を曲げず、言い合いを続けたのだとか。

自分の好きは絶対譲らない、そこが俳人の俳人たるところなのかな。

というわけで、今回も読ませます。

https://book.asahi.com/article/12511050

 

辻 桃子さんの言葉

 投稿者:比々き  投稿日:2019年 7月 1日(月)13時36分53秒 softbank126007239044.bbtec.net
返信・引用
  桃子さんは18歳で俳句を始め、新人賞、第一句集を出すまでに21年かかった遅咲きの人。

最初の15年ほどはひらめきで作っていて、「写生などフンと思っていた」(57p)そう。
それが行き詰って写生に切り替え、写生が発想の無限の宝庫であることを知ったと言います。

写生に徹するのは、「徹底的な写生の果てに、幻想を至らせ」「写実、写生と幻想のダブルイメージで、句に奥行きと不思議さ、懐かしさを醸し出し」(113p)たいからなのだとか。

桃子さんは「本物の句」は、次のような句だと言います。

62、3p
《本物の句とはどういうものなのだろうか。頭の中で教養と知識でこね上げたような句など、どんなに上手そうに出来たって、単なる計算上の作品にすぎない。体中をアンテナにして感覚を働かせ、自分自身の大したことのない才能など超えて、どこからかひらりとひらめいてくるものこそ本物だ。》

《まるで天上の神様からの贈り物のようなイメージがひらめいたら、その一瞬、投げられたボールに飛びつくように、この感覚を定型(五七五)でキャッチしなければならない。普段から沢山句を作って、このキャッチの訓練をしておかねばならないと、私自身痛感している。しかも、そう、たのしみつつこの写生の訓練をしておかねばならないと。》

76p
《一句を文学的、修辞的にでなく、感覚的に作るコツをつかまえる》

91p
《よい句を作るにはまず、もっと勉強すること。先人の句を沢山読むこと。読んで、沢山の型を身につけること。そうしないとどんなによい発想があっても、自由に言い表せない。》

《また沢山読めば自然によい句とだめな句を判別できるようになる。どんな句が新しい句かもわかるようになる。》

111p
《「俳句は嘘八百」(中略)。要するに「想像力(創造力)を駆使して自由に発想を飛ばせよう」ということを言いたい。「写生写生」と口がすっぱくなるほど言っているが、それはどこまでも基本。この基本をバネにして思いっきり自由に発想を展開させ、屈折させ、ひねって、そう、「まるで嘘のように」ひらりとイメージを定着させたい。決して、ありもしない、どうでもいいことを、でたらめに、というわけではない。》


など、など、本当に考えさせられる言葉ばかり。

「基本」をおろそかにしていては、最初は上手く行っても、遅かれ早かれいつか頭打ちになるのは時間の問題。
「多作多捨」「多読多憶」は作句の基本。

《才能がなくても、こつこつとやっていくうちに、必ず「ある所」までゆくことができる。ときには、「ある所」以上に、「とんでもない所」へ突き抜けることもできる。》(57p)

この言葉を励みに、やるべきことを日々コツコツやっていきたいと、改めて思います。

 

辻桃子さん

 投稿者:めぐる  投稿日:2019年 6月30日(日)16時07分29秒 zaq771a94f2.zaq.ne.jp
返信・引用
  比々きさん、皆さん、こんにちは!
「あなたの俳句はなぜ佳作どまりなのか」
折に触れ読み返しています。
「まえがき」には辻桃子さんの俳句への思いがギュウっと入っていて痺れますね。

「俳句を新しくしたければしたいだけ、厳然と姿正しき定型、五七五を守り、古き佳き季語をどっしりと据え、(中略)切れ味よく切字を働かせたい」(p3より)

「つまり、『俳句は下手がいい』のだ。『下手でいい』のではない。上手でありながら、下手のように感じさせるごろりのろりとした句がよい」(p6より)

私が、特に心に留めている一文です。
抜き出し始めれば、比々きさんのピックアップした部分含めて、全文書き出してしまいそうな勢いの濃いぃ「まえがき」ですよね!
当時読了後に心に灯った「一生懸命考えて、なんでもないような句を作りたい」ということを、今も願い続けています。

そういえば―――。
「罌粟坊主」で思いがけなくも地選(比々きさん、お祝いコメント有難うございました!!)を頂いた句も、力みの抜けた「なんでもない句」と言っていいかも?
私の場合、「なんでもない句」は、兼題に向かって10句20句と量産しているうちに、神さまがご褒美のように目の前に置いて下さるような気がしています。
その時、私はきっと季語のある風景の中に自然に佇んでいることが出来ているのでしょう。
またいつか、このような幸運に巡り逢えるよう、頑張っていきたいと思います。
 

あなたの俳句はなぜ佳作どまりなのか

 投稿者:比良山  投稿日:2019年 6月30日(日)08時43分38秒 sp49-106-213-246.msf.spmode.ne.jp
返信・引用
  比々きさん、みなさん、お久ぶりです。私もこれが俳句を始めて一番最初に読んだ図書でした。しかし見習いのため、まえがきはさっと通しただけでこんなに意味のあることが書かれていたのかと今驚きました。私ももう一度初めから読み直してみたい気になりました。初心の頃の図書を読み返してあらためてわかることが多い、特に俳句の図書はその傾向があり、スランプの時、初心に戻れとは良く言ったものだと思います。

ではまた。
 

選者はどんな句が読みたいか

 投稿者:比々き  投稿日:2019年 6月28日(金)13時57分39秒 softbank126007239044.bbtec.net
返信・引用 編集済
  初心者のころ読んだ、辻桃子さんの『あなたの俳句はなぜ佳作どまりなのか』(新潮社)を、今また読み直して、「まえがき」の中から、心に刺さった言葉をおすそ分け。

俳句を作る「こころ」が、本当の意味で俳人していなければ、と改めて思わされる言葉の数々です。

2p
《 そんなふうに、「めぐりあいたいと願っている句」って、じゃ、どんな句なのか。一口に言えば、ばりばりに新鮮で、従来の俳句の概念にとらわれない、思いきって自由な句、ということに尽きる。》

《 なんといっても、俳句は創作なのだ。単に日記だと思っている人もいるかもしれないが、とんでもない。一句は書かれた時から作品として一人立ちし、大勢の人に読まれ、さまざまに鑑賞される運命にある。そのためには、他のどこにも無い、他の誰もが今まで一度もいわなかった、手が切れるように真新(まっさら)なオリジナリティを求めなくてはなんにもならない。「創作」の「創」とは創り出すことなのだから。》

《 だが、今の俳句の世界を見回せば、新しい作品を創り出す、俳句に新しい価値を付け加えるといった創造的な仕事よりは、どこにでもある俳句らしい無難な作品を、なぞり合うような風潮がはびこっているのは残念なことである。
 その方が、誰にも非難されず、それなりに俳人らしくおだやかに過ごせるから、静かに趣味に生きようとするのならよいことなのだが、本気の創作を志すなら、お稽古事的な発想などとんでもないことだと言いたい。》

3p
《 型が厳然と存在していながら、俳句がさらに新しく在るにはどうすればいいのか、これを常に考えたい。型さえきちんと出来れば、もう「俳句」が出来てしまったような安易さを超え、その定型の狭い小さな枠や約束事や文法などの中で、どこまでその内容をいきいきと生かせられるか、思いの丈をこめられるか、時には、既成の俳句的常識や美意識などをひっくり返し、批判し、茶化し、笑いのめすことが出来るか、ということが大切だ。》

4p
《 この俳諧も諧謔もまた、もとは呪語でもあった。(中略)俳諧、諧謔とはその底に、人間存在の不条理に対する、強烈な怨念をどす黒く渦巻かせている呪語なのだ。》

《 そして、その怨念はおくびにも出さず、あたかも何事も無いかのように、今この瞬間を生きている事実をよろこび、不条理への怨念をさらりと笑い飛ばし、呪語をひそめつつこの世を笑いのめすエネルギーを爆発させるものであらねばならない。
(略)佳い句は、一見単純で、ばかみたいに簡単にみえても、読む人が読めば、間違いなくどの句もそうなっている。》

《(略)型と内容とが、衝撃的な取合わせであればあるほど、、その落差の火花は増幅し、その分だけ大きな感動となって、読み手に伝わってくる。そういうふうに俳句を作りたい。》

5p
《俳句の素材は、別に俳句の素材らしいところから取材してこなくてもよいと思う。ちゃらちゃらした軽佻浮薄な現代的なところから、通俗卑俗から、流行語やコピーなどから取材してきたってかまわない。横文字だろうが片仮名だろうが、駄洒落、語呂あわせだろうが恐れない。また、どんな汚いところ、いやらしいところ、口にすまじきところ、エロティック、ポルノティックなところから取材してきたってよい。所詮、俳句は「言葉戯(あそ)び」なのだから。》

《 だが、一句として立った時には、目から鱗が落ちるほどに恍惚とさせられる、新しい詩的表現に純化されていてほしいと願う。(後略)》

《 この恐るべき大喰らいの俳句形式が、どこまで、正統一個の俳句として成り立つものか、考えられうるかぎりの悪しきもの、佳きものを投げこんで実験してみたいと、私は考えている。》


※他にも「俳句も詩も物を書くということは一つの思想の表現だから、世間の常識には安々とは従わん、私は私として生きる、という覚めた思想がその底に無ければ、読者を打つことはできない。」(47p)など、目から鱗の言葉が満載。おススメです。




 

Re: 面白さを「発見する」

 投稿者:比々き  投稿日:2019年 6月27日(木)11時35分45秒 softbank126007239044.bbtec.net
返信・引用 編集済
  > No.5144[元記事へ]

>  そう、私のような常識に囚われた人間にとって、最大の問題は「感動の仕方が分からない」つまり「何が面白いのかが分からない」という点にこそあります(苦笑)。


ひゃあ~、そうだったんだ!
私はどちらかと言うと、毎回「新たに知る兼題の詳細情報」から感動しまくるタイプで、今回の兼題「鱧」でも、素材の「鱧」自体が常識外れな生き物ということもあって、骨が3500本と知っては「ひょぇ~」、鱧の口は閉じないと知っては「ほぉ~」、骨切りは一寸に26本入れると知っては「すげぇ!」、鱧の皮は金束子でぬめりをとっても傷つかないと知っては「おもしろい!」、鱧の血には毒があり、火を通せば無毒化するけれど、生の身は危ない、だから鱧の刺身は無いと知っては「へえ、そうなんだ!」などなど、50個以上も感動して、できた句を減らすのに苦労した方。
毎回最低でも30個ぐらいは感動します。

私は兼題が出たら、句を作る前に、とにかく写真や動画やネットで、兼題について調べまくります。
調べれば調べるほど、知らない事ばかりで、人間の常識を超えている、先入観をぶち破る、それが「考えるより先に」いちいち私を感動させるんですね。

でも、「感動」するところは「類想」のど真ん中なので、同じ其処を詠むのでも、オノマトペや比喩など、オリジナリティが出るよう、ここだけは「人とは違うぞ」という処を一か所工夫します。

また、私が言う「面白い!」には二種類あって、

①つは「素材」自身が持っている、人間の常識から見たら明らかに「非常識」なところ。
②つ目はシチュエーション自体はありふれていても、「視点」を変えると「違う風に見える」ところ。
例えば缶詰も上から見ると円だけど、横から見ると長方形ですよね。
富士山も横から見るのと、飛行機で上から見るのとでは見え方が違いますよね。

そういう「ちょっとした違い」を面白がるわけです。

1000人近く毎日先人の句を鑑賞してきて見えてきたのは、

・感動するのに、特殊なシチュエーションは要らない。
・そういう特殊な場面をでっちあげるために頭を使っていない。

、ということ。
今凝っているのは、見飽きたような極々つまらないシチュエーションを、描写の力で、言葉の力で「新鮮に甦らせる」こと。
ありふれた日常も、「他の人が見ないところ」を見る、また同じところを見るのでも、見る角度を上から、横から、斜めからなど、ちょっと普通見ない角度から「ずらして」見てみる、意識していつもやらないことをやってみる、そうするだけで、何か日常の澱みに風が吹いたような「新鮮」さが感じられる、そんな句が今の私には「面白い!」。

だから、兼題にも、日常にも「面白い!」が「感動」が溢れていて、私たちに発見されるのを待っている、と私は思っています。


>  結局のところ、私が紹介した「季語+描写+季語以外の措辞」の型というのは、感動(=自分が面白いと感じるポイント)を“発見”するツールに過ぎない、と私は思っています。それがなくても、面白さを「発見」できるのなら、必ずしも型を使う必要はないだろうと。


「感動を伝える」ことを意図して作るのと、「感動を創り出す」ことを意図して作るのとの違いなのかもしれませんね。
俳句は創作活動でもあるので、嘘八百で「感動を創り出す」ことも大いにアリ!
私は基本「感動」を核に、それを伝えるために作りますが、後者の楽しさも捨てがたいので、「両刀」使ってます。
ただ「多作多捨」をするには、「感動を伝える」方が「感動を創り出す」やり方より、数は作り易い感じがします。


>  こどもの日の光景を想像した時、ふと脳裏に飛び込んできた光景。そこをすかさず描写したので、あまり句を「作った」という感じではありません。印象的な光景をまさに「発見した」という感覚で、とても新鮮でした。
>  ただ……なかなか、この感覚にはなれない(苦笑)。特に「俳句ポスト」は兼題自体が難しく、兼題の特徴を捉えて一句捻り出すのに、どうしても「頭」を使ってしまう。この辺り、まだまだ鍛錬が必要なのだろうなと痛感しています。


いずれにしても上達は、促成栽培と言うより、地道に「つづける」先にしかないので、試行錯誤しながら、色々な人の色々な方法を参考に、自分に合った「続けられる」やり方を見つけるしかないかもしれませんね。



 

面白さを「発見する」

 投稿者:南風の記憶  投稿日:2019年 6月27日(木)01時27分35秒 ai126151030178.55.access-internet.ne.jp
返信・引用
   比々きさん、皆様こんばんは。そして日午さん、はじめまして。

 比々きさんのおっしゃる“自分が何を「面白い」と感じるか”がポイントだとのご指摘、完全に同意します。その上で、やはり耳が痛いのは、北大路翼さんの次の指摘です。

――いいか、よく聞けよ。お前らの問題は俳句の作り方がわからないことじゃないんだ。お前らは感動の仕方がわからないんだ。

 そう、私のような常識に囚われた人間にとって、最大の問題は「感動の仕方が分からない」つまり「何が面白いのかが分からない」という点にこそあります(苦笑)。

 結局のところ、私が紹介した「季語+描写+季語以外の措辞」の型というのは、感動(=自分が面白いと感じるポイント)を“発見”するツールに過ぎない、と私は思っています。それがなくても、面白さを「発見」できるのなら、必ずしも型を使う必要はないだろうと。

 以下の句は、数少ない「自分なりの面白さを発見できた」と感じた句です。もちろん型は一切使わず、それでも良し悪しは別として“気に入っている”句です(うれしいことに、通販生活~よ句もわる句も~にて人選をいただきました)。

 屑籠の玩具の瞳こどもの日(南風の記憶)

 こどもの日の光景を想像した時、ふと脳裏に飛び込んできた光景。そこをすかさず描写したので、あまり句を「作った」という感じではありません。印象的な光景をまさに「発見した」という感覚で、とても新鮮でした。

 ただ……なかなか、この感覚にはなれない(苦笑)。特に「俳句ポスト」は兼題自体が難しく、兼題の特徴を捉えて一句捻り出すのに、どうしても「頭」を使ってしまう。この辺り、まだまだ鍛錬が必要なのだろうなと痛感しています。

 日午さんへ。ブログ、読ませていただきました。NHK俳句テキスト等を用いて、かなり勉強なさっているようで、頭が下がります。私、俳句の本だけはやたら買っているのですが、忙しさにかまけて未読のものが増えていく有様です(苦笑)。

 罌粟坊主、難しかったですよね(泣)。日午さんの並選句ですが、描写の「揺れる」や下五の「遠き国」をもっと具体的に書いた方が、より罌粟坊主が引き立つのかなと思いました。

例1)異国への航路図罌粟坊主震える

例2)出航す波紋の幾重罌粟坊主

 いかがでしょうか(汗)。これからも、お互い刺激しあいながら頑張っていきましょう!

https://stand16.hatenablog.com/

 

野性俳壇常連句会

 投稿者:比々き  投稿日:2019年 6月25日(火)00時48分36秒 softbank126007239044.bbtec.net
返信・引用 編集済
  「野性俳壇」で組長と共に選者をされている長嶋有さんが、「野性俳壇」に佳作以上で一度でも入選した人(組長選も可)を対象に、投稿者と交流するためツイッター句会を主催されるそうです。
今参加者を募集しています。

参加資格のある方は、是非ツイッターのアカウントを作ってエントリーしてみてください。
エントリーは6月いっぱい。
詳細はこちらから。

https://twitter.com/nande_show/status/1143163872745889793

 

Re: 意識から無意識へ

 投稿者:比々き  投稿日:2019年 6月24日(月)17時33分49秒 softbank126007239044.bbtec.net
返信・引用
  > No.5141[元記事へ]

> 初めまして。日午(ひうま)と申します。
> 下記の投稿、興味深く拝読させていただきました。


日午さん、ようこそ!


> 南風の記憶さんの内容、
> 北大路翼さんの「生き抜くための俳句塾」に全く同じようなことが
> 書いてあってあったことを思い出しました。
>
> 兼題から類想される言葉を考えて、その逆を考えてみるそうです。
> それで、組み合わせが面白そうな言葉をぶつけてみると、
> オリジナルな俳句ができあがり~
>
> みたいな内容だったのですが、兼題を考えるときは、
> この方法でいくと、類想句にとどまらないのかなあと思いました。

> 組長の言う
> 「観たこともないオリジナリティ」と
> 「観たこともないリアリティ」のスタートラインには立てるように思いました


色々な作り方があるけれど、結局北大路さんが言いたいのも、自分自身が「面白い!」と思えるかどうか。
それ無しにハウツーだけで、頭主体に作っていると、途中からしんどくなって、長く作り続けることはできない、そんな気がします。
特定のハウツーより、楽しく作れる自分なりの方法を見つける、要はそこが大事なのかな。

「俳句王国」の俳句仮面の決まり文句「俳句の俳は人に非ず」、これは何ものにも捉われず、いかに常識から抜け出た「攻めた」発想をするか、それを示唆していると私は捉えているのですが、北大路さんも組長も「五感+第六感」を、とおっしゃるのは、これでしかブレークスルーできないから。

そのためにも、知的に飼いならされた頭と体を、野生に、本来の自然に戻してやる、一番身近な「自然」=「からだ」の声を聴く、それが南風の記憶さんの言う「無意識」にもつながるのでは、と思ったりしています。

鱧を見て自分の五感が何を感じ、何に反応するのか、鱧の湯引きを見て「牡丹」みたいと先人が感じたように、自分にはこんな風に見えた、こんな風に聞こえた、その自分が感得したオリジナルなリアリティーを詠んでいく、それしかできないような気がします。


> また、組長が最近「季語の本質的な意味を捉えているか」ということを
> 何度も発言されているので、できた句が季語の意味合いを捉えているか、
> もおそらく、選句されるポイントになると思いました。


季語の本意に沿う作り方は、ある意味「季語の常識に捉われる」という危険を内包するので、ある程度慣れたら、守りに入るのではなく、芭蕉のように季語の本意を拡張する、新局面を拓く、そういうチャレンジングな攻めた作り方も試みて、「俳」人らしい俳句を作りたいですね。

ここは意見交換の場でもあるので、また是非思ったこと、感じたこと、初心者だからと言って遠慮せず、どしどし書き込んでいただければと思っています。


 

Re: 意識から無意識へ

 投稿者:日午  投稿日:2019年 6月24日(月)14時52分22秒 163-80-8-61.flets.videw.com
返信・引用
  > No.5140[元記事へ]

初めまして。日午(ひうま)と申します。
下記の投稿、興味深く拝読させていただきました。

南風の記憶さんの内容、
北大路翼さんの「生き抜くための俳句塾」に全く同じようなことが
書いてあってあったことを思い出しました。

兼題から類想される言葉を考えて、その逆を考えてみるそうです。
それで、組み合わせが面白そうな言葉をぶつけてみると、
オリジナルな俳句ができあがり~

みたいな内容だったのですが、兼題を考えるときは、
この方法でいくと、類想句にとどまらないのかなあと思いました。

組長の言う
「観たこともないオリジナリティ」と
「観たこともないリアリティ」のスタートラインには立てるように思いました。

また、組長が最近「季語の本質的な意味を捉えているか」ということを
何度も発言されているので、できた句が季語の意味合いを捉えているか、
もおそらく、選句されるポイントになると思いました。



> >  ブログにて、久々に俳句のことを書きました。俳句を始めて早九ヶ月、当初の「(表記ミスにより)全没」→「人」→「並」→「並」→「人」→「並」→「並」→「人」と句のレベルが安定しなかった時期を、如何にして乗り越えたか。ひとまず、現時点での私の考えをまとめてみました。
> >
> > https://stand16.hatenablog.com/entry/2019/06/22/152100
>
>
> 南風の記憶さんの分析、読ませて頂きました。
> おっしゃる通り「俳句ポスト365」以外にも、投稿先が募集している句は、ほとんど九割がた「兼題」ありきの、「縛り」がある句。
> なので、組長本始め、ほとんどの入門書が推奨する、後から「季語」をくっつけるやり方は、ご指摘のように役に立たない。
> 初心者が「あら、俳句ってかんたんなのね」と、いざ他の投稿先に投稿しようとして真っ先に戸惑うのは、そこなんですよね。
> 「兼題の句の作り方」なんて、どの入門書にも載ってない!
> 今度入門書を出す方は、是非「兼題句の作り方」という一章を設けて欲しいと、強く思います。
>

https://hiuma.blog.fc2.com/

 

Re: 意識から無意識へ

 投稿者:比々き  投稿日:2019年 6月24日(月)13時42分30秒 softbank126007239044.bbtec.net
返信・引用 編集済
  > No.5139[元記事へ]

>  ブログにて、久々に俳句のことを書きました。俳句を始めて早九ヶ月、当初の「(表記ミスにより)全没」→「人」→「並」→「並」→「人」→「並」→「並」→「人」と句のレベルが安定しなかった時期を、如何にして乗り越えたか。ひとまず、現時点での私の考えをまとめてみました。
>
> https://stand16.hatenablog.com/entry/2019/06/22/152100


南風の記憶さんの分析、読ませて頂きました。
おっしゃる通り「俳句ポスト365」以外にも、投稿先が募集している句は、ほとんど九割がた「兼題」ありきの、「縛り」がある句。
なので、組長本始め、ほとんどの入門書が推奨する、後から「季語」をくっつけるやり方は、ご指摘のように役に立たない。
初心者が「あら、俳句ってかんたんなのね」と、いざ他の投稿先に投稿しようとして真っ先に戸惑うのは、そこなんですよね。
「兼題の句の作り方」なんて、どの入門書にも載ってない!
今度入門書を出す方は、是非「兼題句の作り方」という一章を設けて欲しいと、強く思います。


>  ただ、ブログで書いたことは、あくまでも「並選からどう脱却するか」というのがテーマです。そこはクリアできた今、さらに上のレベルを目指すのは当然のことです。
>
>  例えば、記事では“初心者が”季語とそれ以外の措辞との良い距離感を保つコツとして、「対比関係」となるようにする、と提案しています。初心者のうちは、どうしても距離感が「近い」のか「遠い」のか、なかなかピンときませんから。


いわゆる「取り合わせ」の「付かず離れず」の距離加減ですよね。
しかしここにも落とし穴があって、「対比」を意識しすぎると作為が目立ち過ぎ、選者からすると「興ざめ」するらしいので、もう一歩踏み込んで「作為を消す」という高等テクニックも又求められる、、、ああ、ややこしい!!!(笑)
こういうところが、「俳句は難しい」という所以なのかな。
入選することを意識しすぎると、作るのが辛くなってくるので、とにかくまず自分の句を自分が「面白い!」と思えるかどうか、それを目安に作っています。
何を「面白い!」と感じるかは人によって違うので、その波長が合う選者だと採って頂けるけど、合わないと没になるのは仕方のないこと。
普段色んな経験や、情報に触れながら、自分が何を「面白い!」と思うか、そこから句作りは始まるような気がしています。
入選によって自尊心をいっ時充たすというより、自分の「面白い!」に選者も共感してくれた、その「つながり感」が私の一番の喜びかな。


>  しかし、私もこの頃、イチイチ対比かどうか考えなくても、出来た句の取り合わせが「しっくりくる、こない」という感覚を持てるようになってきました。


対比は頭で出来るけど、そこからちょっとズレてるのになんだかいい感じ、しっくりくる。
この理屈ではない、体「感覚」を養うのが、俳句では大事なのかも、です。


>  今取り組んでいる兼題「鱧」では、最初のうちは<対比>となるように意識して句を詠んでいたのですが、途中から、自分でも「何でこのフレーズが出てきたんだろう」というような、思わぬ取り合わせが浮かんできました。
>
>  となると……そろそろ、次の段階へ進む時が来たのかなという気がします。そのキーワードこそ、「意識から無意識へ」ということになるのだろう、と。


口から出まかせ、頭から出まかせで作って、初めて「俳句ってかんたん」になるんじゃないかな。
考えないで、鱧なら鱧のことを調べて「面白い!」と思ったことを片っ端から句にしていく。
ふっと浮かんでくる無意識からの声、内なる声のアプローチもすかさず取り入れる。
そういう作り方をすると、あっという間に20、30は出来てしまいます。
後は何度か見直して、語順や描写、表現を更にブラッシュアップするだけ。
気分的に、すごく楽ちんです。
頭は使っても「面白い!」と感じられるようアイデアを練るので、何だか練ってる間も「いたずらっ子気分」で楽しいし、疲れないんですよね!

南風の記憶さんも「通販生活」では人・人。
試行錯誤しながら確実にコツを掴んでいらっしゃって、これからがますます楽しみです!

 

意識から無意識へ

 投稿者:南風の記憶  投稿日:2019年 6月23日(日)21時34分30秒 ai126146032148.53.access-internet.ne.jp
返信・引用
   比々きさん、皆様こんばんは。

 ブログにて、久々に俳句のことを書きました。俳句を始めて早九ヶ月、当初の「(表記ミスにより)全没」→「人」→「並」→「並」→「人」→「並」→「並」→「人」と句のレベルが安定しなかった時期を、如何にして乗り越えたか。ひとまず、現時点での私の考えをまとめてみました。

https://stand16.hatenablog.com/entry/2019/06/22/152100


 ただ、ブログで書いたことは、あくまでも「並選からどう脱却するか」というのがテーマです。そこはクリアできた今、さらに上のレベルを目指すのは当然のことです。

 例えば、記事では“初心者が”季語とそれ以外の措辞との良い距離感を保つコツとして、「対比関係」となるようにする、と提案しています。初心者のうちは、どうしても距離感が「近い」のか「遠い」のか、なかなかピンときませんから。

 しかし、私もこの頃、イチイチ対比かどうか考えなくても、出来た句の取り合わせが「しっくりくる、こない」という感覚を持てるようになってきました。

 今取り組んでいる兼題「鱧」では、最初のうちは<対比>となるように意識して句を詠んでいたのですが、途中から、自分でも「何でこのフレーズが出てきたんだろう」というような、思わぬ取り合わせが浮かんできました。

 となると……そろそろ、次の段階へ進む時が来たのかなという気がします。そのキーワードこそ、「意識から無意識へ」ということになるのだろう、と。

https://stand16.hatenablog.com/

 

「ずぶぬれて犬ころ」@渋谷ユーロスペース

 投稿者:比々き  投稿日:2019年 6月16日(日)14時35分38秒 softbank126012106203.bbtec.net
返信・引用
  俳人・住宅顕信の映画、ただいま絶賛上映中。

平日の遅い時間(21:05~)の上映もあります。
お仕事帰りに、是非!
上映スケジュールは下記HPで。

渋谷ユーロスペース
http://www.eurospace.co.jp/works/detail.php?w_id=000354

 

575でカガク!

 投稿者:比々き  投稿日:2019年 6月 4日(火)14時51分22秒 softbank126012106203.bbtec.net
返信・引用
  Eテレで、またまた俳句を募集中!

今回のテーマは、「はやぶさ2」と「恐竜」。

放送予定
Eテレ 8月22日(木)午後9時00分~
      8月29日(木)午後9時00分~

締め切りと詳細はこちらから。
https://www4.nhk.or.jp/P4888/


 

ブログ引っ越しました

 投稿者:比々き  投稿日:2019年 6月 4日(火)14時09分12秒 softbank126012106203.bbtec.net
返信・引用 編集済
  Yahooブログ終了に伴い、過去記事ごとブログを引っ越しました。


毎日がハイポニスト(自句ストレージ用):http://nonsyaran.livedoor.blog/

KUYOMI(鑑賞用):http://nonsyaran1223.blog.jp/

 

Re: 「説明」か「描写」か

 投稿者:比々き  投稿日:2019年 6月 3日(月)12時40分48秒 softbank126012106203.bbtec.net
返信・引用 編集済
  > No.5134[元記事へ]

>  それはともかく、同じ言葉でも「季語」によって説明になったり描写になったりする。その判断は、やはり“季語の本意”を押さえているかどうかでしょう。
>  やはり「季語」を知らなければ、良い句は作れない。その基本に立ち返ることができたという点で、この“没”句を通して意義深い経験をすることができたのかなと思いました。


毎回何かしらの学びを積み重ねた先に上達があるので、それを地道に続けているのは向上心の表れ。
こうやって書き留めることで、書かずにただ「思っただけ」とは違い、同じ間違いを繰り返すことも少なくなるような気がします。

「説明」か「描写」かは、本当に悩ましい問題。
多分そこに、他の誰もまだ見つけていない、自分独自の「ハッ」とするような、新鮮な発見があるかどうかなのかな?
「どんな」水鉄砲なのか、「どんな」水が入っているのか、一般的なビルではなく「どんな」ビルなのか、「どんな」空なのか、具体的に「もう一歩踏み込む」、それが「描写」なのかな?

私は自分の「心の揺れ」を「生動」として大事にしているので、自分の心が「何の、どんなところに」揺れたのか、そこをできるだけ詠みの核心にするように作っています。

あと俳句は「作る」俳句と、「生まれる」俳句があるということ。
「作る」は、頭や思考が先行しますが、「生まれる」は、モチーフや言葉や場面が「浮かぶ」という偶然性に任せるしかありません。
その「ふっ」と一瞬浮かんだものをすかさず拾い上げる、私は今それを「命の測りがたい不思議な働き」として大事にするようにしています。

「これとこれを組み合わせたら面白いかも」と作った句は、意外と「作為性」が言外に漏れ出るので、それを臭みとして選者は採らないことが多いかな。

確かに「桜鯛」と「清ら」の取り合わせは、なかなか思いつかないので、意外性があり、「付かず、離れず」の距離感も絶妙ですが、「水鉄砲」と「清ら」は、おっしゃるように「水」が「清ら」の連想圏内なので、やや「付きすぎ」な感じがします。

フルーツポンチ村上さんの句作りの一例が彼のブログに書かれているので、良かったら参考にしてみてください。


『連載』#14 プレバト 名人十段
https://ameblo.jp/ponfurupon/entry-12463597747.html







 

「説明」か「描写」か

 投稿者:南風の記憶  投稿日:2019年 6月 3日(月)00時34分3秒 ai126198128029.60.access-internet.ne.jp
返信・引用
   比々きさん、皆様こんばんは。

 俳句ポスト365の兼題「水鉄砲」にて、いつもの型を使いながら、自己判断で<没>にした句があります。

「水鉄砲清ら空のないビル街」

 最終的に、没にした主な理由は、後半部分の「空のないビル街」(=空が見えないほど高いビルの立ち並ぶ街)の方が目立ち過ぎて、季語である「水鉄砲」の存在が霞んでしまうと判断したからなのですが、今回のポイントは、中七の「清ら」です。

 その前の兼題「桜鯛」では、「清ら」が“描写”の言葉として使っています。しかし、この「水鉄砲」では、描写ではなく“説明”の言葉になってしまうと、私は判断しました。

 水鉄砲という季語には、そもそも「清らか」なイメージが入っているから、です。

 残念ながら、この「清ら」に代わる言葉が思いつかず、アイディアごとお蔵入りとしてしまいました。空を隠すほどの高層ビル街と水鉄砲の取り合わせ、なかなか面白いと思ったのですが……(苦笑)。

 それはともかく、同じ言葉でも「季語」によって説明になったり描写になったりする。その判断は、やはり“季語の本意”を押さえているかどうかでしょう。

 やはり「季語」を知らなければ、良い句は作れない。その基本に立ち返ることができたという点で、この“没”句を通して意義深い経験をすることができたのかなと思いました。

https://stand16.hatenablog.com/

 

フルポン村上の俳句修行@砂の城 後編

 投稿者:比々き  投稿日:2019年 6月 1日(土)15時20分56秒 softbank126012106203.bbtec.net
返信・引用
  北大路さんの歯に衣着せぬ言葉と村上さんとの対談が見もの。

時間を切って作句することで、突然面白いものが出てくる「偶然性」に賭けたり、読者の読みを信頼して、順当な季語でなくイレギュラーな季語を付けて裏切るなど、ベテランならではのアドバイスも。

https://book.asahi.com/article/12411131


 

フルポン村上の俳句修行@砂の城

 投稿者:比々き  投稿日:2019年 5月31日(金)17時47分39秒 softbank126012106203.bbtec.net
返信・引用
  あたしって予言者?先月北大路翼さんの屍派の句会に参加してほしいと書いたら、早速実現!
「Romanticが止まらない」で知られるC-C-B・関口さんも交えて、先ずは前編。

 https://book.asahi.com/article/12411101

 

Re: 祝!「こどもの日」地選

 投稿者:南風の記憶  投稿日:2019年 5月25日(土)18時40分40秒 ai126244181121.61.access-internet.ne.jp
返信・引用
  > No.5130[元記事へ]

 比々きさん、めぐるさん、ありがとうございます。

 めぐるさん、お久しぶりです。「俳句生活」の「人」選二句のうち、「折檻の~」の句は、例の事件を題材としました。あの少女と同様、辛い過去を背負った女性が大人になり、もしかしたら子供ができた時に迎えた「こどもの日」の、何と清らかなこと。私は今、(我が子とともに)幸せをつかむんだ、と。悲惨な事件の結末に「もしこうなっていたら」と考えずにはいられず、ほとんど衝動的に詠みました。「人」に選んでいただいたのは、何だか恐縮です(汗)。

 比々きさんへ。青嵐俳壇の件、こちらの掲示板にてご紹介いただき、ありがとうございます。


 元々「毒もみ」を句材として使うことを決めていて、次に浮かんだのが、まるでガラスのような「川面」の光景です。「川面」の透明感と、鮮やかな紅鱒の対比。最後に、ガラスのような川面を「引っ掻く」という描写の言葉が、一番しっくりきました。

 以前より「季語の描写」に取り組み続けていましたので、それが一つの成果として現れたのは良かったです。

 しかし、やればやるほど奥が深いのが俳句の世界! 他の方の句を詠んでも、自分にはない発想や表現の数々にいつも圧倒されます。まだまだ精進が必要だなと痛感しております。
  

https://stand16.hatenablog.com/

 

Re: 祝!「こどもの日」地選

 投稿者:比々き  投稿日:2019年 5月23日(木)13時51分39秒 softbank060148116079.bbtec.net
返信・引用
  > No.5128[元記事へ]

> 比々きさ~ん!
> 『俳句生活』兼題「こどもの日」地選おめでとうございます~!!


めぐるさん、ありがとう!
めぐるさんも、伊吹嶺並選、おめでとうございます!
俳句生活の「こどもの日」は、めぐるさんファミリー、お父さん(小川わたるさん)、妹さん(畦のすみれさん)も人選で、お二人とも始めたばかりなのにセンス大あり!
家族で俳句の話ができるなんて、サイコーですね!
これからもファミリーの活躍、期待しつつ注目しています!


> カワイ~の「きゃーきゃー」が一転、別の「きゃー!」になる面白さ。
> きらきらしたイメージの「こどもの日」に「唾」という言葉を持ってきたのが比々きさんらしく、景の切り取り方が素敵です!生き生きと明るくて賑やかな「こどもの日」ですね!


たまたま読んだブログに、アルパカは人に唾をかけるから要注意、ということが書いてあって、「へぇー、おもしろい!」と、早速あたかも自分が見たかのようにパクりました(笑)
他者の経験も自分の経験にして、写真を見ながらそこに自分が居るように作ったので、その臨場感が良かったのかな。


> 南風の記憶さんも、【人】×2句おめでとうございます!
> 私はそこまで踏み込めませんでしたが、ズバっときましたね。


彼は「青嵐俳談」でも初の地選に!

 紅鱒の引っ搔く毒もみの川面 沖縄 南風の記憶

https://www.za-chelin.jp/article/news201905200001

コツを掴みつつあるので、彼のこれからの活躍も楽しみです!




 

夏井いつき句会ライヴのお知らせ

 投稿者:ぐずみ  投稿日:2019年 5月23日(木)11時40分58秒 i121-113-131-220.s41.a028.ap.plala.or.jp
返信・引用
  夏井いつきの句会ライヴのお知らせ

ぐずみの棲んでいるお隣の市川町で句会ライブが開かれます。

全席650のホール、地元の方優先と思って、これまで伏せていましたが、追っかけファンのお方が居られればと思い、ボチボチ拡散させてみます。

残数僅かです!お急ぎを!!

関東の市川市じゃないよ~、(念のため)
それから、市川町の花はひまわりです。

夏井いつき句会ライブin市川
https://www.town.ichikawa.lg.jp/forms/info/info.aspx?info...

https://iimono.town/event/夏井いつき句会ライブin市川%EF%BD%9Cひまわりホール%EF%BC%88市/


6月16日(日)

【開演開始時間】
 14:00(開場時間 13:30)

【前売鑑賞料】
 一   般:2,500円
【当日鑑賞料】
 一   般:3,000円

[全席指定]
※メイト会員割引はありません。
※未就学児の入場はご遠慮ください。
※前売券が完売した場合は当日券の販売はございません。

【会場】
 ひまわりホール(市川町文化センター)

【チケット販売場所】
 ●市川町文化センター管理事務所
  (0790-26-0969)
 ●市川町観光交流センター
  (0790-26-1040)
 ●福崎町エルデホール
  (0790-23-1655)

市川町文化センター管理事務所のみ前売券の電話予約もおこなっております!!

  ************************************
写真 1:チケット販売状況 (5/22 16:00 現在)
写真 2:会場前面道路
写真 3:月見橋より市川上流を望む
 

祝!「こどもの日」地選

 投稿者:めぐる  投稿日:2019年 5月23日(木)03時07分34秒 119-230-14-200f1.kyt1.eonet.ne.jp
返信・引用
  比々きさ~ん!
『俳句生活』兼題「こどもの日」地選おめでとうございます~!!
カワイ~の「きゃーきゃー」が一転、別の「きゃー!」になる面白さ。
きらきらしたイメージの「こどもの日」に「唾」という言葉を持ってきたのが比々きさんらしく、景の切り取り方が素敵です!生き生きと明るくて賑やかな「こどもの日」ですね!

南風の記憶さんも、【人】×2句おめでとうございます!
私はそこまで踏み込めませんでしたが、ズバっときましたね。

 

ひめポン!

 投稿者:比々き  投稿日:2019年 5月22日(水)10時39分17秒 softbank060148116079.bbtec.net
返信・引用
  「俳句でポン!」の神野紗希さんの解説が、「俳句とは何ぞや」の核心をついています。

https://www.nhk.or.jp/matsuyama/himepon/movie/movie_190513-1.html

・俳句は「肯定」の文学
・俳句は「瞬間」の文学
・俳句は「発見」が光る
・俳句は「今を生きている私」を描く
・俳句は「私」を通して「人間」を描く
・自分の好きなもの、詳しいものを詠む
・リズム感のある、覚えやすい句

など、など。

俳句も募集中です。〆切は5月24日午後7時。
お題は「遠近法を使った句」。

投句はこちらから。
https://cgi2.nhk.or.jp/prog/form.cgi?p=P3975&tb=f3&f=P3975

次回放送は6月10日午後6時10分~。

 

Re: 「かろみ」について

 投稿者:比々き  投稿日:2019年 5月 6日(月)01時17分12秒 softbank060148116079.bbtec.net
返信・引用
  > No.5124[元記事へ]

>  前回、比々きさんが言及された「かろみ」について、自分なりに考えてみました。まだきちんとまとまってはいないので、あくまでも“現時点では”このように捉えている、ということですが……


芭蕉がどういう意味で「かろみ」と言ったのかについては、諸説あって、「重い」の反対であることは確かですが、三省堂の大辞林によると「日常的なことばによる詩の創造の実現をめざす句体・句法・芸境のこと」。

「今思ふ体は浅き砂川を見るごとく句の形、付心(つけごころ)ともに軽きなり」(別座鋪:べつざしき)とあることから、「軽み」が、「句の形」と「付心」、すなわち、「表現面」と「詩境」の両方をさしていることは明らか。

時事を詠む場合は、どうしても「形」も「心」も「重く」なりがち。
西東三鬼が原爆投下の翌年広島入りして詠んだ句「広島や卵食ふ時口ひらく」のように、「重いテーマを軽く」詠むのはけっこう難しい。


> 「常識は詩の敵である。常識は脳を委縮し硬直化し、自由な発想を妨げるのである。」
>  この“常識に囚われない”ということが「かろみ」だと、私は捉えました。


「囚われる」とどうなるか。
文献にかなり沿った多田裕計さんの『小説 芭蕉』を読むと、この「かろみ」を理解できなかった門人たちは、俗人根性丸出しで、天才肌の其角を中傷し、彼の派手で民衆受けする句を、蕉風じゃないと、嫉妬から批判したり、自分たちの方が正統な蕉風だと言って譲らず、互いが互いの悪口を言い合い、芭蕉を自分たちの方に取り込もうと賄賂めいた贈り物を用意したり、早くも分裂寸前だったことが書かれています。
51歳で亡くなった芭蕉の死を早めた遠因の一つは、この心労にあったのかもしれません。
芭蕉としては、其角は其角、「新しさ」を求める芭蕉の「古池や」の精神さえ持ち合わせていれば立派な蕉風、句姿は問わない、と、最後まで其角を擁護しました。


> 「とはいっても常識を完全に捨て去るのは難しい。詩人としては成功かもしれないが、社会人としてはアウトだ。数人はアウトになって欲しいが(以下略)」
>  このように、常識に囚われないということの難しさについて述べておられます。難しい、ということを認めざるを得ません。
>  では、どうすれば良いのか。
>  私が意識していることは、“常識”を善悪や好悪抜きにして、客観的に見てみるということです。たまには距離を置いて、遠くから眺めてみる。
>  そうすると、自分がどんな世界に生きていて、何に囚われているのかということが、朧気ながらではありますが、見えてきます。
>  このように、常識を抜け出すことはすぐには難しいのですが、常識を「客観視」することなら、努力すればできるようになるかもしれません。この「客観視」という作業が、私にとっての「かろみへの第一歩」かなと、今は考えています。


「常識」をまず知らなければ、それから脱け出すことは出来ませんが、形と共に大事なのはその心。

「常(つねに)風雅にいるものは、おもふ心の色物と成りて、句姿定まるものなれば、取物自然にして子細なし。心の色うるはしからざれば、外に詞をたくむ。是則(すなはち)常に誠を勤ざる心の俗也」(あかさうし)

(自然や事物の現象に接して《心に感ずる》ものが生じた時、それが句というかたちとなり、対象や素材の取り合わせが自然で、言葉や表現に私意による作意がない、素直なよい句が生まれるが、少しも《心に感ずる》ものがないと、「外に言葉をたくむ」、つまり言葉をこねくり回してもっともらしい表現を取り繕うと作意する。私意的な作意をもって作られた句は、俳諧の誠をせめるという姿勢からは遠い。)

「形」と「心」、その両面で「かろみ」を目指していきたいですね!

 

「かろみ」について

 投稿者:南風の記憶  投稿日:2019年 5月 4日(土)16時03分22秒 ai126183094049.57.access-internet.ne.jp
返信・引用
   比々きさん、皆様こんにちは。

 前回、比々きさんが言及された「かろみ」について、自分なりに考えてみました。まだきちんとまとまってはいないので、あくまでも“現時点では”このように捉えている、ということですが……

 北大路翼先生が、次のようにおっしゃっていますよね。

「常識は詩の敵である。常識は脳を委縮し硬直化し、自由な発想を妨げるのである。」

 この“常識に囚われない”ということが「かろみ」だと、私は捉えました。ただ、北大路先生は、続けて以下のようにもおっしゃっています。

「とはいっても常識を完全に捨て去るのは難しい。詩人としては成功かもしれないが、社会人としてはアウトだ。数人はアウトになって欲しいが(以下略)」

 このように、常識に囚われないということの難しさについて述べておられます。難しい、ということを認めざるを得ません。

 半分余談なのですが、Twitter上でやたらと「常識にとらわれない生き方を!」と宣っている人に限って、どこかで見たようなプロフィールと言い回しばかり。「(自分は)常識にとらわれたくない」と思っている人でさえ、何かしらの定型にハマってしまいがちだということの好例だと思います(苦笑)。

 では、どうすれば良いのか。

 私が意識していることは、“常識”を善悪や好悪抜きにして、客観的に見てみるということです。たまには距離を置いて、遠くから眺めてみる。

 そうすると、自分がどんな世界に生きていて、何に囚われているのかということが、朧気ながらではありますが、見えてきます。

 また、これを俳句に落とし込む際には、常識(=人工物)を、季語(=自然)との<対比>に活用しています。

例:紅弁慶揺れて礼服の縦列

 このように、常識を抜け出すことはすぐには難しいのですが、常識を「客観視」することなら、努力すればできるようになるかもしれません。この「客観視」という作業が、私にとっての「かろみへの第一歩」かなと、今は考えています。


 

フルポン村上の俳句修行@たんぽぽ句会

 投稿者:比々き  投稿日:2019年 5月 3日(金)13時33分39秒 softbank060148116079.bbtec.net
返信・引用
  今回は、今年度のNHK「俳句さく咲く!」の講師になった堀本裕樹さん主宰の「たんぽぽ句会」。

ここの句会の特徴は、通常はヤボとされる「自句自解」がオッケーだということ。
堀本さんの弁によれば、「作った本人からしたらめちゃめちゃ気持ちを込めて作ってるので」ということらしいです。
今回も自句自解を聞いて評価を変えた句がありました。

プレバトでも「どんな気持ちで」と、まず司会の浜田さんが訊いて、それに従って添削してますものね。

長谷川櫂さんも本の中で、「作者が苦労して作っている句を、選者がいい加減な気持ちで選句は出来ない」、というようなことを書かれてましたが、作者への愛、選者としての誠意を感じます。

以下、気になった村上さん語録。

「いろんな人がおもしろいかもな、と思える世界観」

「きれいなだけじゃないものが入れ込めないか」

「「僕の周りは美しいだけですよ」って世界は誰のことも引きつけられないじゃないですか。この人にはこんな弱さもあるとか、醜い部分があることを露呈していくから、人は「この人の話なら聞いてみたい」と思うのが小説や短歌にはあるなと思うし、だから僕は好きなんですけど、俳句にもあると思うんですよ。人が見過ごしてしまうものとか、少し斜めから見ることに詩があるっていうか。マイナスって意味ではなく、影があるって意味ではなく、例えば葉の裏側を見るって普通の人にはない感覚を俳句が広げてくれるわけじゃないですか。俳句を目指して、美しい世界をなぞってるだけって少しさみしいじゃないですか。若者がもっと俳句に来るには少しそういう影っぽいのがある方が僕は魅力だな、って思っちゃうかな。」

それに対する堀本さんのコメントも素晴らしい!

是非お読みになってみてください。

フルポン村上の俳句修行
https://book.asahi.com/article/12322828

 

Re: 「何が見えたか」ではなく「“どのように”見えたか」

 投稿者:比々き  投稿日:2019年 4月28日(日)14時45分44秒 softbank060148116079.bbtec.net
返信・引用 編集済
  > No.5121[元記事へ]

>  ただ、ここでポイントになるのは、「描写」ということを理解できているか。もっと言えば、「描写と説明の違い」が分かっているか、ということでしょうか。
>  では、どう区別すれば良いのか。私の理解の仕方では――「何が見えるか」=説明、「どのように見えるか」=描写、というふうに区別しています。


「どのように見えるか」=描写、ここに「その人ならではのオリジナルな把握」が出るので、他に類のないオンリーワンの句になるんですよね!


>  人によって違うでしょうが、私は俳句を詠む時、いつも「自分はなぜそう見えたのか」ということを自問自答します。この自問自答が上手くいった句が入選、不十分な句が落選という結果に最近はなっています。
>  話はそれましたが、この自問自答こそ、先に述べた「自分の心と向き合う」作業になります。これがしっかりできる人は、今のレベルがどうあれ、いずれ俳句が上達していく人だと、個人的には思っています。


「自分はなぜそう見えたのか、そう感じたのか」の「なぜ」は、私の場合もそうですが、どうしても後付けになりがち。
しかもその「なぜ」が、自分でもうまく説明できない時がある(笑)

私の場合句は、画像や動画を見て「おっ」と心が動き、「ここを詠みたい!」と思って「作る」句と、「どこからこんな句が出てきたんだろう?」という、出どころ不明の「浮かぶ」句の二種類があり、特に後者は「自分の心と向き合う」ことが、必ずしも自分理解に繋がらない(笑)
入選の確率はどちらも五分五分。

なので今は「なんでもアリ」で、当落を気にせず、出来たもの、浮かんだものの中から、自分でも「おもしろい!」と思う句を、後は選者のお好み、時の運にお任せで投句しています。


>  言うなれば、「俳句を通してその人が見える」ということでしょうか。そういう人は、確かに俳人として強いのだと感じています。


今、正津勉さんの『乞食 路通 風狂の俳諧師』(作品社)を読んでいるのですが、「芭蕉は世間を捨てることができず、旅もいつも随行者付き、路銀、送迎付きで、遂に風狂になれなかった」、だから風狂を生きた路通のことが心を離れなかった、とあります。

「風雅の徒」とは「月を仰ぎ、月と語り、月と化す」人のことであり、「風狂」とはその「風雅」に徹し、「心を何よりも大事にし、軽々と清々しい心で、どこまでも一人で歩む」人のことだとも。

芭蕉晩年の句境は「かろみ」。
プレバト名人クラスの人たちの句境も、時事を詠みながらも「かろみ」を忘れていない、そんな気がしています。


 

「何が見えたか」ではなく「“どのように”見えたか」

 投稿者:南風の記憶  投稿日:2019年 4月27日(土)22時00分24秒 ai126146114200.53.access-internet.ne.jp
返信・引用
   比々きさん、皆様こんばんは。

 昨日、「型の力」についてコメントさせていただきました。その舌の根も乾かぬうちに(苦笑)、やはり型に言葉を当てはめるだけでは不十分であり、やはり最後は「自分の心としっかり向き合う」という作業が必要であると付記しておきたいと思います。

 なぜ、<「季語とその描写」+「季語を引き立てる措辞」>の型がやりやすいかと言いますと、類想類句を避けやすいということが一つあります。

 例えば、「季語を引き立てる措辞」が10通りあるとすれば、それだけだと10通りの句しか作れません。しかし、ここに「季語の描写」を組み合わせると、単純計算で10×10=100、100通りもの俳句が生まれることになります。

 ただ、ここでポイントになるのは、「描写」ということを理解できているか。もっと言えば、「描写と説明の違い」が分かっているか、ということでしょうか。

 やってみて感じるのですが、「描写と説明」は、確かにその境界線が曖昧なところがあります。例えば、下の句の「燕の口赤し」の「赤し」も、描写といえば描写ですし、説明といえば説明です。

例:燕の口赤し幾百の死骸

 では、どう区別すれば良いのか。私の理解の仕方では――「何が見えるか」=説明、「どのように見えるか」=描写、というふうに区別しています。

 上の句は、燕の口元が赤いということではなく、燕の口元の「赤が強く印章に残った」ということを言いたいのです。

 ではなぜ、そのように見えたのか。答えは、後半の措辞「幾百の死骸」にあります。虫や小動物の数多の死骸。それを見た後だと、あの軽やかに空を飛ぶ燕も、激しい生存競争の中にいるのだと実感します。

 だから、まるで血の痕のようにも見える燕の口元の赤が、私の目に焼き付いたのです。

 ですから、後半部分の措辞を別の物に変えてしまうと、内容によっては「赤し」がただの説明になってしまいます。

例:燕の口赤し高層ビルの底

 人によって違うでしょうが、私は俳句を詠む時、いつも「自分はなぜそう見えたのか」ということを自問自答します。この自問自答が上手くいった句が入選、不十分な句が落選という結果に最近はなっています。

 厄介なのが、そこそこキレイな句が作れた時、この自問自答を疎かにしてしまいがちなのです(苦笑)。明らかに不出来な句は、すぐに推敲しようと思うのですが、それなりに作れてしまうと、これでいいやとそのまま出してしまい、後で「しまった」と思うことが多いです。

 話はそれましたが、この自問自答こそ、先に述べた「自分の心と向き合う」作業になります。これがしっかりできる人は、今のレベルがどうあれ、いずれ俳句が上達していく人だと、個人的には思っています。

 比々きさんへ。

> 私は最近、北大路さん初め何人かのベテランが、「小手先の技術より、人間としての生き様が俳人してるか」、その方が大事だということに妙に納得して、技術より「俳人としての生き様」の方へ関心がシフトしています

 私はまだまだ若輩者で、生き方というほど自分の人生を何も確立していないのですが(苦笑)、一つ言えるのは、自分が生き方下手で色々と苦労もしてきたせいか、なかなか世の中の表には出てこない声に耳を傾け、それを俳句を通して表現したいという思いは強く持つようになりました。

 別に意図したわけじゃないのですが、時事を詠んだ句が入選することが多いですし、また「プレバト!!」を見ていると、描きたいものが確固としてある梅沢さんや東国原さん、村上さんの句はやはり印象に残ります。

 言うなれば、「俳句を通してその人が見える」ということでしょうか。そういう人は、確かに俳人として強いのだと感じています。

https://stand16.hatenablog.com/

 

Re: 少し余談です・・・

 投稿者:比々き  投稿日:2019年 4月27日(土)13時22分37秒 softbank060148116079.bbtec.net
返信・引用 編集済
  > No.5119[元記事へ]

>  ご紹介いただいた、北大路翼さんの著書「生き抜くための俳句塾」、私も購入して読ませていただきました。
>  特に印象的だったのは、「お前らは感動の仕方が分からないんだ」というフレーズでした。確かに! どうしても感情を抑え込んでしまいがちですし、感情を出さないことこそ社会人の美徳(?)とさえ言われがちな風潮さえあります。
>  私もそうだったのですが、俳句を始めたことで、久しぶりに自分本来の感情を取り戻したという方も多いのではないでしょうか。


私もこのフレーズにはドキンとしました。
「感動」こそが生きている証なら、「感動」の無い日々は生きていても、死んでいるようなもの。
別に大きな感動でなくても、「あっ」「おおっ」「ほぅー」「へぇー」「ん?」「おやっ?」など違和感も含めて、心が揺れる瞬間は、生きていれば必ずあるはず。
俳句の命、核も、そこにある、そんな気がしています。

兼題で作る場合でも、感動も無いのに、いきなり頭をフル回転してしゃかりきに場面をでっちあげるのではなく、まずは写真や動画などを見ながら、情報を調べながら、「あっ」「おおっ」「ほぅー」「へぇー」と、どこで自分の心が揺れるか、それを見守る。
そうやって、「私はここに感動したんだ、ここに心が動いたんだ」というところだけを詠もうと決めています。

感動が、俳句に「命」や「生動」のエネルギーを吹き込む。
理性、頭脳優位で、感動も無しで頭で作ることに慣れてしまうと、句も死ぬ、そんな気がしています。


>  この句をひらめいた時、「菠薐草」が青いのは「当たり前」だと言われそうな気もしたのですが、「もんじゅの五キロ圏」という場所を考えた時、菠薐草の「青」が、何かを訴えかけているように思えてならなかったのです。だから、ここは「青し」以外ありえないと、私の中では思っていました。
>
>  これが選ばれた時の嬉しさったら。やっぱり組長は分かってくれた、「青し」に込めた意味をちゃんと読み取ってもらえたのだと、とても感激していました。
>
>  「青し」という言葉自体はごく普通の表現ですが、普通の表現であってもそこに「思い」がこもっていれば、ちゃんと読み取ってくれるのが<俳人・夏井いつき>なのだと、強く実感した出来事でした。


「思い」がこもっている句は、必ず人の心を動かすエネルギーのポテンシャルを秘めている、私もそう思います。
俳句は「創作」ですが、嘘もホントのように感じられるのは、まさにそこに「思い」がこもっているから。
「思い」や「心」「感動」「気持ち」「感情」「違和感」、これらは全て「目に見えないもの」。
それら「目に見えないもの」を、何とか伝えようとしたのが、言葉の始まりであり、歌や詩の始まりであった、そんな気がしてなりません。

 

少し余談です・・・

 投稿者:南風の記憶  投稿日:2019年 4月27日(土)03時53分47秒 ai126183059202.57.access-internet.ne.jp
返信・引用
   比々きさん、(掲示板では)お久しぶりです。いつもコメントありがとうございます。

 ご紹介いただいた、北大路翼さんの著書「生き抜くための俳句塾」、私も購入して読ませていただきました。

 特に印象的だったのは、「お前らは感動の仕方が分からないんだ」というフレーズでした。確かに! どうしても感情を抑え込んでしまいがちですし、感情を出さないことこそ社会人の美徳(?)とさえ言われがちな風潮さえあります。

 私もそうだったのですが、俳句を始めたことで、久しぶりに自分本来の感情を取り戻したという方も多いのではないでしょうか。

 先ほどの投稿について、少し余談を……

 今までの人選で、最も印象深かった回を一つ選ぶとしたら、兼題「菠薐草」です。

 この句をひらめいた時、「菠薐草」が青いのは「当たり前」だと言われそうな気もしたのですが、「もんじゅの五キロ圏」という場所を考えた時、菠薐草の「青」が、何かを訴えかけているように思えてならなかったのです。だから、ここは「青し」以外ありえないと、私の中では思っていました。

 これが選ばれた時の嬉しさったら。やっぱり組長は分かってくれた、「青し」に込めた意味をちゃんと読み取ってもらえたのだと、とても感激していました。

 「青し」という言葉自体はごく普通の表現ですが、普通の表現であってもそこに「思い」がこもっていれば、ちゃんと読み取ってくれるのが<俳人・夏井いつき>なのだと、強く実感した出来事でした。
 

Re: 型の力

 投稿者:比々き  投稿日:2019年 4月27日(土)01時22分47秒 softbank060148116079.bbtec.net
返信・引用
  > No.5117[元記事へ]

>  私がよく使う型は、<「季語と描写の言葉」プラス「季語を引き立てる措辞」>の“取り合わせ”です。この型を使うようになってから、俳句のレベルが安定してきました。「型」には、ごちゃごちゃとまとまらない思考を整理していく働きがあるように感じます。

> 菠薐草|青し|もんじゅの五キロ圏

> 燕の口|赤し|幾百の死骸

> 桜鯛|清ら|水俣の百年

>  以前の私のように、なかなか良い句が浮かばず悩んでおられる方がいらっしゃいましたら、まずは「型」に言葉を当てはめていく作業を試してみるのも、一つの方法かなと思います。


南風の記憶さん、いい提案をありがとう!

上記3句いずれも《季語|その描写|季語と関係の無いモノ・コト》で、「取り合わせ」の「型」のまさに「王道」ですね!

今までの「取り合わせ」の公式というと、《季語|季語と関係の無いモノ・コト》でしたが、そこに《季語の描写》を一言プラスしたのが南風の記憶さんの工夫。

同じ「取り合わせ」でも、単に《季語|季語と関係の無いモノ・コト》を取り合わせただけでは並選止まりですが、そこに一言《季語の描写》を入れるだけで人選にアップするんですね。

これは活用しない手はありません!

私は最近、北大路さん初め何人かのベテランが、「小手先の技術より、人間としての生き様が俳人してるか」、その方が大事だということに妙に納得して、技術より「俳人としての生き様」の方へ関心がシフトしています。

そこから明治維新以降入ってきた、破壊的で人間優位の西欧的自然観から、人間も他の動植物も対等な日本的共生の自然観に立ち返り「野性の思考」や「野性の感覚」を取り戻すべく、中沢新一さんの『野性の科学』(講談社)やら『古代から来た未来人 折口信夫』(ちくまプリマー新書)やらを読んで、「詩」のそもそもの起源や、文学や芸術の起源など、いろいろ調べているところ。

上記の『古代から来た未来人 折口信夫』には、文学や芸能や宗教の発生の根源には「異質な体験」があり、

「おたがいに違っているように見えるものどうしの間に、何かの共通点が発見されたときに、ふたつの異質なものを重ね合わせて、新しい詩的な意味が生まれてくる」34p

「異質なものを重ね合わせると、新鮮なイメージが発生する」35p

「異質なものを一つにつないだところに出現する驚きやおもしろさが、文芸の本質なのである」37p

などなど、まさに俳句で言うところの「取り合わせ」が「詩及び文学の発生・起源」と大きな関係があることを知って驚いているところです。

俳句は、もしかしたら人間を本来の自然の姿に戻す力を持った、もっともプリミティブな文芸なのかも、などと思ったりしています。

お互いの発見を、これからもシェアして、一緒に俳句のなんたるかに少しでも近づいていけたら、こんなに嬉しいことはありません。

これからも、南風の記憶さんの発見、楽しみにしていますね!




 

型の力

 投稿者:南風の記憶  投稿日:2019年 4月26日(金)17時11分6秒 ai126183059202.57.access-internet.ne.jp
返信・引用
   比々きさん、皆様こんにちは。

 この頃、よく「型の力」ということを考えます。先日の通販生活の「燕」と「俳句ポスト365」の「桜鯛」、いずれも一句ずつ人選をいただいたのですが、実は「コレ俳句作れないんじゃないか」と思ってしまうほど、私にとっては難しい兼題でした。

 しかし、「型」に言葉を当てはめることで、何とかそれなりのレベルの句を詠むことができました。

 私がよく使う型は、<「季語と描写の言葉」プラス「季語を引き立てる措辞」>の“取り合わせ”です。この型を使うようになってから、俳句のレベルが安定してきました。「型」には、ごちゃごちゃとまとまらない思考を整理していく働きがあるように感じます。

 もっとも、得意の「型」を習得するまでには、それなりに試行錯誤も重ねました。この「型」を習得できたのは、以前の俳句ポストの兼題「菠薐草」です。

菠薐草青しもんじゅの五キロ圏(「人」選句)

 先日の「燕」と「桜鯛」も、同じ型を使っています。

燕の口赤し幾百の死骸

桜鯛清ら水俣の百年

(いずれも「人」選句)

 以前の私のように、なかなか良い句が浮かばず悩んでおられる方がいらっしゃいましたら、まずは「型」に言葉を当てはめていく作業を試してみるのも、一つの方法かなと思います。
 

Re: ありがとう!

 投稿者:比々き  投稿日:2019年 4月13日(土)11時26分16秒 softbank060148116079.bbtec.net
返信・引用
  > No.5115[元記事へ]

> 比々きさん、ありがとう。
> ちょっと強引な取り合わせでしたが、久々の金曜日で嬉しいです。

今見たら「一句一遊」も金曜日、W金曜日の快挙、こちらもおめでとう!
 

ありがとう!

 投稿者:トポル  投稿日:2019年 4月13日(土)10時21分42秒 42-147-96-133.rev.home.ne.jp
返信・引用
  比々きさん、ありがとう。
ちょっと強引な取り合わせでしたが、久々の金曜日で嬉しいです。
 

「サイネリア」地選、トポルさんおめでとう!

 投稿者:比々き  投稿日:2019年 4月12日(金)11時19分13秒 softbank060148116079.bbtec.net
返信・引用
   除光液の臭ひの隅にサイネリア トポル

常々組長も「五感+第六感」でと仰ってますが、五感のうち視覚、嗅覚、Wで訴えたのが功を奏したんですね!

「除光液」と「サイネリア」の取り合わせも、意外性があって新鮮。

人選2句と合わせて3句入選も、おめでとう!です。

 

Re: 春光戦

 投稿者:比々き  投稿日:2019年 4月 5日(金)13時20分35秒 softbank060148116079.bbtec.net
返信・引用 編集済
  > No.5112[元記事へ]

> 比々きさん、今晩は!
> 『プレバト!』録画で先ほど拝見しました。
> お題を見た瞬間「村上得意そう」と思いました(笑)。


めぐるさん、こんにちは!
彼は短歌もやっているので、元から言葉に対する感性が鍛えられていて、短歌との比較で、俳句は何を詠むものなのか、どのように詠むものなのかの呑み込みが、やっていない人よりしっかり解っている、そんな気がします。
推敲する時間もたっぷりあったようなので、それも幸いしたかも(笑)

また、毎月宗旨の異なる色々なところの句会に参加して、そこで見聞きし、学んだことも、今回の句にきっと反映されたのでは。

彼を尊敬している鈴木光ちゃんが遠からずコツを呑み込むでしょうから、来季は手ごわいライバルになるでしょうね。


> 梅沢さんも暖かい拍手を送っておられましたね。


そこがおっちゃんの愛されるところ。
慢心は演技で、実は内心では、意外と戦々恐々としているのでは(笑)

人の顔色や空気を読むことに神経疲れして、本音を言うのをつい我慢しがちな今の人たち。
そういう人にとって、梅沢さんの、人の顔色や空気を読まない傍若無人で、お茶目な言動は、ガス抜きにもなっているでしょうし、きっと羨ましいはず。
プレバトを見て、こういう常識を軽々と乗り越え、のびのびと言いたいことを云う大人もアリなんだと、俳句人口だけでなく、突き抜けた俳人格を持った大人が増えていけばいいな~、などとと思ったりしています。


> 私は横尾くんの句が一番好きでした~~~、「八重桜」効いていますね!
> なんか泣きそうになりました。


句に籠めた思いの深さでは、一番でしたね。


> 「銀漢亭」素敵なところですね!!大人の句会、憧れます!!


お客さんの8割は俳句関係者なのだとか。
平日のみの営業なのですが、是非一度行ってみたいところ。

村上さんには、新宿歌舞伎町の砂の城でやっている北大路翼さんの屍派の句会にも、いつか是非参加してほしいと思っています。

 

春光戦

 投稿者:めぐる  投稿日:2019年 4月 5日(金)02時22分8秒 101-142-238-241f1.osk1.eonet.ne.jp
返信・引用
  比々きさん、今晩は!
『プレバト!』録画で先ほど拝見しました。
お題を見た瞬間「村上得意そう」と思いました(笑)。
梅沢さんも暖かい拍手を送っておられましたね。
私は横尾くんの句が一番好きでした~~~、「八重桜」効いていますね!
なんか泣きそうになりました。

「銀漢亭」素敵なところですね!!大人の句会、憧れます!!
 

フルポン村上の俳句修行@銀漢亭

 投稿者:比々き  投稿日:2019年 4月 4日(木)23時46分38秒 softbank060148116079.bbtec.net
返信・引用 編集済
  プレバト春の「春光戦」で見事優勝したフルーツポンチ村上さん。
今回は、かの有名な神保町銀漢亭での句会。
ここは、是非一度行きたいと、私が前から目を付けていたところ。

https://blogs.yahoo.co.jp/imaimamama/62627011.html?__ysp=6YqA5ryi5LqtIOelnuS%2FneeUug%3D%3D

年配のベテランに混じって、さて結果はいかに。
詳細は、以下で。

https://book.asahi.com/article/12261026

 

虚子と秋櫻子

 投稿者:比々き  投稿日:2019年 4月 1日(月)17時36分20秒 softbank060148116079.bbtec.net
返信・引用 編集済
  『新興俳句アンソロジー』、及び近代俳句の周辺をあれこれ逍遥して、思ったこと。

生きているということは、変わり続けること、同じではいられないということ。

虚子は、一見変わり映えのしない平凡な日常や自然界の中にも、「生きている」証である小さな変化があり、多くの人がともすれば見逃すその些細な変化、それを「観察」によって見つけることに意義と喜びを感じ、満足できる、そういうどちらかと言えば恬淡無欲な体質だったのだと思う。

また、俳句の裾野を広げ、普及するには、自然と日常が素材であれば、特別な教育も教養もいらないので、一般庶民もとっつきやすいだろう、そう考えたかもしれない。

一方、虚子より18歳若く、東大出の医者で、教養に溢れていた秋櫻子は、変り映えのしない日常の些細な変化や自然を詠むことに物足らなさを感じ、「庶民の文芸」ではなく、もっと尊敬と憧憬の対象となる「文学」に、俳句を格上げしたかった。

でもそれでは、一部の教育、教養のあるインテリ層には受け入れられても、庶民には手の届かない、敷居の高いものになる。

敷居を低いものにして、俳句の裾野を広げたい虚子には、だから秋櫻子の目指す句は、素直にウンとは言えるものではなかった。

俳句の裾野を広げ、教育の有る無し、教養の有る無しにかかわらず、誰でも参加できる「庶民の文芸」にしたかった虚子。

個人として人を瞠目させ、「文学」作品として尊敬と高い評価を得たかった秋櫻子。

自然の一部として、人間を他の動植物より優位に置かなかった虚子。

西欧の価値観を強く意識していた秋櫻子は、もしかしたら無意識の内に人間優位の西欧的自然観の影響を受けていたかもしれない。

自然=人間、自然<人間。

たぶん二人の齟齬は、こんなところにあったのではないだろうか。

実は虚子も、子規から(俳句分類などの仕事を引き継ぐ)後継者になって欲しいと言われ、それがどうしても受け入れられず、最後は自分の心の声に従うほうを選び、申し出を断った。

秋櫻子も、虚子の俳句観とその目指す方向性に疑問を持ち、結果的に自分の心の声に従った。

自分の嘘偽りのない心の声に従ったという点では、二人は全く同じである。

時々刻々、時とともに、人は生きていれば変わらざるを得ない。
その時、その時の自分の本心と向き合い、その本心の指し示すほうへ迷わず舵をきる、それによって友情に罅が入り、決裂することになっても、情実に負けない。
作品以上に、こういう生き方、生きる姿勢そのものが、実は「俳句」なのではないか。

作品は、そういう作者の生きざまの反映に過ぎない。
北大路翼さんもこう言っている。

「技術だけ勉強しても無駄だよ。まずは自分を磨くことが俳句上達の近道だ。生き様が俳句になっている人を俳人と呼ぶ。」(『生き抜くための俳句塾』11p)


 

「俳句王国がゆく」投句募集中

 投稿者:比々き  投稿日:2019年 3月30日(土)22時19分48秒 softbank060148116079.bbtec.net
返信・引用
  4月からリニューアルするEテレ「俳句王国がゆく」。
組長選で俳句を募集しています。
結果はホームページでも発表されるとのこと。

兼題は「上がる↑下がる↓」。
気持ちや気分が思わず「上がった・下がった」エピソードを詠み込んだ句、だそうです。

詳細はこちらから。
https://www4.nhk.or.jp/haiku/

応募フォーム
https://cgi2.nhk.or.jp/prog/form.cgi?p=P240&tb=f2&f=P240

次回放送は、4月21日(日)午後2:30~3:13です。





 

Re: 描写と説明の違いについて

 投稿者:比々き  投稿日:2019年 3月25日(月)18時43分35秒 softbank060148116079.bbtec.net
返信・引用 編集済
  > No.5107[元記事へ]

>  一口に「(ボールを)打つ」といっても、これだけのニュアンスの違いがあります。そのニュアンスの違いこそ、俳句でいうところの「作者の実感のこもった描写」ということになるのではないか、と自分なりに考えてみました。


おっしゃるとおりですね!

自分の五感+第六感が感じとった「微妙なニュアンス」、それを、どうしたら読者にも共有してもらえるだろうか?

そこの工夫が、俳句を俳句たらしめている、そんな気がします


>  ところで、中断していた“裏プレバト”も、最近再開しています(苦笑)。以前よりも更新頻度を速くするため、かなりシンプルな造りにしました。また、「プレバト!!」で生まれた名句も、毎回紹介しています。
>
>  人様の参考になるというよりも、自分自身が勉強になっていますね(笑)。


経験から、「書く」という作業は、ただ読むだけより、はるかに記憶の歩留まりをよくするだけでなく、「発見」や「気づき」を促す、そういう大事な働きをするのでは、と思っています。

南風の記憶さんも、続けるうちに、俳句のコツが知らぬ間に身についていく、そんな気がします。

これからは、「描写の工夫」、そこに注目しながら、ブログを楽しみに読ませて頂きますね!

 

描写と説明の違いについて

 投稿者:南風の記憶  投稿日:2019年 3月25日(月)00時18分28秒 ai126244151245.61.access-internet.ne.jp
返信・引用
   比々きさん、皆様こんばんは。

 比々きさん、私の紹介した『俳句 -人生でいちばんいい句が詠める本-』を取り上げてくださり、ありがとうございます。私自身、まだ内容を消化しきれたとは言い難いのですが(汗)、自分なりに考えたことを少し。

 ご承知の通り、私は今野球小説を書いています。野球ですので、バッティングの場面を書く必要があるのですが、私は意図的に(ボールを)「打つ」という表現を使いません。同じ「打つ」でも、表現したいニュアンスが場面ごとに変わってくるからです。

 例えば、次のような表現になります。

・弾き返す……飛んでいくボールに焦点を当てたい時。

・捉える……ボールがバットの芯に当たった瞬間に焦点を当てたい時。

・振り抜く……ボールよりも、バットの動きと打者の動作に焦点を当てたい時。


 一口に「(ボールを)打つ」といっても、これだけのニュアンスの違いがあります。そのニュアンスの違いこそ、俳句でいうところの「作者の実感のこもった描写」ということになるのではないか、と自分なりに考えてみました。

 ところで、中断していた“裏プレバト”も、最近再開しています(苦笑)。以前よりも更新頻度を速くするため、かなりシンプルな造りにしました。また、「プレバト!!」で生まれた名句も、毎回紹介しています。

 人様の参考になるというよりも、自分自身が勉強になっていますね(笑)。

https://stand16.hatenablog.com/

 

Re: 【俳壇時評】俳句の分かりやすさ 

 投稿者:比良山  投稿日:2019年 3月23日(土)08時34分42秒 sp49-106-213-48.msf.spmode.ne.jp
返信・引用
  > ただ作り手の中には「難解なのが詩」と思い込み、詩人気どりで、わざと分かりにくく表現する輩もいるようなので、そこは注意深く峻別する必要があるかもしれませんね。
>
> 私の場合、「一読すぐわかる」句や「なにを言おうとしてるんだか、さっぱり見当がつかない」句より、「わかりそうで、わからない。わからなそうで、なんとなくわかる」句、手を伸ばせばギリギリ届きそうな句、そんな微妙な句に魅かれます。
> 言い換えれば、読み解く意欲に火を付けない句より付ける句かな。
>
>
> > 以上ですが、最後の部分は俳人の目線での意見ですからさすがに私には高度過ぎて
> > 完全には理解できません。正直言って私の鑑賞力では例えば俳句ポストの「天」や「地」の句に理解できないものが多くあり、ましてやこれが理解できなくては自分に「天」や「地」の句が詠めるはずもないと半ば諦めの境地で投句しているのが現状です。著者の言う俳句の「大衆化」のおかげで俳句らしきものを曲がりなりに作って投句して時々選をいただいて一喜一憂しているわけでして。
> > この著者の憂いが本当にわかる日が私には来るのでしょうか?(笑)
>
>
> 鑑賞をやっていると、最初は解らなくても、「書いているうちに」解ってくることがしばしば。
> 一読して「わかる・わからない」と決めつけるのではなく、解らないながら、「ああかな、こうかな」と、とにかく「書いてみる」。
> 830人ほどの句を鑑賞してきた経験から、「わかる」ためには「書く」という作業は欠かせない、と感じています。
>
> 是非比良山さんにも、「読む」だけでなく、鑑賞文を「書いてみる」、そのことを強くお勧めしたいと思います!
>
比々きさん。早速のアドバイスありがとうございます。
俳人や評論家の先人の句の鑑賞文は出来るだけ読みたいと思っていましたが、自分で書いてみるということは考えにも及びませんでした。もっとも、お世話になっています「るるる句会」では出来るだけ全句選評を書くようにしていますがわからない句は鑑賞力不足を言い訳にしてなおざりにしてしまい、礼を失することが多いです。これからは多作多捨多作鑑賞文に努めたいと思います。
 

Re: 【俳壇時評】俳句の分かりやすさ 

 投稿者:比々き  投稿日:2019年 3月23日(土)00時38分50秒 softbank060148116079.bbtec.net
返信・引用 編集済
  > かねてから俳句について分かりやすさについて気になってはいたのですが、
> 自分が選句する場合どうしても分かりやすい句に目が行きがちで
> 俗に言うわかりにくい句については自分の鑑賞力の限界かと敬遠してしまい
> がちでした。そんな中、俳句の分かりやすさについての記事を見つけました。


比良山さん、いつもながら有益な記事のご紹介、ありがとうございます。

私も今「新興俳句」繋がりで俳句の「近代」について調べている中で、丁度長谷川櫂さんの『俳句の宇宙』(中公文庫)2回目を読み終わったところ。
まさにこの本の序章、1、2章で述べていることも、その点でした。

俳句が「わからない」理由には、主に3つあると言われています。

「俳句質問箱」(3番目「俳句を読んでも、よく分らないのですが」参照)
http://www.geocities.jp/haikunomori/faq.html#q03

・作者に責任がある場合
・読者に責任がある場合
・両者の間に縁がなかった場合

それに付け加えて長谷川さんがあげているもう一つの理由は、

・「場」を共有できない場合

長谷川さんも芭蕉の「古池や蛙飛びこむ水のおと」を初めて聞いたとき「芭蕉という人は、いったい、何が面白くてこんな句をよんだのだろうと不思議に思った。」(7p)のだそうです。

> 内容が分かりやすければ、その句の「よさ」も当然分かりやすいもの、

とはならなかったんですね。

長谷川さんはその理由を次のように述べています。

《この句を初めて読んだとき、何かもどかしかったのは、古池の句をとりまいていたはずの当時の「場」の大半が、『古今集』の歌も、其角の進言も、山吹も、長い年月のかなたに飛び去ってしまっていて、即座に芭蕉や其角たちがいた「場」に参加できなかったからだ。支考の『葛の松原』に出会わなければ、このもどかしさは、いつまでも解けなかっただろう。》(10p)

《芭蕉の古池の句は、もともと当時の俳諧という「場」に深く根ざしたものだった。時間とともに、その「場」が失われてしまうと、この句が本来もっていた和歌や当時の俳諧に対する創造的批判という意味が見えなくなってしまった。》(同)

《そして、残ったのは、古池にカエルが飛びこんで水の音がした―――ただ、これだけである。(中略)
 それではなぜ、「古池に蛙の飛込む音を聞きたり」という部分だけが残ったのか。
 それは今でも芭蕉の時代と同じように古池がありカエルがいるからである。
 当時の俳諧という「場」が時間のかなたに失われてしまうとともに、そこに根ざしていた古池の句の創造的批判という部分は消えてなくなってしまったが、古池やカエルのような今も変わらずある自然という「場」に根ざした部分だけは残った、といえないだろうか。》(11p)

《古池の句は、俳句には十七字の言葉のほかに、言葉にならない「場」というものがあって、俳句の言葉は「場」を前提にしているということを教えてくれる。》(同)

《そして、俳句がわかるには、俳句の言葉がわかるだけでなく、その俳句の「場」がわからなければならない。俳句の「場」に参加しなければならない。いいかえると、俳句が通じるためには、作り手と読み手の間に「共通の場」がなければならない。
 俳句にとっては言葉と同じくらい、言葉以前の「場」が問題だ。そして俳句を読むということは、その「場」に参加することなのだ。》(12p)

《 桔梗(きちこう)の花の中よりくもの糸

素十のこの句を初めて見たときから、よくわかったのは、そんな少年の日のキキョウやクモの記憶があって、素十がキキョウを見ている「場」へすぐに行けたからだ。(中略)この句の「場」であるキキョウやクモのいる自然が今のところ、どこにでもありふれた空気のようなものだからだ。(中略)
 もし将来、キキョウという種が滅び、人々の記憶から消えてしまう日が来れば、この句はだれにもわからない句になる。(中略)
 だが、そこまで考えなくても、キキョウの花を見たこともない外国人なら、たとえこの句の言葉が読めたとしても、何のことかわからないだろう。それと同じで、自然破壊や都市化がこのまま進み、キキョウの花を知らない子供や大人が増えれば、この句の通じる範囲はそれだけ狭くなる。》(14、5p)

《この句はキキョウやクモを知っている人ならだれにでもわかるし、またキキョウやクモが地上にある限り、半永久的に人々にわかる。
 それは、この句が自然以外のものを何も「場」にしていないからだ。この句は『古今集』の歌のようなものを前提としていない。(中略)時代背景からも完全に切れている。
(略)この句の強さは、おそらく句の「場」から自然以外の不純物をすべて削り落としているところにあるのだろう。(中略)
 どこにでもある自然だけを俳句の「場」にしようとしたこと―――そこに子規以降、近代俳句のひとつの巧知をよみとることもできる。》(16、7p))

《俳句の言葉は、自然や人生といった「場」の上でプラズマのように活性化する。これは俳句が紛れもなく言葉でありながら、言葉だけでできているのではないということである。
 ここが俳句の他の文芸といちばん違うところ、いわば俳句の俳句性の根ではないだろうか。(中略)
 俳句は「俳句」としか呼びようがない。
 俳句に対する勘違いの多くは、俳句は言葉だけでできている、一行の詩である、という思い込みから出発している。
 ことに俳句の近代は、言葉が自然や人生といった「場」と一体になって働く俳句の独自性などお構いなしに、たとえばワイルドの芸術至上主義のような欧米の文学理念を無理に俳句に押しつけて、俳句というものを理解しようとしてきた。
 俳句を西欧流の「芸術」にまで押し上げるためにはそうせざるをえなかったのだ。その結果俳句の独自性は無視しなければならなかった。俳句が「場」のような言葉以前のものをひきずっていることが恥ずかしかったのだ。》(38、9p)

《「場」を認めない、一行詩としての俳句がどういう形をとるか、それは大きく分けて、二つしかないだろう。
 言葉は本来あいまいなものであり、あいまいな言葉を活性化するのは文脈と「場」しかない。そこで「場」を認めないとすれば、文脈に依存するしかない。つまり、叙述し説明する俳句。これが第一のタイプ。
(中略)
 次に、「場」を認めない俳句が文脈にも依存しないとすれば、その俳句の言葉はあいまいなまま留まるしかない。これが第二のタイプ。
(略)読み手との間の、たとえば自然のような「共通の場」を認めないから、他の人には意味あり気な言葉の羅列としか見えない、難解な句だ。》


舌足らずな「説明」になるか、「意味ありげな言葉の羅列」になるか、いづれにしても「わからない」句になることは必至。

長谷川さんは、西欧に対する「劣等感」から、西欧に追いつけとばかりに、近代俳句が追い求めてきた、西欧の詩の亜流のような俳句を、西欧はむしろ認めないだろう。むしろ日本という「場」と一体となった、特殊性、土着性、固有性、オリジナリティが前面に出た俳句、それこそを、他に類を見ない唯一無二のものとして認めるだろう、と言っています。


>  分かりやすさを求めることは、不特定多数の人々が理解できるレベルで句を詠め、ということを含意している。その結果、俗情俳句が増えるだけではない。俳句のいわば切り詰めが生じる。すなわち俳句の持っている豊かさが、切り詰められるのではないか。その豊かさとは、わかりやすく分析的に説明することの難しいもの、混沌としたもの、分析するとその面白さが消滅してしまうようなものである。これらが俳句の世界から、駆逐されてしまわないことを願う。(完)


ただ作り手の中には「難解なのが詩」と思い込み、詩人気どりで、わざと分かりにくく表現する輩もいるようなので、そこは注意深く峻別する必要があるかもしれませんね。

私の場合、「一読すぐわかる」句や「なにを言おうとしてるんだか、さっぱり見当がつかない」句より、「わかりそうで、わからない。わからなそうで、なんとなくわかる」句、手を伸ばせばギリギリ届きそうな句、そんな微妙な句に魅かれます。
言い換えれば、読み解く意欲に火を付けない句より付ける句かな。


> 以上ですが、最後の部分は俳人の目線での意見ですからさすがに私には高度過ぎて
> 完全には理解できません。正直言って私の鑑賞力では例えば俳句ポストの「天」や「地」の句に理解できないものが多くあり、ましてやこれが理解できなくては自分に「天」や「地」の句が詠めるはずもないと半ば諦めの境地で投句しているのが現状です。著者の言う俳句の「大衆化」のおかげで俳句らしきものを曲がりなりに作って投句して時々選をいただいて一喜一憂しているわけでして。
> この著者の憂いが本当にわかる日が私には来るのでしょうか?(笑)


鑑賞をやっていると、最初は解らなくても、「書いているうちに」解ってくることがしばしば。
一読して「わかる・わからない」と決めつけるのではなく、解らないながら、「ああかな、こうかな」と、とにかく「書いてみる」。
830人ほどの句を鑑賞してきた経験から、「わかる」ためには「書く」という作業は欠かせない、と感じています。

是非比良山さんにも、「読む」だけでなく、鑑賞文を「書いてみる」、そのことを強くお勧めしたいと思います!

 

【俳壇時評】俳句の分かりやすさ 

 投稿者:比良山  投稿日:2019年 3月22日(金)14時54分40秒 sp49-104-16-211.msf.spmode.ne.jp
返信・引用
  比々きさん。いつも有意義な記事の掲載ありがとうございます。
いつも拝見させていただいております。
今年の俳壇4月号でおもしろい記事を見つけましたので久しぶりに書き込みさせて
いただきます。
かねてから俳句について分かりやすさについて気になってはいたのですが、
自分が選句する場合どうしても分かりやすい句に目が行きがちで
俗に言うわかりにくい句については自分の鑑賞力の限界かと敬遠してしまい
がちでした。そんな中、俳句の分かりやすさについての記事を見つけました。
以下、タイトルは俳壇時評「俳句の分かりやすさ」中村雅樹氏 俳壇2019年4月号P38-39から抜粋しております。

【冒頭】
最近はとかく分かりやすさが求められることが多い。政治経済の複雑な問題を、わかりやすく解説することで定評のある評論家もいる。大学においても、難しいことをわかりやすく説明する力がないと、学生からも高評価は得られない。俳句においても同様であろう。誰にでもずっと分かるような句を詠むことが、多くの結社において、作句の際の基本と考えられているようだ。(略)
【四つの分類】
①内容がよく理解できるし、その句の「よさ」もよく分かる。
②内容はよく理解できるが、その句の「よさ」が分からない。
③内容は十分理解できないが、その句の「よさ」は何となく分かる。
④内容も理解できないし、その句の「よさ」も全くわからない。

本来、分かりやすい句というのは、多くの場合①の句のことであり
分かりにくい句というのは、④の句の場合であろう。
 言うまでもなく、この分類は、内容の理解と「よさ」の理解とは別物である。という前提のもとでの分類である。もちろん、「よさ」が分かるためには、その句の内容の理解は欠かせない。両者が無関係であると言っているわけではない。ただここで混乱が生じる。内容が分かりやすければ、その句の「よさ」も当然分かりやすいもの、と考えられがちになるということだ。その結果、分かりやすい「よさ」が氾濫する。かつて藤田湘子は口うるさく「俗情」を排斥したが、例えば、その「俗情」と結託したような「よい」句が氾濫するのである。
 分かりやすい句が求められるようになったのには、理由がある。一言で言えば
俳句の大衆化である。(略)

【著者が言いたい問題点】
(略)虚子が「花鳥諷詠・客観写生」と旗幟を鮮明にしたことは、当時のエリートのみならず一般大衆に俳句を広めるうえで、実に画期的なことであった。「大衆文学」
という言葉が定着する一方で、俳句の大衆化に勢いがつくというのも、全くの偶然ではないであろう。
 皆さんがよく知っている、春夏秋冬の自然を詠みなさい。その自然に従いながら生きている、わたしたちの生活を詠むんですよ。難しいことを言ってはいけません。自分の理屈や思い込みを先に立てて詠むのではなく、あるがままの対象をよく見て、素直に詠みなさい。特別な才能や教養はなくても大丈夫です。俳句は誰でも詠むことができます。
 もちろん、「花鳥諷詠・客観写生」のモットーのもと、名句ばかりが生まれるわけではない。②の句ばかりが増えるに決まっている。詠まれている内容は、よく理解できるのであるが、その句の「よさ」があるのか、ないのか分からない、というような句である。事実を述べているだけの平浅な只事俳句の氾濫である。
 しかし、いっそう問題なのは、①の句の多くの部分を、俗情に基づく分かりやすい「よい」句が占める、ということではないだろうか。これは何も「ホトトギス」に限らない、俳句が大衆化すると、必ず起こる傾向であろう。このような句は、分かりやすいだけに人々の心をも摑みやすい。現代の俳句が抱える問題の一つはここにあるように思われる。
 分かりやすさを求めることは、不特定多数の人々が理解できるレベルで句を詠め、ということを含意している。その結果、俗情俳句が増えるだけではない。俳句のいわば切り詰めが生じる。すなわち俳句の持っている豊かさが、切り詰められるのではないか。その豊かさとは、わかりやすく分析的に説明することの難しいもの、混沌としたもの、分析するとその面白さが消滅してしまうようなものである。これらが俳句の世界から、駆逐されてしまわないことを願う。(完)

以上ですが、最後の部分は俳人の目線での意見ですからさすがに私には高度過ぎて
完全には理解できません。正直言って私の鑑賞力では例えば俳句ポストの「天」や「地」の句に理解できないものが多くあり、ましてやこれが理解できなくては自分に「天」や「地」の句が詠めるはずもないと半ば諦めの境地で投句しているのが現状です。著者の言う俳句の「大衆化」のおかげで俳句らしきものを曲がりなりに作って投句して時々選をいただいて一喜一憂しているわけでして。
この著者の憂いが本当にわかる日が私には来るのでしょうか?(笑)
 

Re: 俳句に“少し慣れてきた方”にオススメです。

 投稿者:比々き  投稿日:2019年 3月14日(木)14時36分47秒 softbank060148116079.bbtec.net
返信・引用 編集済
  > No.5098[元記事へ]

>  最近、八木健先生の監修による『俳句―人生でいちばんいい句が詠める本―』(主婦と生活社)を書店にて購入し、読んでいます。この本は、俳句の大事なポイントがコンパクトにまとめられていて、俳句歴の浅い方にも読みやすい構成となっています。


読んでみました。
これ、今まで読んだ入門書の中で、私的にはベスト1です。
これ1冊あれば十分、というような中身の濃さ。
しかも、今までの「ことばでごちゃごちゃ説明した」アカデミックな入門書と違い、おそろしく分かりやすい!

「百聞は一見に如かず」と言いますが、要所要所が絵で図解してあるので、難なく頭に入ってきます。
井上ひさしの「「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく、おもしろいことをまじめに、まじめなことをゆかいに、そしてゆかいなことはあくまでゆかいに」を地でいっています。


>  もっとも、俳句の“ハの字”も知らなかった半年前にこの本を読んでいたら、細かすぎて難しく感じてしまったかもしれません。多少、俳句をかじってきてた今だからこそ、理解できます。


見かけはものすごく分り易く書かれているので初心者向きのようですが、テクニックだけでなく、俳句のこころ、俳句とは何ぞやがきちんと押さえられているので、句歴を重ねた人でも、ここに立ち戻ればいつでも軌道修正できる、そんな作りになっています。


>  個人的には、「写生と説明の違い」についての解説が、とても腑に落ちる内容でした。他にも、“分かりそうで分からない”または“分かったつもりになりがち”な部分について、的確に押さえられています。


「写生と説明」、どう違うのか?
42p
「虚子が言った客観写生とは、感動を直接表現するのではなく、感動の中心を具体化し、単純化して描き出すことです。」

例:
【説明】しやぼん玉無邪気にとばす子ども心
【写生】しやぼん玉追ひかけとびつき子どもたち

【説明】しやぼん玉小さく低く浮いている
【写生】しやぼん玉ふはふは地面すれすれに


「とりあわせ」も絵で図解してあるので、「なるほど、ただAとBをとりあわせただけではダメなのね。AとBが地下水脈でつながっている、それがコツなのね」と、初心者でも一目で分るようになっています。

例(実際は絵になってます):おそるべき君等の乳房夏来る 西東三鬼

(A)おそるべき君等の乳房/(B)夏来る
       (A)躍動感/(B)暑さ
共通項  (A)エネルギー/(B)エネルギー


と、こんな具合。
見開き2ページに要点が例句とともにまとめられているので、引きやすいことダントツ。

オススメです!


 

池田澄子×佐藤文香

 投稿者:比々き  投稿日:2019年 3月12日(火)16時14分48秒 softbank060148116079.bbtec.net
返信・引用 編集済
  堀井鶏の句を捜していて、偶然見つけました。
お二人の対談は前にもご紹介しましたが、これも又、おもしろい!
是非お読みになってみてください!

https://sheishere.jp/interview/201808-ikedasato/

心に留まった言葉を、一部抜粋、転載。

《視点がずらされ、目の前の景色がゆさぶられる感覚。知っている言葉の組み合わせなのに、たった17音に脳内がかきまわされていく。》

《共感ではなく驚嘆の視点が大切》

《ものの見方によって世界の認識が変わる》

《佐藤:私は面白いことしたいとは思っていたけど、書きたいと思っていたわけじゃない。そして、書きたい思いがなくてもできるというのが、俳句の面白さなんです。「言葉で面白いことをしよう」とさえすれば、作品ができてしまう。》

《池田:人が何かを感じる前に、「事象」があるわけです。その事象だけを書くことで、読んだ人が自ら何かを感じてくれるんですよね。だから、つくるときには観念を込めなくても、結果的に観念や情緒はついてくるものなのです。》

《池田:とある一場面を切り取った断面だったはずが、永遠の主題になることがあるんですよね。その刹那が永遠とつながると、名作になるわけです。》

《佐藤:私は書きたいものはそのときによって変わりますけど、自分が「あっ!」って思った空気感を捉えたいというのは一貫しているかな。》

《佐藤:あと、私の場合は、俳句を始めた中学生の頃から、目の前のものはどうしたら、これまでなかった見方ができるだろう? と考えていました。》

《池田:たとえば桜がはらはら舞って儚くてきれいだなあと思うのは当たり前。それを意識的に捨てるんです。根性悪いですよね(笑)。》

《佐藤:やりたいのはみんなの共感を集めるのではなく、びっくりさせること。言われるまで思ってもみなかったけど、確かにそうだ! と感じてもらえるものをつくりたいです。》

《池田:はじめに書いたものが、推敲してどんどん変わっていって、違う句になったときにようやく本心が出てきます。「あ、私こういうこと書きたかったんだわ」って。そうなったときが完成です。》

 

書斎訪問&俳人インタビュー

 投稿者:比々き  投稿日:2019年 3月12日(火)15時12分0秒 softbank060148116079.bbtec.net
返信・引用
  出版社「文學の森」の結社の主宰へのインタビュー動画です。

https://www.youtube.com/user/bungak8194/videos?disable_polymer=1

どんなきっかけで俳句の世界に入ってきたのか、俳句をどういうものと捉えているか、どういう姿勢で俳句と向き合っているか、師から何を学んだか、などなど、俳句と長年格闘してこられた方々の含蓄のある言葉に学ぶこと多々。

私はちょっと集中が途切れたときなど、箸休めのように見ています。
オススメです。

 

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